アリス(1)
シロウサギを追いかけて、不思議の国へ駆けておいで。
昔、話して聞かせた話を覚えているかい?
僕は約束を守ったよ。今度は君の番だ。
早くおいで、アリス。
お茶会の時間はもうすぐだ。
シロウサギは待ってはくれない。
遅れないように、見失わないように。その背を追って、急いでおいで。
…不思議の国へおいで、アリス。
+ + +
学校から帰って習慣のように覗いた郵便受けに、自分宛の手紙が一通入っていた。
「アリス? どうしたの、変な顔をして」
郵便受けの前で立ち尽くす彼女を怪訝に思ったのか、ルームメイトのジュリアが背後から声をかけてきて、アリスはようやく我に返った。
「え、うん…ほら、手紙」
「手紙?」
「うん、わたし宛なの」
何となく手に取るのが躊躇われて、郵便受けの中を指で示すと、ジュリアもおや、という顔になる。
「本当だ。…取らないの?」
「え。だって…わたしに手紙が来るなんて、何だか不思議で」
何処か不安そうなアリスの言葉に、ジュリアは呆れた視線を向けてくる。
たかが手紙一通。アリス自身もそう思うのだが、でもどうしても手が出ないのだ。
何しろ、アリスが個人的な手紙を最後に受け取ったのは十年前。それから一度もアリス宛の手紙が届いた事はない。
だからアリスはアリスでも、別のアリスに届いた手紙かもしれないと思うし、『アリス』という名前は、特に珍しい部類の名前ではない。
実際、ジュリアと通う学校にはアリスという名前を持つ少女が両手の数は存在している。
「何言ってるのよ。個人的な手紙だとは限らないじゃない」
しかし、現実的なジュリアはアリスの微かな期待と不安をそんな言葉で一蹴した。そしてさっと件の手紙を郵便受けから取り出すと、ほら、とアリスの手に押し付ける。
「ダイレクトメールにしちゃシンプルだけど、その可能性もあるでしょ? そんなに気負わなくても、手紙が噛み付く訳じゃないんだから」
「…う、うん。そうだね」
押し付けられた手紙をそっと持ち上げる。
住所は間違っていないし、確かにアリスへの手紙だ。それを確かめてから手紙を裏返すと、差出人らしき人物のサインがあった。
「…え?」
そこに記された綴りを確認した瞬間、アリスの顔ははっきりとわかる程に血の気が引いた。
「どうしたの、アリス?」
先に部屋へと行きかけたジュリアも、アリスの異変に気付いてまた戻ってきた。
背後から覗きこむように差出人の名前を見つめ── そしてジュリアの顔もまた固く強張る。
「…そんな……」
呻くように呟くジュリアの言葉には、明らかに信じがたいという感情が込められていた。
「ね、もしかしてこの名前って…アリスの──」
「……」
アリスは青ざめたまま食い入るように差出人のサインを見つめる。
その名を、アリスはよく知っていた。この十年というもの忘れた事は一度もない。
震える指でそっとその文字を辿り、やがて吐息と共に小さく呟いた。
「──…兄さん……」
+ + +
アリスに両親の記憶はない。
物心つく頃にはすでに亡くなってしまっていた彼等の事は、時として思慕を募らせる事はあっても、現実感を持った存在ではなかった。
写真すらもなく、どんな人物だったのかさえ人伝えに聞くばかりで、アリスにとっては寝物語に聞く御伽噺の住民と大して変わらなかった。
『淋しいかい、アリス?』
時折、近所のおじさんやおばさんにそう尋ねられる事もあったが、アリスはいつも決まって笑顔で否定したものだ。
『ううん! だって、お兄ちゃまがいるもの!』
── アリスには十歳年の離れた兄がいて、それがアリスの家族の全てだった。
優しい兄、賢い兄。自慢の、大好きな『お兄ちゃま』。
当時学生だった兄は、当然の事ながら丸一日側にいてくれる事はなかったけれど、その分家にいる間はアリスとの時間を第一に考えてくれていた。
眠りに就くまで物語を話してくれるのも兄だった。
不思議な物語、ほんの少し怖い物語。
勇敢な騎士や美しいお姫様が出てくる物語。
その中でもアリスの一番のお気に入りは『不思議の国のアリス』という話だった。
自分と同じ名前の少女が迷い込む、不思議な国の物語。
うさぎを追いかけて、小さくなったり大きくなったり、へんてこな生き物や人物と出会ったり。
あまり身体が丈夫でなかったアリスは、その頃自分の家からほとんど出る事のない生活を送っていた。
だから…憧れたのだ。まるで自分の代わりに『アリス』が冒険をしてくれているような気がして。
「お兄ちゃま。不思議の国って本当にあるの?」
わくわくしながら尋ねると、兄は優しく笑って頷いてくれる。
「あるよ。アリスが信じるのなら、きっとね」
「本当? じゃあ、信じる!」
妹の無邪気な言葉を兄はやっぱり笑って聞いていた。
当時はまだ十二、三歳程の少年ながらも、兄はアリスにとっては最も身近な『大人』だった。
彼の言葉はいつだって正しかったし、およそ欠点らしい所がなかった兄。そんな彼が言うのなら、本当に『不思議の国』はこの世界の何処かあるに違いない。
「いつか行きたいな……」
「行けるよ。いつの日か必ず」
完全に彼の言葉を信じきってそんな事を言う妹の布団の乱れを直しながら、兄は笑顔で答えてくれる。
その口ぶりはまるで『不思議の国』の場所を知っているかのようで、アリスは実際に兄は知っているのだろうと確信した。
兄は嘘をついた事がない。だからきっといつか、自分は行けるに違いない。
『アリス』が冒険した『不思議の国』へ──。
「その時はお兄ちゃまも一緒?」
「おや、一人じゃ行けないのかい?」
単に兄が一緒だったら嬉しいのに、という軽い気持ちで言った言葉に対して、返って来たのはそんなからかい混じりの言葉。アリスはむう、とむくれる。
時折、兄は少し意地悪な事を言う。概して子供扱いされて喜ぶ子供などいるはずもなく、アリスも反射的にその言葉を否定していた。
「そんな事ないもん。一人でも大丈夫だもん!」
そんなアリスをくすくすと笑いながら、兄はじゃあ、と片手を差し出した。
小指だけ立てたその手が意味する事はアリスもよく知っている。けれど、何故今この時に兄がそんな事をするのか理解出来ずに、自分よりも二回りは大きな手を見つめた。
「…お兄ちゃま?」
「約束しよう、アリス」
笑顔のまま、兄は言った。
「もし、僕が『不思議の国』を見つけたら、アリスにその場所を教えてあげるよ」
「本当?」
「うん。他の誰にも教えないで、アリスにだけ教える。だからね、アリス…アリスも僕と約束してくれるかい」
「なあに?」
不思議に思いながらも兄の言葉が嬉しくて、その小指に自分の小さな指を絡める。兄と約束事を交わすのは随分久し振りのような気がした。
…思えばこの時に交わした約束が、最後に兄と交わした約束だった。
「…これから先、何が起こっても僕の事を信じる。── 出来るかい?」
その瞬間、それまで笑顔だった兄の顔が急に真剣なものに変わる。それは兄が初めて見せた顔で、アリスは正直戸惑った。
兄を信じる事は今まで当たり前の事だったし、疑う事など考えもしない事だったからだ。けれどあまりに兄が真剣だったから、結局アリスは頷き、絡めた小指に力を込めた。
「うん…、わかった。約束する」
「約束だよ」
そして、指きり。
何処かほっとしたような兄の笑顔に、疑問を感じなかったと言えば嘘になる。
けれどその後、何事もなく日々が過ぎる間に、その時感じた疑問は薄れて時に紛れて消えていった。
穏やかな、兄と二人の生活はそうしていつまでも続くかに思われた。
── アリスが七歳の春。
兄が突然、アリスに何も告げぬまま失踪してしまうまでは。