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この世の公平性について真剣に考える話

作者: Eノ-ト

※本サイトページ→https://google-enote.blogspot.com/2021/12/world-is-unfair.html


昔々、大きな農場を経営する主人がいた

ある日の早朝、農場主は仕事を探している者何人かを日当1デナリオンで雇い農場に送った

そして夕方、そろそろその日の仕事は終わり頃という時に、誰からも雇ってもらえず立ち尽くしている者達を見つけた

気前のいい農場主はこの者達も雇う事にした

やがて仕事も終わり、労働者全員に日当が支払われた

すると驚く事に全員一律で1デナリオンが支払われていたのである

こうなると当然朝早くから働いていた者達は収まりが付かず、農場主に猛然と抗議した

「終業間際に働き始めた者と一日中汗水流して働いた者を一緒にするとは何事だ」

しかし農場主はこう答えた

「あなた達とは事前に日当1デナリオンという契約をした筈です、他の人にいくら払おうと私の勝手ではありませんか

私はただ皆に幸せになってほしいだけなのです」

これはある宗教の有名な例え話

この農場主は実は神の事であり、労働者達は人間の事なのだそうだ

神とは寛大で、長年にわたり信仰を捧げてきた者により多くの祝福を与えたり

まだ信仰を捧げて間もない者には祝福を与えなかったり、などということはなく信じる者全てに祝福を与える

そんなとても公平な存在であるということを伝えているらしい

果たして農場主は公平なのだろうか、不公平なのだろうか

これはこの世の公平性を真剣に考える話


「この世は不公平」、誰しも人生で幾度か出会う言葉ではないだろうか

誰かを羨んだ時、妬んだ時、絶望した時

そして何より人と人との間に差を見た時、人はこの世を不公平だと批判する

しかし何故不公平と断ずることが出来るのだろうか

この世を不公平だと言う者は往々にして不公平たる根拠を次のように語る

「裕福な家に生まれる者も居れば、貧しい家に生まれる者も居る

才能に恵まれている者も居れば、恵まれない者も居る

容姿端麗に生まれる者も居れば、そうでない者も居る

病気で若くして死ぬ者も居れば、生涯健康に生きる者も居る

恵まれる者がいる一方で恵まれない者がいる

故にこの世は不公平だ」

恵まれる者と恵まれない者がいることは紛れもない事実である

だが差異があるだけで不公平と言えるのだろうか

不公平の成立に差異は絶対必須、それは確かだろう

しかしだからと言って「差異=不公平」という事になるだろうか


世の中には様々な差異が存在するが、

例えばこんな格差はどうだろうか

「塀の中で死刑執行に怯え暮らす囚人」

「自由を謳歌し更に幸せを探究する市民」

普通これを不公平と言う人間はいないだろう

死刑囚は死という刑に相当する程の罪を犯しているのだからその報いとして恐怖や苦しみ、そして絶望を与える事は当然だ

そう考えるのが普通だろう

しかし結果だけを見れば、

「自由を奪われやがて殺される人間」

「安穏平和で自由に暮らせる人間」

これはとてつもない格差である

だが不公平とは言わない

それは公平性とは結果だけでなく経過を考慮しなければならないという事を示している

どの様な経過からどんな結果に至ったのかを知らなければ公平性を量る事は出来ない

「経過」と「結果」この両方が判定材料として不可欠なのである

そしてこの二つの組み合わせによって公平性は左右される

経過に差があるか否か、結果に差があるか否か

具体的に経過と結果の差の組み合わせと、その公平性を挙げるならば次の5つが考えられる


「経過に差がある場合」

・結果にも相応の差があれば公平

・結果に差が無ければ不公平

・結果に理不尽な差があれば不公平


「経過に差が無い場合」

・結果にも差が無ければ公平

・結果に差があれば不公平


即ち公平を旨とするならば差には差を、等分には等分を与えるべきであり

不公平を旨とするならば差には等分か理不尽な差を、等分には差を与えるべきだろう

分かり易く冒頭にあった”農場の労働者達”の喩え話で考えてみる


まず経過に差がある場合

「一日中働いて報酬が1デナリオンの者」と

「終業前に少し働いて報酬が1デナリオンの者」

これは労働量という経過に大きな差異があるにも関わらず、報酬という結果は一律同じという不公平である

これが”差に対して等分”の例である


これをもっと不公平にすれば次の通り

「一日中働いて報酬が1デナリオンの者」と

「終業前に少し働いて報酬が2デナリオンの者」

沢山働いた者が少ない報酬で、少しだけ働いた者が沢山の報酬が与えられる

これが”差に対して理不尽な差”である


反対にこれを公平にするなら次の通り

「一日中働いて報酬が1デナリオンの者」と

「終業前に少し働いて報酬が0.1デナリオンの者」

多く働いた者には多くの報酬を与え、少しだけ働いた者には少ない報酬が与えられる

これが”差に対して相応の差”である


そして経過に差が無い場合

公平にするならば次の通り

「全員が一日中働いて報酬が一律1デナリオン」

皆が同じだけ働いて同じだけの報酬を得るので当然公平である

これが”等分に対して等分”である


不公平にするならば次の通り

「一日中働いて報酬が1デナリオンの者」と

「一日中働いて報酬が2デナリオンの者」

全員が同じだけ働いているにも関わらず報酬に差が与えられる

これが”等分に対して差”の例である


勿論これはあくまで分かり易くした例であり大別のため、細かい事例の想定は省いている

以上の例で分かるように不公平には必ず何処かに差異が存在している

故に不公平には差異が絶対必須である

しかし公平にも差異が必要な場面は多い

公平を旨とする場合でも経過に差があるならば結果にも差をつけなければならない

故に「差異=不公平」ではないと言えるだろう

「恵まれている人間」と「恵まれていない人間」とは単なる結果にしか過ぎない

不公平と主張するにはその”差異”という結果が公平性を侵していると裏付けるだけの経過という根拠が必要である


するとこういう反論が出てくるだろう

「生まれや才能に一体どんな経過があると言うのか

生まれる前など誰も何もしていないし何も出来ないのだから経過も何もない

自分の行いや選択によって生まれた結果ならば経過を省みる必要があるという言い分も理解できる

しかし容姿や才能、環境や遺伝など、生まれ持った差異に関しては経過も何も無い

この世に生まれていきなり格差という結果がやってくるだけだ

先程の例で言えば”等分に対して差”である

故にこの差異は不公平である」


しかし経過が無いなどという事があるだろうか

結果には必ず原因がある

無から有は生まれない

もし貧しい家に生まれたなら、貧しい親が生んだからである

もし恵まれない環境に生まれたなら、その環境の中に親が生んだからである

もし病弱に生まれたのなら、病弱な遺伝子を親から貰ったからである

もし才能乏しく生まれたなら、才能乏しい遺伝子を親から貰ったからである

つまり人間の行いの結果である

もっと言えば、貧富の差や社会階級は人間の作った社会や築いてきた歴史によって出来たものであり

人種差別や男女差別は人間のエゴや偏見によって作られたものであり

容姿や才能の良し悪しは人間の都合や価値観が作ったものであり

地位や権力は人間が社会にヒエラルキーを作ったから生まれたものである

人間とは人間が産み、人間の世界は人間が作り、人間の価値観も人間から生まれる

それらが生まれ持った差となるのだから人間の行いがその経過である


「しかしそれは先人達の行いであって自分は関係ない

あくまで自分という存在は肉体が産まれてからやっとその内に生まれるのだから、自分が生まれる前の誰かの行いは自分が生まれて間もなく与えられる差とは関係しない

人間だろうと世界だろうと自分以外、つまりこの世が自分に何の脈絡もなく与える差である

即ちその差は不公平であり、この世は不公平だと言える」と言われるかもしれない

この反論は実は、正論である

不公平だという主張を否定的に語ってきておいて意外かもしれないが、事実である

経過を巨視的な視点で見たなら「人間が作った差なのだから自業自得」となるが

経過を微視的な視点で見たなら人間の経過は人間の経過にしか過ぎず、自分の経過は自分が生まれてからやっと始まるものであって、生まれ持った差は何の因果も無く突然に押し付けられる差である、ということになるのは当然である

「微視」と「巨視」という視点の違いによって正論も違ってくるのである

しかしこれが見解の相違の根幹ではない

重要なのはこの微視と巨視という二つの視点、このどちらから見るかは何によって定まるかである

それは「主観」と「客観」である

主観的にこの世の公平性を量ろうとすると経過を微視的に見ようとする

なぜなら主観とは自分中心で考えることなのだから人間の歴史もこの世の歴史も関係は無く、自分の歴史という経過だけで公平性を量ろうとするのである

対して客観的にこの世の公平性を量ろうとすると経過を巨視的に見ようとする

なぜなら客観とは全体中心で考えることなのだから自分の歴史だけで公平性を量ることは出来ないため、人間の歴史もこの世の歴史も経過として考慮するのである

ここによく思い違いがあるのではないだろうか


例えば、昔のあるドラマにこんな一幕がある

主人公である高校教師の男は癌に侵され医師から先が永くないと宣告された

しかし男はこの診断を受け入れられず何かの間違いだと医師に詰め寄り再検査を求めこう語る

「自分は今まで地道に生きてきた

高校生の時は少しでもいい大学に入れるように一生懸命勉強した

浮ついて女性と付き合ったりもしなかった

そして希望の大学に入った

就職は一般企業も考えたが方々転勤するような事を避けるため高校教師になった

転勤を避けたかったのは結婚してから家庭を持った時の事を考えたから

自分は何も大きな成功だとかを望んだ事はない

毎日平穏無事に暮らせればいい

確かに小さいことでなら色々望むことはある

でも大きなトラブルは一度も無く過ごしてきた

そんな自分がこんな目に遭う筈がない

おかしい、そんなのは不公平だ

これは絶対何かの間違いだ」


この主人公の気持ちは誰もが理解できるだろう

世の中には巨悪を働きながら裁かれもせずのうのうと生きている者もいる

富や名声、地位や権力、全てを手にしてしかも生涯安泰で健康に生きる者もいる

だが、自分は高望みをせず努力して慎ましく生きているにも関わらずこんな仕打ちを受けるのかと

分不相応に高みを望み過ぎて地に堕とされるならばまだしも、大人しく誰も傷つけず地道に歩みを進める者がなぜ地の底に堕とされなければならないのか

他者と比べて慎ましさや努力が報われなさ過ぎる

理不尽である、不公平だ、という感情


理解は出来るし、共感も出来る

しかしこれは”感情論”である

高校教師のような常識ある人間が「努力をすれば”必ず”報われる」

「慎ましく高望みせず生きれば小さな幸せを享受する権利は”確約”される」

といった様な”絶対”や”約束事”をこの世から与えられる訳がない事くらい理解している筈である

そういった約束事は人間同士で行うものである

取引が出来るのは交渉が可能な人間だけなのだから

この世との交渉など出来ないこと、この世が交渉の対象ではないことくらい理解している筈である

努力しても報われないかもしれない、耐え忍んでも損なだけかもしれない、誰もがそうやって先の分からない中で生きているのである

それに何が損で何が益なのか、何が恵まれていて何が恵まれていないのか、そんなものは人間の価値観でしかない

人間以外からしてみればそんなものは知ったことではないだろう

そういった客観性を無視して公平性を語っているのだから、高校教師の主人公が言う不公平は感情に基づいた「主観」なのである

しかし公平性にも主観と客観があることに気づかず主観から見た公平性を全てと思い込んでしまう

それはおそらく「この世」という不慣れな規模を対象にして、公平性を量ろうするために勝手が分からず主観と客観を混同してしまうのではないだろうか

だが主観としてならば不公平と主張することは可能だろう

自分なりの価値観に沿って自分なりの判定を下せるのが主観なのだから

高校教師の主人公が”一個人”対”この世”という微視的な視点で経過を見てあくまで主観的で個人的な公平性で量り、この世を不公平だとするなら彼にとってこの世は不公平なのだろう


この世は不公平か、ここで一つの答えを語っておくとすれば「この世は”主観的に言えば”不公平とすることは出来る」


ただそもそも人は「この世は不公平か」と問う際、主観と客観のどちらから見た結論を求めているのだろうか

主観からの結論を問うなら「あなたにとって」だとか、前置きをしておいて然るべきでないだろうか

例えば正義について人に問う場合、主観的な正義を問う際には「あなたにとっての正義とは何か」と問い、客観的な正義を問う際にはただ「正義とは何か」と問うのが通常だろう

答え方に視点の指定をするのは「あなた」という一点の視点から見た結論、つまり主観を求めているからであり、

答え方に視点の指定をしないのは視点を一つに定めず様々な視点を俯瞰して見た結論、つまり客観を求めているからと考えれば妥当な見解ではないだろうか

故に「この世は不公平か」という命題では客観的視点での解答が適当だと言えるだろう

即ち、ここからが本題である


まずは何より先に、この世の公平性を客観的に見るとはいかなる事なのかを考えなければならない

公平性を量る対象を”この世”にした時、その規模の大きさから客観的視点に対する次のような疑問が生じる

「視点が変われば価値観も変わる

誰かから見れば不公平でも誰かから見れば公平という事は多々あるだろう

喩えば人間にとってこの世が不公平だとしても、異星人から見ればこの世は公平かもしれない

これを客観的に公平性を判定するにはどうすればいいのだろう

喩えばある人間がある人間の行いに不公平だと批判したとする

反対に批判された方は自分の行いは公平だと主張したとする

このような時、人はどうやって客観的にどちらが正しいかを判定しているのか

多くの場合一般常識や社会通念など、世の中全体としての価値観を基準に判定するのではないだろうか

個人的な価値観を持ち出しては主観的な判定になってしまうのだから

つまり世の中全体の価値観というルールの下、判定を行うのが客観的な公平性となるだろう

しかしそれは結局人間の価値観で量るという事ではないだろうか

人間の価値観でこの世の公平性も客観的に量れるだろうか

全宇宙、この世の全ての公平性は人間の価値観で決定されるのだろうか

この世という規模で見れば人間全体の価値観は所詮人間という種の主観でしかない

客観視とは主観を含めないことである

人間社会で起きた出来事に対する公平性の判定ならば個人という主観から離れ、人間全体の価値観で見れば客観的視点と言えるだろう

だがこれは”この世”の公平性についての話なのだから、人間という種の価値観からも離れなければ客観視とは言えないのではないだろうか」


確かにこの世全体で見れば、人間の量る公平性は人類の主観と言えるだろう

ただ早まってはならないのが、何も客観とは観察する対象によって見るべき”全体”が定義される訳ではないということである

「人間社会の事だから人間社会全体で見なければ客観ではない」とは限らない

「この世の事だからこの世全体で見なければ客観ではない」とも限らない

喩えば世界経済の状況を客観的に見るとして、世界全体から見る客観もあるだろうが、

自国を全体として見る客観もあるだろうし、自社を全体として見る客観もあるだろうし、自家を全体として見る客観もあるだろう

「世界的にはこうだが国全体としてはこう見ている」だとか

「世界的にはこうだが社全体としてはこう見ている」だとか

「世界的にはこうだが一家全体としてはこう見ている」だとかである

どんな規模だろうと個から集団になればそこには客観的視点となる”全体”があり、どの全体から対象を観察するかは観察者が定義することである


では「この世は不公平か」と問われたら、どんな”全体”から量るのが適当なのだろう

これはもちろん世の中全体、人間全体の公平性で量るべきではないだろうか

それは何故か

そもそもこれは”人間全体”か”この世全体”かの二択と言えるだろう

まず人間全体より規模の小さい全体という事はないだろう

「この世は不公平か」という何の視点の指定も無い問いなのだから、人間世界のどの視点にも囚われず俯瞰して見た視点だと考えられる

反対に、人間全体より規模の大きい全体ならばこの世全体以外には無いだろう

人間世界からも離れた視点ならば、人間以外に知的生命も確認出来ていないし、神の存在も証明出来ていないのだから、人間以外の視点とはこの世の全てを俯瞰して見た視点以外には無いだろう

故に二択である

しかし実際のところ人はこの世の公平性を量る際に「人間全体から見てなのか」「この世全体から見てなのか」などとは考えないだろう

公平性とは人間の概念であり、人間以外にこの概念を持っている存在は確認できない

それはつまり人間にとって人間の公平性が”公平性の全て”であり、人間全体の公平性で量ることが人間にとって”最大の客観的な公平性”なのだろう

故に人間全体の視点も、この世全体の視点も同義なのだろう

もちろん実際は人間以外に公平性という概念を持った知的生命がこの世のどこかに存在するかもしれないし、人間全体で見た公平性が最大の客観ではないかもしれない

しかし重要なのは人がどのような意図でこの世の公平性を量っているのかである

それによって問題の定義が変わってくるのだから

そもそもこの世全体の視点で公平性を量るなんてことは出来ない

この世全体の視点で見ようとするならこの世の全貌を知らなければならない

しかし我々人間にそんなことは分からないため、ただの推測や憶測になるだけである

故に”正しき”この世全体の視点から見た公平性など定義できない

つまり結局この世の公平性は人間全体の視点から量るべきである


因みに念のため断っておくと人間全体の視点とは決して人間全体がこの世を不公平だと言えばこの世が不公平になる、という事ではない

人間全体の公平性という概念、そのルールをこの世という対象に当てはめ論理的に推し量った結果、公平か不公平かという意味である


そして人間全体の視点で見るべきという理屈は「この世を時間的、空間的にどのように捉えて公平性を量っているのか」という問題に対しても言えることである

喩えば次のように考えることが出来る

「この世は不公平、と人は言うが”この世”とはどこからどこまでを指しているのだろうか

全宇宙のことだろうか

もしそうだとしても人間は全宇宙のことを本当に知っているのだろうか

我々が住んでいる宇宙のことを我々人間はどれだけ知っているだろうか

仮に我々の住む宇宙のことを隅々まで知れたとしてもそれがこの世の全てだろうか

他にも宇宙があるかもしれないし、宇宙とは別の何かがあるかもしれない

またこの世が我々の住む宇宙だけだとしても現在の宇宙だけがこの世の全てだろうか

現在の宇宙が生まれる前はどうか、終わった後はどうなるだろうか

全く別の何かがあったかもしれないし、全く別の何かになるかもしれない

我々の生きる時代はこの世の本来の形ではなく何かの通過点や狭間かもしれない

そして先述にもあったように公平性を量るには結果だけでなく”経過”も考慮しなければならない

”この世”の公平性を量るならこの世の経過を考慮するべきである

この世がなぜ生まれ、どうやって生まれ、なぜこの様な現在のこの世という結果に至ったのかを知らなければ公平性は語れない

しかし結局我々人間は、我々の住む宇宙がこの世の全てなのかすら知りはしない

時間的にも空間的にも人間はこの世のことについて分からない事だらけである

にも拘らずこの世の公平性を語るのは”この世”をどのように捉えての事なのだろうか」


不確かな理解でしかないものを批評することは出来ない

当然の理である

つまりいかに不公平と批評したくとも「この世」を語ろうとするのは風呂敷の広げ過ぎということである

この世の全貌など分からないのだから人間の視点、人間の分かる範囲で公平性は量るものだと理解しなければならない

即ち「我々人間の知る範囲、生きる時代における、この世」とするのが適切ではないだろうか

「ただ言葉尻を捕まえて揚げ足を取っているだけだ」と言われるかもしれないが、しかし言わずと「この世」という表現がこの様な意味だと思っている者もいれば、「この世の全て」という意味だと思っている者もいるだろう

何より単に表現を省いているだけだったとしても問いの意図を明らかにし、問題を明確に定義してこそ正確な答えが得られるのだから言葉尻などいくらでも捕まえて然るべきである


とは言えここまでで問題を明確に定義するための材料は十分に揃っていると言えるだろう

まず始めに問いが求める視点が主観か客観かを考察し、次に客観が何を全体とした客観かを思索し、そしてこの世とはどのような意味かを思案した

これらを踏まえて「この世は不公平か」という言葉足らずな問いを明確に定義するなら次の通り

「我々人間の知る範囲、生きる時代におけるこの世は、人間全体という客観的視点で見て不公平か否か」となるだろう

これで問題の定義は十分だろう


問題の定義が出来たところで、棚上げとなってしまっている問題について考えていこう

即ち”差異とは人間が作るものなのか”という件についてである

主観客観の話でうやむやになったが、この世の公平性を量る上で明らかにしなければならい問題である

喩えば仮にこんな主張があったとする

「そもそもは人間が勝手にこの世に生まれ、勝手に増え、価値という概念を作り、差を生み、差を作り出したのが始まりである

貧富の差、社会的地位、美的感覚、才能の長短、人種差別、文化の違い、文明の違い、法律の違い

それをこの世のせいにするのはお門違いではないだろうか

人間が差異だとするものは全て人間が生み作り出したものである

つまり不公平もこの世が作るのではなく人間が作るということ

故にすべては自業自得である」

これは正論と言えるだろうか


まずこう考えられる

人間が差異をつくれたのも元はと言えばこの世という土台があってこそである

卵だけでオムレツは作れない

卵があってもフライパンが無ければ、フライパンがあっても火が無ければ、火は酸素が無ければ、酸素は木が無ければ、木は大地が無ければ存在しない

物事とはいつもそういった目には見えない多くの土台の上に成り立っている

人間だけで差異を作れはしない

即ち「元はと言えば差異を生み出せる素質を持ったこの世のせいだ」とも言えるかもしれない


だがこうも考えられる

オムレツは”誰か”が作るものであって、この世がオムレツを作ったなどとは言わない

考えてみれば当たり前のことだが、例えば白熱電球を発明したのはジョセフ・スワンだが、ガラスを発明したのは誰々で、鉄を発明したのは誰々で、発電機を発明したのは誰々だから、その先人達の功績あってこそ白熱電球は作ることが出来た

しかしだからといって白熱電球をその先人達が作ったという事にはならない

作者、創造者、開発者とはその対象を直接生み出した者のことを指すのだろう

つまりやはり差異を作ったのは人間ということである


ところが更にこうも考えられる

確かに人間は沢山の差を作ったが、人間の作る差異がこの世の差異の全てではない

人間の一番の比較対象は人間であるため、人は人間世界に在る差にしか注目しない

だが例えば天気の差は、地形の差は、生態系の差は、人間が作ったものだろうか

人間の生きる世界などこの世に比べればちっぽけなものなのだから人間の関わらない差の方が膨大である事は言うまでもない

しかし「それらの差も全て人間の価値観が差としているに過ぎないのだから、結局は人間の作った差異である」という反論もできるかもしれない

だが概念というのも様々で、例えば”世界”という概念は人間が作ったのだろうが人間が世界を作った訳ではない

つまりこの場合、実質的には作ったというより名前を付けたと言う方が正確だろう

対して例えば”国”という概念は元々この世に存在したものに名前を付けたのではなく、即物的にも概念的にも人間が何も無いところから作ったものである

よって間違いなく人間の作ったものだと言えるだろう

では差異の場合はどうだろう

この世には元々物理的、性質的な”違い”は存在していた

有と無、天と地、陰と陽、柔と剛、祖と裔、集と個

そういった”相違”を人の価値観が”差異”としたのである

つまり元々この世に存在したものを人間の価値観で見た時に出来る概念と言える

人間だけで作ったものではないし、この世に元から有っただけのものでもない

この世と人間が出会って起こる反応の様なものではないだろうか

即ち”作った”のではなく”生まれたもの”だと言えるだろう


差異というものは人間だけで作ったものではないし、人間世界に在るものだけでもない

故に「人間が作った」「この世が作った」というのはどちらも正しくないのではないだろうか

差異を作ったのがどちらなのかをはっきりさせられれば「この世が不公平」なのか「世の中が不公平」なのかを断定することが出来たかもしれないが、一方的でもなく作られたものですらないならそれは不可能だろう

しかしこれに関連して問うべき事がもう一つある

「差とは人間が作るものではないか」と問うならば当然「不公平とは人間が作るものではないか」という疑問も問うべきである


喩えばこんな主張があったとする

「不公平とは意思が無ければ成立しないのではないだろうか

喩えば自分ばかりが外出する時に雨が降り、室内に入る時に雨が上がることが多い

これは不公平だろうか

主観的には不公平とする者もいるかも知れないが、客観的に見れば単に運が悪いというだけだろう

何故なら、誰かが自分の外出する時を見計らって雨を降らし、室内に入る時に雨を上がらせるなんて事はまずあり得ないからである

結果に差があろうと、その経過に意思が無ければ公平も不公平も無い

人間が作る差異でこそ公平性というものは問うことができる

何故なら人間の意思によって形作るからこそ、人間の裁量で、人間の制御で、人間の好きな形に作ることが出来る

故にもっとより良い形に出来るのではないか、もっと均衡を取ることが出来るのではないか、という批評をすることが出来るのである

意思が無ければそもそも作られたものではないのだから、もっとこう作ればよかった、ああ作ればよかったなどというものはない

誰の手も加えられていないものに好手も悪手も無い

人間の描く風景画に上手さ下手さがあっても、自然が彩る風景に上手さ下手さなど無い事と同じである

故に不公平とは人間が作るものであって、この世が作るのではない

よってこの世は不公平ではない」


至って単純であり指摘して当然の理屈である

不公平とは意思があってこそだろう

だがそれを言うならそもそも不公平とは、また公平性とはどうやって生まれるのだろうか

ここで不公平の成り立ちについて考えてみる

まず公平性とは礼儀や常識、義務や責任などの人間の価値観からなる道理や道徳によって成り立つものではないだろうか

喩えば上司は部下に対して公平でなければならない

私情を挟んで評価をしたり采配を決めてはならない

それはひとえに仕事だからである

給料が発生した時点で、雇用主に対して能力や労働力や社会性ある精神を提供する責任があるが故に仕事において公正公平である義務が発生するのである

反対に義務や責任が無ければ公平にする必要はない

プライベートなど仕事と関係の無い時間なら義務はないのだからお気に入りの部下に入れ込もうと自由である

また喩えば家に複数の客を上げた時に、客に出す茶菓子に差を付けてはならない

何故なら人間には人と人が平和的に関係を保つための礼儀や常識というものがあるからである

反対に客として招いていなければその者達を公平に扱う礼儀や常識などというものは無い

より有益な関係を作れると思しき者だけに豪勢な贈り物をしようと勝手である

礼儀や常識、義務や責任などが必要な時に公平性は発生する

つまり公平性とはそれら人間の価値観からなる道理や道徳によって成り立つと言えるのではないだろうか


そして不公平とはそれらに反する故意や、害する過失によって差異が作られた時、生まれるものではないだろうか

もし先に挙げた例のような礼儀や常識、義務や責任から公平性が求められる場合に、私利私欲や保身や怠慢など、自分勝手な都合によって差異を作ると当然不公平だろう

それは道理や道徳に反する故意があるからである

喩えば上司が部下に対して、自分勝手な都合で采配に差を付けては不公平である

しかしもしある部下が事故に見舞われ業務を遂行出来ず、仕方なく対応可能な一部の部下にそのしわ寄せを采配しなければならなくなったとしたら不公平ではないだろう

また喩えば家に招いた客人達に茶菓子を出す時に、自分勝手な都合で差を付けては不公平である

しかしもしそれが急な客であり都合が悪く、同じ茶菓子が人数分は無くやむを得ず差が出来てしまったら不公平ではないだろう

差異があったとしてもその采配に差異を作る故意はなく、悪質性も責任も無ければ不公平ではない

それはつまり道理や道徳に反する故意が無いから不公平ではないという事である

もちろん主観的に見れば不公平とする者もいるかもしれないが、これはあくまで客観的な話なので不公平なのではなく単なる巡り合わせだろう


そしてまた礼儀や常識、義務や責任から公平性が求められる場合に、不注意や無用心、浅慮や軽率さによって発生を防げる筈の差異を生じさせてしまうと不公平だろう

それは道理や道徳を害する過失があるからである

喩えばある部下が事故に見舞われ上司が対応可能な一部の部下に対して仕方なくしわ寄せを采配したとしたら不公平ではないだろうが、

もしその事故が上司の不手際によって起こってしまったものだとしたら、その尻拭いを一部の部下にさせるのは不公平となるだろう

また喩えば家に招いた客人達に茶菓子を出す時に、それが急な客でやむを得ず差が出来てしまったら不公平ではないだろうが、

もし実は急な客ではなく、ただ予定をうっかり忘れてしまって準備が出来ていなかっただけだとしたら不公平となるだろう

避けられるものを避けられず防げるものを防げず、過失によって出来てしまった差異には害悪となる差異を及ぼした責任があり不公平となる

つまり道理や道徳を害する過失によって不公平となるのである


このように差異を作らずに済む筈のところを、差異を作るべきでないところに作ってしまっては不公平となる

善処できた筈の事には責任が問われる

常識の無い社会人には咎があるように

差異が生じる事が必然でもなく必要でもなく不可抗力でもなく、十分防止可能だったり不適切であったり、差異を生じさせた者に責任や悪質性がある場合不公平となるのだろう

反対に差異があったとしてもやむを得ないことだと分かれば、誰だって仕方ない事と理解し不公平と思いはしないだろう

仕方のない事に責任は求められない

医者が手を尽くしても救えない命があるように

差異を生じたとしても生じさせた者に責任はなく悪質性もなく、生じることが不可抗力であったり余儀のないことだったりして、正当性がある場合は不公平ではないだろう


因みに、不公平を作る原因として価値観の相違というのもある

采配を行う者が公平だと思っていても受け取る者からすれば不公平という事もある

つまり価値観の相違から不公平が作られる訳である

しかしこれも所詮は主観と主観がぶつかり合っているだけの主観的な話である

故にここでの客観的な話とは無関係である


以上をまとめると、公平性は人間の価値観からなる道理や道徳によって生まれ、

不公平は道理や道徳に反する故意や、害する過失によって生まれるのではないだろうか

即ち成り立ちから見ても人間の意思が無ければ公平性は問うことは出来ないという事である

故にやはりこの世は不公平ではないのではないだろうか


だがしかし、非常に困った事にこの世自体に意思が存在するかしないかは断定出来ない

と言うより「もしこの世を創造した者がいたとしたら、この世にはその創造者の意思が込められている」かも知れない

もしロボットが殺人を犯したならそのロボットの製作者、またはプログラムを書いた者に罪が問われるように

創造された物自体に意思は無くとも創造した者に意思はある

とは言え不公平となるのは創造主たる者が存在し、故意にこの世を創造し、人間と同じような価値観を持ち、道理や道徳があり、それらに反する故意や、害する過失によってこの世にある差異が作られていたらの話である

妄想レベルの話であり考慮する必要は無いように思える

ただここで問題にぶつかる

創造主やら神やらがいるかもしれないという考えに根拠がないと言うのなら、この世自体に意思は無いという言い分にも根拠は無い

この世がどのようにして出来ているかなど人間には分からないのだからこの世に意思が「有る」と言おうが「無い」と言おうがどちらにしても等しく根拠が無い

故に「差異に意思が無ければ不公平ではない」からといってこの世は不公平ではないと言い切ることは出来ない

とは言え、創造主の存在を考慮することなど下らないと言う者もいるかもしれない

その場合は喩えば「人間でさえ仮想世界を創れるのだから、人間が現実世界だと認識しているこの世界も何者かが創っていたとしてもおかしくはない」と考えてみるのもいいのではないだろうか


しかしこの世に意思が有るかもしれないという仮定をするなら、意思が無いかもしれないという仮定もすべきである

そもそも意思が有るかもしれない、という仮定は「意思が無ければ公平も不公平も無い」という論自体の反論にはなっていない

この世に意思が無ければどうなるのだろうか

不公平ではないという事になるのだろうか

それとも他に反論が考えられるだろうか

これははっきり言って、反論など出来ないだろう

つまり不公平ではないと言っていいだろう

即ち「意思が有る=不公平かもしれない」「意思が無い=不公平ではない」となる

意思が無ければ不公平でないのは当然である

意思が無ければ善も悪も無い事と同じ

誰かの意思によって誰かが被害を受けたなら善悪を問われるが、自然災害に善悪を問いはしない

当たり前のことである


そして話を持ち出しておいて何だが、そもそも公平性とはこの世自体の意思の有無などというものを考慮しなければならないものだろうか

例えば人はよく公平な選定方法としてクジやコインやサイコロなどを用いる

何故それらを公平だとしているのか

それはひとえに誰にも結果が分からないからである

どのクジを引けば当たりなのか、また誰がどのクジ引くのか分からない

人間の目にコインの回転は見切れないから表と裏どちらになるか分からない

サイコロはどう投げればどう転がって何の目が出るかは分からない

結果に差はあってもどんな結果になるか皆等しく分からないから公平なのである

誰が当たって誰が外れるのかを、誰かが故意に決めているのではないから公平なのである

そこにこの世の意思が有るか無いかなど考慮しないものである

何故なら、そのような存在を確認できないからである

クジは人間が作り人間が選び取るだけ

コインは人間が弾いた分だけ宙を回るだけ

サイコロは人間の投げ方で転がり方が決まるだけ

全ては人間の起こした作用によって説明がつく

それを居るかどうかも分からない存在の、行なったかどうかも分からない行為のせいにするなど全く以って非論理的である

加えてそんな疑い方を始めてしまえば全てにおいてこの世の意思が関わっているかもしれないのだから、この世の全ての公平を疑わなければならなくなってしまう

故に実際に起こっている事実や事象から建設的に論理を重ねていくのが尋常というものである

だからこそクジやコインやサイコロのような選定方法を公平としているのである

つまり、この世の公平性を量る上でこの世自体の意思の有無など考慮する必要は無いと考えられる


ということは「この世自体に意思を確認できないから、この世は不公平ではない」という結論になるのだろうか

確かにそれはそれで命題に対する答えになってはいる

だがしかし、答え方としてはあまりに不十分である

これでは不公平ではないという事しか分からない

不公平でないならば公平なのか、それとも他の何かなのか、それを明らかにしなければならないだろう

つまり答えはまだ出ていない


しかしここに至り重要な疑問がある

「人間にはこの世の全容も、この世にどんな経過があったかも分からない」

「この世自体の意思など確認できないのだからそれに対し不公平とは言えない」

既に思索したこの二つの道理、実際のところ言われずとも普通人は承知しているのではないだろうか

もちろん丁寧に論理付けはしないだろうが、

言われずともこの世の全容も経過も知らないのだから人間の知る範囲で人間の公平性でこの世を量るしかないだろうし、

言われずともこの世自体の意思など確認できないのだからそんなものに対して不公平と言ったりはしないだろう

しかしならば、そもそも人はこの世の何に対して「不公平だ」と批評するのだろうか

喩えば、裕福な家に生まれる者と貧しい家に生まれる者が居る

天敵の多い動物も居れば天敵の少ない動物も居る

陽のあたる所に咲く花もあれば陰の中に咲く花もある

だからといってこの世の何が不公平なのだろうか

この世がその差を作ったとでも言うのだろうかか

この世が差をもたらしたという意思を確認できるだろうか

この世に差を無くさなければならない道理があるだろうか

何か一つでもこの世に責任などというものがあるだろうか

そんな経過があるだろうか、確認できるだろうか

言うまでもなくそんなものはどこにも無い

不公平を成立させるための材料は何もない

あるのはただ”差”だけである

即ち、人はこの世の何に対して「不公平だ」と批評するのか

それはやはり”この世に差がある事自体”に対してではないだろうか

つまり原点回帰、最初の話に戻ってきた

”差があること自体は不公平ではない”

それは経過と結果の話の通りでもあるし、この世の意思の話の通りでもある

これまで語ってきたことがその証明である

だがそれだけではないのではないだろうか


そもそも差が存在しなければ公平も不公平も無いのではないか

不公平に差がなければならないのは当然だが、差がこの世に存在するからこそ公平も差が無い状態という概念として存在することが出来るのである

もしこの世が、全てが等しい世界だとしたら、差がある状態などあり得ないのだから”差が無い状態”などという概念は存在しない

差が無ければ不公平は存在しないが、不公平が存在しないなら公平も存在しない

光無き所に影は無い、表が無ければ裏も無い事と同じ

だがそれは逆もまた然りである

影無き所に光は無い、裏が無ければ表も無い

もしこの世が差しかない世界だとしたら、差が無い状態などあり得ないのだから”差がある状態”などという概念は存在しない

等しさが無ければ公平は存在しないが、公平が存在しないなら不公平も存在しない

対義の存在とはそもそも表裏一体である

差と等、公平と不公平もまた同じ

差が存在しなければ公平を作ることも出来ない

故に差があること自体は不公平ではないだろう


もともとこの世は差や等、公平や不公平など様々なものがあるだけではないだろうか

そんなこの世で人は差があることや不公平ばかりに目を向けてしまうのだろう

人は手中に無いものばかりを数え、既に手中にあるものに目を向けようとはしない

「失って初めて気づく幸せ」という言葉がその代名詞だろう

そういった性があるために差ばかりに注目して等しきものを見落としてしまいがちである

例えば貧しい国では息をすることも出来なくなるだろうか

才能が無くとも得手不得手すら無い人間がいるだろうか

醜い姿で生まれた者は人を愛してはいけないだろうか

病弱に生まれ短命だろうと一秒の長さが変わるだろうか

この世には沢山の差があるが沢山の等しさもある

差があり等しさがあり、公平があり不公平がある

ただそれだけではないだろうか

公平なのか不公平なのか、この世はそんなことを量れる対象ではないのではないだろうか


即ち、結論はこうである

『この世は不公平ではなく、公平と不公平があるだけである』


これでこの世の公平性の判定は決したのではないだろうか

しかし話はこれで終わりではない

ここからは少し余談である

「この世は不公平か否か」について考えてきたが、これによく似た命題がある

それは「この世は不平等か否か」についてである

人と人との間に差を見た時、人は「この世は不平等だ」と言う

この世が不公平ではないのなら、この世は不平等でもないのだろうか

この世の公平性に結論を出したなら自然、投げかけられる問いだろう

これについても考えてみる


「公平」と「平等」、似たような場面で使われる言葉である

そもそもまずこの二つはどう違うのだろうか

意味を辞書で調べてみるとこうある


「公平」

・判断や行動がかたよっていないこと

・特定の人のえこひいきをしないこと


「平等」

・差別が無くみな一様に等しいこと

・かたよりがなく、みな等しいこと


この通り実は辞書を見てみても正直ほとんど違いが分からない

どちらも偏りが無いことと、他者を選り分け扱わないことを意味している

ならば違いは無いと考えてもいいのか

もちろんそうではない

確たる証拠があるわけではないが世の中でははっきりとした分け方をされているのである

それは一応漢字や辞書の意味からも見て取ることも出来る

公平は(公)かたよりがなく(平)たいらであること、となっており

平等は(平)たいらで(等)ひとしいこと、となっている

要はそれぞれが違った意味の平らを表しているのである

「偏らず平ら」と「等しく平ら」

つまりどういうことか

喩えばよく働き沢山の成果を出した者がより多くの報酬を与えられるのが公平だろう

そして働いた者には皆が皆、等しく同じだけの報酬を与えられるのが平等だろう

公平は状況や経過によって何をどの様に扱うべきかを量り均衡を取ること

平等はどんな状況や経過であっても何者にも同じ様に扱い均等にすること

一言で簡単に言うと、

公平は「均衡」であり、平等は「均等」である

これが公平と平等の違いだろう


そして因みに命題の定義についてだが、これは公平性と同様と考える

「この世は不平等か否か」これを詳しく定義するなら次の通り

「我々人間の知る範囲、生きる時代におけるこの世は、人間全体という客観的視点で見て不平等か否か」となるだろう

量るのが公平性か平等性かだけの違いなのだから同様と考えて問題ないだろう

これを踏まえるとどうだろうか

この世は不平等だろうか


喩えばこんな主張があったとする

「人や動物、物やエネルギー、事柄や状態、この世にあるものは全て大なり小なり必ず差や違いがある

人それぞれに個性があり

原子の一つ一つにさえ違いがあり

物事には順序がある

この世には全く同じもの、全く同じことなど無い

故にこの世は不平等である」

よくある話である

言葉だとかデータだとか形の無いものなら完全に同じものというのは山とあるが、それを差し引いてもこの世は完全には同じでないものだらけだと言えるだろう

しかしそれはただの一側面にしか過ぎない

差異、相違、それらばかりなのだとしたら世の中に平等と呼ばれるものはもっと少ない筈だろう

もっともこの主張は世の中で平等と呼ばれているものが本来、正確には平等でないということを言っている訳だが、それはただ微視的な視点で見た場合の話にしか過ぎない

喩えば親が二人の子供にリンゴを半分に切って半分ずつ分け与えたとする

言うまでもなく普通、人間が包丁でリンゴを切る際寸分違わず真っ二つに出来る筈がない

数グラムないし数ミリグラムの違いがあるものである

しかし普通そんな違いを不平等などとは言わないだろう

それは何故か

どこまでを同じとして、どこからを違いとするかは見る視点によって異なるからである

リンゴを二人で分けて食べる、という目的において数グラムや数ミリグラムの違いが実際的に何か影響を及ぼすことは考え難い

そのような僅かな違いで食欲への満足感は変わらないし、生命活動の性能に差も出ないだろう

故に僅かな違いを違いとはしない

大小の違いと同じである

人間から見れば地球はとてつもなく大きいが、全宇宙から見れば芥子粒の如き存在である

どのような視点から見るかによって同じとするか違うとするかが変わるのである

だからこそ世の中には沢山の平等があるのである

視点によって変わるだけなら平等とも不平等とも言えない

つまりこの世は不平等ではないだろう


しかし次のような反論が考えられる

「それは結局人間から見た場合の話である

人間にとって大した違いでない事は人間にとって同じと捉えることが出来る、というだけで本質的に同じであるか否かで見ればどんな僅かな違いだろうと違いは違いである

人間の認識だけで答えを出してしまうならそれはただの人間の主観である

それこそ管見と言えるだろう

主観に左右されず本質を捉えてこそ客観的視点と言えるのではないだろうか

本質的に見ればこの世は違いばかりである

故にこの世は不平等である」

確かに同然、同等、同様、と捉えるのは人間の都合によるものである

しかしそもそも平等性というものがそれぞれの視点から相違度の許容範囲を設定し等分と捉えられるか否かを判定するものだと考えれば、微々たる違いを度外視して平等だと認識できる視点があることを無視してはならないだろう

実際、平等性とは通常そうして判定されるのだから、それが本来の平等性ではないだろうか

ならばやはり微々たる違いばかりに注目するのは単なる微視的視点に過ぎないのではないだろうか


しかしこれでは堂々巡りである

何故そうなるのか

これは平等性の定義の問題である

「本質的な視点から均等か否かを判定するのか」

「実際的な視点から均等か否かを判定するのか」

どちらも異なる意味で全体を見ているという主張が出来、また異なる意味で他方を一部しか見ていないという否定もできる

故に行き止まり、堂々巡りになる

このような考え方では全体を見ることなど出来はしない

本質的な視点も実際的な視点もどちらも総括した視点で見なければならない

ただその前にまず前提から見直さなければならない


そもそも微々たる違いばかりを重視することが本質的な視点などという見方は思い違いである

微々たる違い、つまり微視的視点を視野に入れるなら巨視的視点も視野に入れるべきである

微視的に見たものだけが本質ではない

巨視的に見たものも本質である

全体を見るならばどちらも視野に入れなければならない

原子一つ一つにさえ違いがあるが、物質が原子一つ一つによって出来ているのは皆同じであり、

人間は皆同じく人間という生き物であり、リンゴは全て同じくリンゴという果実であり、

皆同じく地球の一部であり、同じ銀河の一部であり、同じ宇宙の一部であり、同じこの世の一部である

それはつまり実際的な視点と同じことである

微視的視点から見れば違いであり巨視的視点から見れば同じである

視点によって変わるだけのこと

本質的な視点、実際的な視点という違いなどは元から無いのである

ただこの世には”違い”と”同じ”があるだけ、平等と不平等があるだけではないだろうか


この世は不平等か否か、その結論はこうである

『この世は不平等ではなく、平等と不平等があるだけである』


これでこの世の平等性も判定出来たのではないだろうか

不公平も不平等も、この世に対する批評の仕方は同じようなものと言えるだろう

故に同じような理屈で考えることが出来る

公平も不公平も、平等も不平等も、単なるこの世の一部であり

この世は公平性だとか平等性だとかそんなものを量る対象ではないのだろう

この世は我々に何も与えない、何も奪わない、ただ存在しているだけ

この世の全貌など人間には知る由もないが、我々の知る範囲、事実だけで考えれば、我々にとってはそれが真実ではないだろうか

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