4
それからは少しだけお兄様に関わる仕事が増えた。外出時に着る上着の手入れや、靴やタイといった服飾小物の選定。私室の掃除。人手が足りない時には、晩餐のテーブルコーディネートなども手伝った。どれもお兄様の心を安らげるのに欠かせない仕事だ。一切手は抜けない。
前世のゲームの記憶を思い出す。
アルベルトは雨の日には必ず、焦げ茶の靴を選んで履いていた。足元の泥がふとした拍子に靴にはねることがあっても、できるだけ目立たぬようにするためだ。少しの雨でも、嵩張る外套を忘れない。雨でシャツが濡れることを極端に嫌うからだ。
ゲームでは、そうしたアルベルトの行動を、気難しい彼の性格を象徴するもののように描いていたが、それは違う。
若くして公爵位を継いだ彼は、他の貴族に侮られぬよう外出時は常に見目を気にしていた。少しのマナー違反が、貴族社会では致命的になることもある。アルベルトは外ではいつも気を張っている。その負担を少しでも軽くするのが、我々使用人の、そして推しを愛する者の重大任務だ。外出時の服装は特に気を抜かず準備を整える。
逆に屋敷に居る時のお兄様は、ラフな服装が多い。お兄様お気に入りの白いシャツは、飾り気はまるでないが、その手触りは最上級だ。洗濯の際は特に気を付けて丁寧に手洗いする。高級な生地は傷みやすい。このさらさらなめらかな感触を死守しなければ。この世界は、まだオシャレ着用洗剤なんて存在しない。ひたすらこの手で丁寧に洗っていくのが一番だ。
部屋の掃除は特に気を使っている。お兄様の私室はとてもシンプルだ。ほとんど寝るためだけに使われていると言ってもいい。そのためベッド周りをよく整える。枕元にはあの薬草で作ったポプリを。これにはリラックス効果もあるはずだ。
ベッドの横に置いておく水差しには、レモンのスライスを一枚。お兄様はレモン水が昔からのお気に入りだ。そしてコップは通常よりも一回り大きいもの。水差しにも他の人より少し多めの水を入れておく。お兄様は水分をよく取る。ゲームの中でも、朝の気だるげな姿とともに、何杯も水を飲む姿が描かれていた。その色気漂う姿が、前世の私は特にお気に入りだった。
そして今日は、私が晩餐のテーブルコーディネートを任された日だ。
クロスは落ち着いた色がいい。しかし暗い色だと食欲を減退させてしまう。金の刺繍が施されたクリーム色のクロスを選ぶ。落ち着いた中にも、公爵邸らしい煌びやかな雰囲気も醸し出している。カトラリーとナフキンはいつも通りに。
(テーブルに飾る花は……今日は白のバラを主体にしたものにしようかしら。)
生前私は白いバラがとても好きだった。他の華やかな色合いのものと比べると目立たないが、公爵邸で育てている品種の白いバラはふわりとした花びらが幾重にも重なり、繊細な雰囲気を漂わせている。香りも食事の邪魔をしないほのかなもので、フルーツを思わせるような甘い香りが心地よい。
その日もお兄様は仕事が立て込んでいたらしく、夜も更けた頃、疲れた様子で晩餐の席にやってきた。今日は私も晩餐の席に控える侍女として、他の給仕と並んでその場に留まっている。
お兄様はいつものように、とても洗練されたマナーで食事を取っていく。しかし食事の間で、ふとテーブルの上に飾られたバラに目を向けた。
「このバラは……ルシアの好きだった花か。」
ぽつりとそうつぶやいた兄の表情が少し和らぐ。
(やったー!バラに心癒される推しの顔、いただきました!)
お兄様の表情を見た私は、心の中で盛大に喜びの雄叫びを上げた。
しかし再びお兄様に目を向けると、その瞳に悲しみが滲んでいることに気が付く。
(そうだわ。お兄様は私という家族を失くして、悲しみと憎しみで心を痛めているのよね。)
私といえば、こんな性格になって、自分が死んだことなど全く気に病んでいなかったものだから、そんな当たり前のことに気が回っていなかった。
(妹を思い出させるようなことは、お兄様に苦痛を与えるのかもしれない……)
先程とは真逆にしょんぼりとした気持ちになってしまう。
(復讐なんて忘れて、自分の幸せを一番に考えてとお兄様に伝えられたらいいのに……)
*****
それから私は、できるだけ私の痕跡を消すことに努めた。
お茶はこれまでルシアが出したことのなかったものを必死で探した。公爵邸に飾る花は、今の私が初めて知ったものを選んで飾っていく。
仕事の空いてる時間には本をたくさん読んだ。生前なかった知識を身に着ければ、新しいことで何かお兄様を喜ばせるものを見つけられるかもしれない。公爵邸は使用人のためにも、特別に小さな書庫を解放してくれている。夜遅くまでその書庫にこもることも多くなった。
仲良くなった庭師のおじいさんにリラックス効果の高いハーブを教えてもらい、ポプリも新しいものを作るようになった。お兄様が復讐を忘れて安らかに過ごせるようにと願いながら、毎日お兄様の枕元にそれを飾った。
しばらくそうして大人しく過ごしていた時のことだ。
いつものように屋敷の裏で、ポプリのためのハーブや花を干していた。なんとなく前世好きだった曲を鼻歌で口ずさんでいると、後ろから人が近づいてくる気配がする。追加で花を取りに行ってくれたダンおじいちゃんが戻ってきたのだろうか。
「ダンおじいちゃん、ありがとう。今手が汚れちゃってるから、そこに……」
花を近くに置いておいてもらおうと振り向いたところで、上質な靴が目に入る。
上を向くとそこにいたのは、アルベルトお兄様だった。
「アルベルト様……!」
まさか公爵様がこんな裏庭に来るとは思わなかった。いや以前も同じようなことがあったな。とにかく急いで頭を下げて謝罪する。
「申し訳ありません。庭師の方にお願いしていたことがあったので、その方が来たのだと勘違いしてしまいました。公爵様に大変な失礼を……」
すっかり使用人魂が身についてしまった私。さすがに家主を庭師に間違えるなんてまずい。冷や汗をかいていると、
「気にしなくていい。私が声も掛けずに近づいたからだ。普通こんなところに家主は来ないしな。」
お兄様の優しい言葉が耳に入る。
(さすがお兄様だわ。)
寛大な言葉に涙する。
「君はまたポプリを作っているんだな。」
お兄様は乾燥させていたハーブをひと房手に取る。そのまま香りを嗅いでいる。
「最近、あの薬草のポプリは作らないんだな。」
そうぽつりとつぶやいたお兄様の言葉に驚いてしまう。
お兄様は最初に作ったあのポプリのことを覚えていたらしい。
「……公爵邸に飾るには、薬草より香り専用のハーブや花を使った方が良いと聞きまして。」
驚いて呆然としていた頭を元に戻し、慌ててお兄様に返事を返す。
「私はあれも気に入っていたよ。あの香りは妹が好きだったものに似ていてね。」
そう言ったお兄様の表情は、やはり少し寂し気に見える。
「……公爵様は、あの香りでお寂しい気持ちになられたりしませんでしたか?」
使用人の発言としては失礼だとは思ったが、思わず口から出てしまった。チラリとお兄様の表情を盗み見る。お兄様は私の質問に不快感は感じていない様子だ。
「そうだな。妹を思い出して悲しい気持ちになることもある。……でもあの子の好きだったものを思い出せるのは嬉しいことだ。」
そう話すお兄様の表情は悲しみがこもったままだ。それでも少し微笑みながら話を続ける。
「ここ数年は忙しく、妹にも全然気を遣ってやれなかった。父母とともに妹と長くこの邸宅で過ごしていた昔が、私が人生で一番幸せな時だった。その頃を思い出すと少し心が慰められる。」
その言葉に顔を上げ、もう一度お兄様の顔を見る。お兄様はとても優しい目をしていた。
「また時間がある時は、あのポプリを作ってくれ。」
そう言ってお兄様はその場を去って行った。