38話 より一層、私の筋肉に触れてもらう
「ではその婚約、破棄しましょう」
「……何故だ」
声が一段低くなった。
「いえ、私にはやっぱり無理かなって」
このままずるずるしてたら離れられなくなる。オレンに終わりを告げられたら仕事だってできない。
痛みはかなりあるけど今ならまだ間に合う。前と同じ関係、距離に戻れるはずだ。
「嫌な思いをさせたか」
社交界で令嬢に絡まれた件だろうか。
「いえ、オレンがいつも側にいてくれたから大丈夫でした」
「だが少し離れた隙に令嬢から一方的に言われていただろう」
「まあ慣れてますので」
笑ってもオレンの顔は強ばったままだった。
肖像画は描ききる。描きたかったし、彼は描くことを許してくれた。ここまでだ。
私が図々しくオレンと距離も近くいられるのはここまで。先を欲張ってはいけない。
「ミナ」
「はい」
難しく真面目な顔をしたオレンが静かに言葉を発した。
「私の筋肉は見たくないのか」
「え?」
「私の筋肉を恒久的に見たくないか?」
そりゃ永遠にマックスレベルの筋肉見られるなら幸せだけど!
「ミナは私の筋肉を気に入っている」
「は、はい」
「毎日好きな時に見放題になるのはかなり魅力的ではないか?」
「あ、う」
「もう一度訊こう。私の筋肉を見たくないのか?」
「ああああ見たいですううう!」
そうだろうとオレンは満足気に頷いた。
「ミナと私は切っても切れない関係なわけだ」
「うぐぐ」
筋肉が悪い。あんないい筋肉を持っているから! 本当罪深い筋肉よ。
おのれ、全体バランスマックスめ。
「婚約してれば何かと便利だろう」
オレンにとっては虫除け、私は筋肉見たさに近いところにいられる。
「私はこのまま結婚したい」
「はい?!」
私の驚きように「まだ早いか」と囁かれた。
「ミナ」
「え、わ」
手をとられ抱き寄せられる。
「どうだ」
「え?」
「大胸筋」
「は、はい! 締まりよく厚み充分、弾力も力強く確かな安心感があります!」
あ、つい応えてしまった!
思いのほか自分が気持ち悪いとよく分かる……でも今更かな?
もう何度もやってるしね。
「ふ、はは」
「オレン?」
「ミナを満足できるのは私だけだし、筋肉を目の前にしたミナを相手できるのは私だけだ」
確かにこの大胸筋は唯一無二。この筋肉を前に自分を抑えることはできない。筋肉を前に豹変する私を引くことも嫌悪することもなくオレンは付き合ってくれる。いくら優しい人だからってここまで寛容になれるの?
「利用できるなら自分の筋肉なんていくらでも利用するさ」
「オレン」
「私が女性を苦手にしていたのは知っているね?」
「はい」
ゆっくり話してくれた。
爵位や騎士団長の称号目当てに近づいてくる令嬢たちの執拗なまでのアプローチ、騎士団に侵入はおろかあの香料の時のごとく毒を盛られた時もあったらしい。
「香料から守ってくれた時、身を案じ助けてくれる女性がいるのかと驚いた」
彼の経験が"女性は人を助けない"と言っている。助けてもらえるはずもなく、むしろ思い描いた通り毒を食らうオレンの姿に喜ぶ令嬢が多かった。女性を否定しないと自分がおかしくなるぐらいの長い時間苦しんだ。
けどそこに私が現れる。
仕事とはいえ側にいても不快感を催さず、一際よく働き人をサポートするような人間は初めて見たと。いつしか私とならお茶を飲めるようになった。特別の証だと言う。
「あの香料の件があったから気づくことができた」
すっと私にのびたまなざしは揺るぎない輝きを携えていた。グレーの瞳に力が入る。
「ミナ、」
「言わないでください」
なにを言うか分かる。けど今の私には応えられない。
今さっき、私は彼に婚約の解消を申し入れた。なのにオレンの言おうとした言葉が嬉しいし、あっさり自分の覚悟と気持ちがひっくり返ってしまうのが分かる。
だめ。
こんなぐらぐらで筋の通ってない今の私で応えたくない。自分が自分であると、はっきり決められた時に応えたかった。
そんな私の状態をオレンはすぐに察する。
静かな時間の後、静かに頷いた。
「分かった」
だが、と言葉が続く。
「今まで通り絵は描こう」
「はい」
肖像画を描ききることに集中しよう。
一気に全て失うのが怖かったから、段階的にまずは婚約破棄からと申し出た。けど、このやり取りでオレンは怒らなかった。肖像画ですらなしになる可能性もあったかもしれない。私ってば本当考えなしね。
ここは怒っていないオレンの優しさに甘える。
「今まで通りアプローチもする」
「え?」
「いや今まで以上に、かな?」
「え?」
いやらしい笑みを浮かべるオレンに一抹の不安を感じる。
「これからはより一層、私の筋肉に触れてもらう」
たくさんの小説の中からお読み頂きありがとうございます。
シリアスなんだかコメディなんだかという中途半端な流れはミナのまだポジティブに振り切れてないメンタルに則って書いている感じです。とはいえオレンが手段を択ばないが故の筋肉ネタ(=コメディ)でもあるわけですが…ミナの弱点なんでね、筋肉オタクなところは。