ゴミを拾う、外へ出る。
私の住んでいる市は田舎である。明治時代に織物産業でその名を馳せたが、今は織物組合(とはいえ市議会選挙の集会場所として使われている所しか見たことがなく、普段は何をしているのかは謎である)の老人たちが伝統を残している。
横丁には、100年以上の歴史を持つ和菓子屋や乾物屋もある。だがそれらの店舗よりもホストクラブやバー、居酒屋が数を占めている。歩道にはタバコや空き缶が落ちているが誰も気にしていない。
割れて歪んだ自然石の間から伸びっぱなしの雑草と
1度触ったらサビが手に移りそうなベンチのバス停は、就職が決まってからなんの関心や目的もなく自堕落な生活をしている私自身に似ていて、どこか愛着を抱かずはいられなかった。
「このままではダメになりそうだ」と危機感を持っているのに何をすればいいのか分からない。この抽象的な不安から逃れるために、私は何かに夢中になる必要があると考えた。そこで私が行ったのは、空き缶拾いだった。
私が夢中になれること、それは掃除だ。はじめは先生に褒めてもらいたいという欲求から行うことが多かった。だが、時が経つにつれて汚れたものをキレイにすることに快感を覚えていた。思い返せば中学生の時、雨の降った翌日にコート整備をするためにスポンジを使って、頼まれてもないのに1人で黙々とバケツに吸った水を移したものだった。
はじめは、空き缶を自販機に併設して置かれている捨て場に捨てることから始まった。特にアルコール飲料の空き缶(主にストゼロ)は飲みかけのまま捨てられていることが多かったので中身を捨ててから捨てるようにした。
この時に気をつけなければいけないのは、中身が多く入ったペットボトルだ。小便ならまだいいが、ごく稀にアルコール飲料が入っていることがある。これは開ける時に顔から遠ざけないと目に入る可能性がある。
私はこれに1度引っかかり目の近くに飛んだため気分を害し、一度は心が折れたものだ。
少し話が逸れたが、私はごみ拾いを通して「外に出る習慣」を身に付けることが出来た。また、夢中になる度に活動範囲が広がっていった。自然と少しでも多く空き缶を拾おうと足が動くようになった。
私にはゴミ拾いをしていて嬉しかったことがある。それは、繰り返し空き缶を捨てる場所を毎日片付けていたら、2週間ほどで缶のゴミ袋が置かれてそこに空き缶を捨てるようになった事だ。誰かが私の行動を見てくれていたことが嬉しかった。 また、空き缶拾いを継続することで結果が出たことに自信を持つことができた。
さて、外に出る習慣と自信がついた私はついに散歩をするようになる。だが、そんな私を苦しめたのは私自身の肉体とコンプレックスだった。
続く