アリス(2)
木製のペーパーナイフを握り、そっと隙間から刃を滑らせ開封する。
差出人── つまり、アリスの失踪した兄── の名以外は何も書いていないそれを、ジュリアの『性質の悪い悪戯かもしれない。そのまま処分した方がいいんじゃない?』という忠告を聞き流してまで手放さなかったのは、何か予感のようなものを感じたからかもしれない。
とても、状況が良く似ていたのだ。兄がいなくなってしまった時と──。
あの時も郵便受けに手紙が入っていた。
兄から自分に宛てて手紙を貰うなど初めての事で、アリスはそれを見つけた最初こそ面白がって喜んだ。
何しろ同じ屋根の下で暮らしているのだ、手紙になんてわざわざ書かなくても、用事があれば直接言えばいい。
それをわざわざしないで手紙などという回りくどい手段で伝えるなんて、きっと兄が考えた新しい遊びなのだと思ったのだ。
…しかし。
中を見たアリスは、首を傾げる事になった。
というのも、見覚えのある兄の文字で書かれていた事は随分と意味不明だったのだ。
そこにはこう、書かれていた。
『親愛なる妹、アリス。
クロウサギがやって来て、お前に鍵を渡す。
なくさないように大事に持っておいで。
時の砂が全て落ちるまで、お茶会はまだ始まらない。
クロウサギが女王の国へ連れて行ってくれる。
約束の時が来るまで、そこにいるんだ。
鍵といつか交わした僕との約束だけは忘れずに』
まったく意味がわからずに降参したアリスは、兄が帰宅した時に一体どういう意味だったのか尋ねようと、兄の帰りを首を長くして待った。
いつもなら学校が終わるとすぐに帰ってくる。時計を見るともうそろそろ帰ってきて良い時分だ。
…ところが、その日どんなに待っても兄は帰らなかった。
不安に怯えて眠れぬ夜を過ごした翌日。
玄関先で鳴ったベルに飛びつくようにして扉を開けると、そこには『後見人』を名乗る見知らぬ男がいて、アリスにこう言ったのだった。
『アリス、君の兄はいなくなってしまった。この家は幼い君が一人で住むには余りにも広い。丁度君は九月から学校へ通う事になっていたね? いい学校がある。全寮制でね、衣食住はそこにいる限り困る事はない。特別に話をつけて、学校が始まる前からそこで暮らせるように手配しよう』
黒い髪に黒い瞳、黒ずくめのその男は笑顔こそ優しかったが、何処か強引だった。
幼いアリスには男の言葉の半分も意味がわからなかった。ただわかったのは── 兄がいなくなった、という最初の言葉。
何処に行ったの、と尋ねるアリスに、男は困ったように肩を竦めるばかりで答えてはくれなかった。
そのまま有無を言わさず、アリスを乗ってきた車に乗せてしまうと、自分自身は乗らずに運転手に行く先らしきものを告げ、事態の展開について行けないアリスには謎の言葉を別れの挨拶のように口にした。
『満月。クローバーの庭。銀のうさぎ』
呪文のような単語だけのその言葉に首を傾げ、何の事かと尋ねかけた時にはもう車は動き出していて。
結局そのまま、アリスは今いる学園にほとんど身一つで連れて来られてしまったのだった。
手に持っていたのは、最後に兄が自分に宛てた手紙だけ。
数日後、アリスの身の回りの物が全て届けられ、なし崩しにアリスの学園での生活が始まっていた。
…あれから、十年。
兄の消息はようとして知れず、『後見人』はその後姿を見せる事無く、アリスは十七歳になっていた。
(…生きていたの? どうして今頃になってこんな手紙を出したの、兄さん……)
まだ完全には信じ切れない。
何しろ、十年という月日はあまりにも長過ぎた。
あの『後見人』の言葉は、もしかしたら兄が死んだ事をあえてぼかして表現した言葉だったのではないかと、思うようにすらなっていたのだ。
…そんな状況に、この手紙だ。アリスの心が乱れるのも当然だと言えた。
切り開いた場所から中を覗くと、封筒の中には無地の便箋らしきものが一枚だけ折り畳まれて入っていた。
取り出そうとして、ふと思いついて窓辺に置かれている自分の机に歩み寄る。
引き出しの一番上。そっと開くとそこには小物と一緒に古びた手紙が入っている。── あの時の手紙だ。
それを手にとって、今日届いた手紙の差出人のサインとそこに記されたサインを見比べる。
十年の間に文字の丁寧さが幾分変わっていたけれど、ほんの少し右上がり気味に書かれている所はそっくりで、同じ人が書いたものだと証明しているかのようだった。
(……)
意を決して、ついに便箋を引っ張り出して広げると、そこには最初の手紙を彷彿とさせる言葉が並んでいた。
『親愛なるアリス。
まだ僕の事を覚えているだろうか。
お茶会の準備が整った。
クロウサギに渡された鍵は、ちゃんと持っているかい?
それだけあれば、何も他にはいらない。
シロウサギが君を迎えに来る。
彼について扉を開けてごらん、アリス。
約束した「不思議の国」が、その先で君を待っているよ。
道に迷いそうになっても大丈夫。
君が僕との約束を覚えている限り、何も心配はいらない。
親愛なるアリス。
「不思議の国」に来れるかどうかは、君の勇気次第だ。
優しい誘惑に君が負けない事を祈る』
「…どういう事……?」
思わずアリスは呟き、もう一つの手紙と見比べた。
同じだ。
少なくともこの手紙を書いた人物は同一人物に違いない。そうでなかったら、ここまで符牒が合うはずがない。
という事は──。
(やっぱり、兄さんは何処かに生きている?)
しかし、その反面思ってしまう。だったら何故、今なのだ、と。
生きていたのなら、どうしてこの十年の間に一度も連絡をくれなかったのだろう。
この世に一人きりかもしれない、と淋しさに眠れない日や休暇で帰省してゆく友達の後姿に感じた羨ましさを思い出す。
今まで放っておいて、何故こんなふざけた手紙を寄越せるのか、と。
…彼が自分の居場所を知っている事に関しては疑問には思わなかった。
きっとあれ以来一度も姿を見せない『後見人』から伝わっているだろうし、ひょっとしたら『後見人』にここへやるように兄から頼んだ可能性すらある。
というのも、彼が残した最初の手紙には、現在アリスがいる場所を示唆する言葉がちりばめられているからだった。
クロウサギが女王の国へ連れて行ってくれる── 黒尽くめの『後見人』によってつれてこられたこの地の名前はクィーンズフィールド、すなわち『女王の国』。
やって来たあの紳士を『クロウサギ』とするならば、自分はこの場所で兄が言う『お茶会の準備が整う』までここで待っていなければならないのだろう。
そして、今回の手紙──。
(準備が整ったって、どういう事なの? 何故十年もかかったの? …何故、何も言わないで突然いなくなったの?)
…兄と交わしたという約束の事はまだ覚えている。
物心つくかつかないかの頃だったのに、今もまだはっきりと。
兄は『不思議の国』が見つかったら一番にアリスに教える事を。アリスは何があっても兄の事を信じる事を、それぞれ指きりして約束した。
でも── 年端も行かない子供の頃ならともかく、十七歳の今、そんな他愛ない約束を頭から信じる事が出来ないのもまた事実だ。
…もう、『不思議の国』が現実には何処にもない事を知っているから。
ジュリア辺りがこの手紙を見たら、きっと一笑に付してしまうだろう。『手のこんだ悪戯ね』、くらい言うかもしれない。
しばらく二つの手紙を交互に眺め、結局アリスはその二つをそっと机の引き出しにしまった。
謎かけのような手紙の、その示す意図もよくわからない。からかわれている気もするし…捨てて、忘れてしまうべきなのかもしれないけれど。
反面、この暗号のような手紙の真意を汲み取れば、何か大事な事がわかるような気もするのも誤魔化しようの無い事実だから。