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「そろそろ馬車に戻ろうか。君も仕事の最中だったろう。」
アルベルト様が時計を確認してそう言う。
確かにかなり時間が経ってしまったはずだ。アルベルト様の貴重な時間を使わせてしまったことも申し訳がない。
「では私は元来た馬車に……」
「あれは先に返しておいた。どうせ向かう場所は一緒だから私の馬車に乗っていきなさい。」
使用人が主人の馬車に乗っていいのだろうか。
私が戸惑っていると、それに気づいたのかアルベルト様が声を少し潜めて言った。
「さきほどの男のことで話しておきたいこともある。」
そう言われると断ることもできない。大人しく従ってアルベルト様の馬車へ乗る。向かいに座ったアルベルト様は、先ほどとは違って硬い表情をしている。
やがて重々しく口を開いた。
「……君は私の妹のことを知っているかい?」
(はい、とてもよく知っています。私ですから。)
もちろんそんなことは言えない。
「……ルシア様でいらっしゃいますよね。お話ししたことはありませんでしたが、私も同じ学園に通っていましたので、お顔は何回も拝見しておりました。」
そう。私もルシアと同じ学園に通っていた。そして同じ学年でもあった。私もあの卒業パーティーの場にいたのだ。
「君もあのパーティーに参加していたと思う。そしてそこで起こったことも見ていただろう。……しかし私は妹の罪を認めてはいない。」
そうだろう。アルベルト様はあの時必死に公爵家を守るため耐えていた。でもルシアを想う気持ちもそれに負けないものだったはずだ。
「……私はルシアの冤罪の件を調べている。今日あの場にいたのもそのためだ。」
やはりそうだった。アルベルト様もあの事件を調べていたのだ。そしてあの場にいたということは……
「……あの騎士様がルシア様の冤罪に関わっているということなのでしょうか?」
口に出すと自分の声が震えていることに気づく。どうやら私はあの騎士のことが相当トラウマなようだ。殺されたのだから当たり前だけど。
「私はそう睨んでいる。でもまだ確実だと言えるだけの証拠はない。だから君も今回の件は忘れるように。決して他言してはならない。」
アルベルト様の強い視線を受ける。
今の私は頷くしかない。
そうして話しているうちに公爵邸に着いた。先に馬車を降りたアルベルト様が、手を差し出してエスコートしてくれる。馬車の中の硬い表情とは違って、柔らかな優しい眼差しをしている。
こんなふうにエスコートされるのは、ルシアの時に慣れているはずなのにドキドキがおさまらない。シャルルの記憶を思い出してから、なんだかお兄様が別人のように見えてくる。
仕事を終えて、自分の部屋に戻っても胸の高鳴りはそのままだ。
これまではシャルルの体の中にいても、公爵令嬢のルシアとしての意識が強かった。
前世の記憶も混ざったその性格は、以前の公爵令嬢の自分とは違って、だいぶ大雑把でお転婆になってしまった気はするが。でも、あくまでルシアはルシアだった。お兄様の、推しの幸せのため奮闘する。その一心でこれまで動いてきた。そこに崇高な愛があったとは思うが、胸がときめくような恋愛感情とは全く無縁のものだった。
ところがシャルルの記憶を取り戻してからはどうだ。今日もあの後、お兄様の姿をちょっと見かけただけでドキドキしてしまった。もともと見目麗しい素晴らしいお兄様だったが、以前より三割増しでキラキラと輝いて見え、神々しささえ感じるほどだ。
以前はお兄様の幸せを見送ったら自分の意識は消えると思っていた。それでいいと。
でも今はできれば自分が彼を幸せにできればと思ってしまう。隣で彼を支えて、隣でずっとあの笑顔を見ていられたらと……。
(こんな気持ちはダメよ!お兄様に対してこんなこと思うなんて!)
いや、正確には今は兄妹でも何でもない、ただの子爵令嬢なので悪いことではないのだが。
でもどちらにしろ、自分は子爵令嬢。今は使用人。公爵家当主であるアルベルト様とは、まったく身分が違う。
間違えてはいけない。あくまで自分は、お兄様という推しを応援するだけの存在だ。
*****
しかしそんな思いに反して、それからは徐々に子爵令嬢としての自分の記憶を取り戻すことが多くなった。
夜会でいつも女性に囲まれるアルベルト様を遠くから盗み見ていたこと。学園に入学して、アルベルト様とルシア様が並ぶその麗しい光景を、拝みながら見つめていたこと。卒業後の行儀見習いの場がロレーヌ公爵家と決まって、飛び上がって喜んだこと。両親も大喜びでささやかなお祝いパーティーを開いてくれたこと。あの卒業パーティーでルシア様を抱きしめながら涙しているアルベルト様を、何もできない無力さを噛みしめながら見つめていたこと――――
そして思い出すにつれ、アルベルト様を見たときの胸の高鳴りが強くなる。彼に話しかけられた日には、あからさまに不自然な反応をしてしまう。毎日自分の心臓が止まらないか不安を感じる日々だ……。
*****
ある時、アルベルト様の執務室を掃除していた時のことだ。
一枚の報告書が机の下に落ちているのを見つける。拾い上げ何気なくそれを見ると、どうやらルシアの冤罪事件についての調査書のようだ。悪いこととはわかっていても、思わずまじまじとその書類を見てしまう。
どうやらそこには、ルシアのマリーへの嫌がらせや強姦未遂事件の証言を提出した生徒の名前が載せられている。かなりの数がいるが、その中にシャルルはよく見知った名前を見つけた。
(ブラウ・ハーバー)
シャルルの幼馴染の男爵令息の名前だ。
その名前を見た瞬間、これまで思い出さなかった記憶が急に蘇る。
――――学園パーティーを数週間先に控えたある日。普段あまり人通りのない学園の庭園で、幼馴染のブラウの姿を見つけた。久しぶりに会った彼に、声を掛けようと近づこうとした時だ。
そばにあの騎士がいるのを見つけた。
彼と話しているブラウはなんだか青い顔をしている。重い空気に声を掛けるのをやめ、思わず物陰に隠れる。
「お前が――――これを証言するんだ」
「でもこんな―――を貶めるようなこと私には……」
「お前の家はうちの傘下だ。逆らえば家ごと没落することになるぞ。私の家が男爵家に援助していることもわかっているだろう。」
(彼は第一王子殿下の騎士の……マテオス侯爵家のジェイド様だわ。)
所々聞こえない部分もあるが、もしかするとブラウは脅されているのではないか。止めに入ろうかと悩んでいると、反対から人がこちらに来る気配がする。彼らもそれに気づいたのか、ジェイド様は手に持っていた文書をブラウに押し付け、そのまま去って行った。ブラウもすぐにその場を去ってしまったため、結局声は掛けられなかったのだ。
それからずっとあのことが気にかかってはいたが、その後ブラウは学園を休んでいた。
そしてあの卒業パーティーの断罪劇が開かれたのだ。
卒業パーティーでルシア様の嫌がらせの証言が出た時。私はブラウがジェイド様から脅されていたのは、このことと関係しているのではないかと思った。
だってこれまで私は、ルシア様がマリー様をいじめているところなど一度も見たことがなかった。いろいろな噂は出回っていたが、ルシア様はいつも気にされていない様子で、友人や他の生徒たちからも、嫌がらせの現場を見たことがあるなど誰からも聞いたこともなかった。
どう考えてもあの断罪劇は不自然なところが多い。しかしこの国の王権は強力だ。その場で王族に反論できる者はいない。
家に帰ってからも必死に考えた。自分はジェイド様があやしいと思っている。でも証拠はない。あの時あの現場を見ていたのは自分だけだ。しかも話も全て聞き取っていたわけではない。
どうしようか悩んでいると、その夜高熱を出してしまった。ルシア様のあんな姿を見てしまったからかもしれない。あの時のアルベルト様の涙が頭から離れない。
それからしばらく熱は下がらず、私は熱にうなされる日々を送ることになった。
そして目覚めた時にはすっかりシャルルの意識はなくなっていたのだ。シャルルはあの断罪劇で殺されたルシアになっていたのだから。