壁の町9☆
「フレイ!セレネ!」
その巨体に相応しい音を立てて倒れた奴に背を向け、剣を納めて二人を振り返る。
フレイはすぐ近くに。セレネは少し離れた壁際に。
「そっちを」
恐らくこれまでの戦闘で奴の気が俺に向いていたのを利用したのだろう、シェラさんがセレネに駆け寄りながら、目の合った俺にそう言った。
そっち=言うまでもない。
「フレイ!おいフレイ!しっかりしろ!!」
仰向けに寝かせたフレイのもとへ。
死んではいない。死んではいないはずだ。
先程一瞬だけだが目を覚ましたのだ。そしてごくわずかだが声を上げたのだ。
――死んでいるなどあるものか。
だが、呼びかけに答える声はなかった。
瞼は閉ざされていた。
僅かに開いた口の端からは、恐らく吹き飛ばされた時のものだろう、吐き出した血が一筋の線になって流れていた。
「……ッ!」
無意識に手がお守りに伸びる。
大丈夫。きっと大丈夫。
心の中に何度もその言葉がリピートされる。
「フレイ……」
眠っているようにさえ思える。
大丈夫だ。意識がないだけだ。
セレネの防御魔術は確実に機能していた。同じようにまともに攻撃を受けた俺が立ち上がって戦えたのだから。
だから大丈夫だ。
大丈夫に決まっている。
セレネもフレイも、きっと。
「目を開けろ……頼む……」
きっとその瞬間を、俺は一生思い出すことが出来るだろう。
彼女の閉じられた瞼がピクリと動いた瞬間を。
その口元が僅かに震えた瞬間を。
「ぁ……ぅ……」
そこから僅かに漏れた声を。
「フレイ!!」
僅かに開かれた瞼の奥から、そのブルーの瞳が俺を映した瞬間を。
「ショー……マ……」
その声が意味を持って、それが俺の名だと気づいたその瞬間の衝撃を。
「ああ……っ、ああ……ッ!!!」
他に言うべき言葉などいくらでもあるだろう。
だがそれ以外に何も浮かばなかった。
彼女は生きていた。
その事実を確認して、俺の中にあったのは恐らく感謝だった。
言葉にはできなかった。だが確かにそうだ。
それが何者の、何に対しての感謝なのかは説明できないが、確かに俺は生まれてきて今日までで一番の感謝を覚えた。
「フレイ……」
もう一度名を呼ぶ。
俺の顔の下で、彼女が小さく頷いた――微笑とともに。
俺もきっと笑っていた。同じように。
――だが、それはすぐにかき消された。
「ガ……ゴ……」
「ッ!!?」
この場に相応しくない雑音が混じる。発生源は俺の背後だった。
反射的に振り返り、同時に今しがた鞘に納めた得物を再度引き抜く。思い当たるものは一つしかない。
「チィッ!!」
果たして案の定だった。
奴が、ミノタウロスが、俺のすぐ後ろに立っている。
既に役に立たなくなった右腕をだらりと下げ、前にも後ろにも傷を負って満足に動かせない左足を引きずりながら、左手一本でその斧を振り上げていた。
「グガ……」
口からは滝のように紫の液体を垂れ流し、僅かに漏れたその声――というか音を、それが床を叩く音がほぼかき消している。
執念としぶとさが形を持ったそれは、まさに死なば諸共とばかりだった。
だか勿論、やられてやる訳にはいかない。
そして剣を抜いた俺には、今の奴の動きなど何一つ脅威ではない。
「クッ!」
――だが、それは俺一人の話だと、すぐに思い出した。
剣を奴に向けながら、一瞬後ろを振り返る。
フレイはまだ起き上がれない。
そして俺が躱せば、あの斧の行く先は……?
どうする?どうするのが正しい?
受け止める――出来るかどうかは分からない。重力を味方に振り下ろすだけなら、まだ奴の怪力は健在のはずだ。
奴がスローモーションになる。
躱すことも受けることもできない攻撃が今まさに振り下ろされようとしている――奴の眼にナイフが突き立てられたのは、その直後だった。
「ガギギッ!!」
一直線に飛んできたそれの軌道をたどるように振り向く=セレネのいた方向。
「忘れてもらっては困るね」
片腕でセレネを抱え、もう片方の腕が奴の眼を貫いたことをそのフォームで示していた。
「今だ!止めを!」
叫び声に押されるように、俺は斧より目を優先した奴に突進する。
「ハアアアッ!」
奴の取り落した斧が床に当たって大きな音を立てるのと同時に、奴の右足を踏み台にしてその背後へ駆け上がる。
当然、そこに足場は何もない。故に普通ならすぐに落ちるだろう――普通なら。
今は違う。たった今ブチ開けた穴が、奴の首の後ろで血を噴き出している。
その穴へ、ラットスロンの切っ先を差し込んでいく。
「アアアアッ!!」
叫び声と共に傷口を拡大。
後は重力に合わせて下に落ちるだけだ――剣の柄に懸垂して。
多少硬いとはいえ、剣を差し込まれた奴の首の肉は、俺一人分の体重でも十分に引き裂けた。
「ッ!!!!」
奴が何か叫ぼうとしたのはなんとなく分かった。
だがその声はついに上げられなかった。
穴を起点に俺の落下によって首の半分が切断され、そこから血の塊となって吐き出された――奴の命と一緒に。
「今度こそ……っ」
振り返った時、血しぶきの塊となった奴の体が再び床に沈んでいくのが分かった。
そしてその遺体が、他のモンスターと同様に消えていくのも、また。
「よし、今度こそ……だな」
血ぶりを一度。そこにやってきてそう言ってくれたシェラさんの腕の中には、セレネが抱きかかえられていた。
「こっちも大丈夫だ。今薬を使った。すぐに目を覚ますよ」
その言葉を証明する様に、セレネは先程姉が示したのと同じように瞼を開き、うっすらとシェラさんを見る。
「ぁ……」
「ありがとう。君のおかげだよ。もう大丈夫だ」
腕の中で目を覚ましたセレネを見下ろしながら、シェラさんはそう言って微笑んでいた。
「ありがとうございます。助かりました」
「よしてくれ。助かったのはこちらだ」
頭を下げた俺に、彼女は丁寧にセレネを下ろしながら答える。
「ミノタウロスは衛兵連中がここに放し飼いにしていた。同胞の死骸を餌にしてね。連中が新しい収容所を手に入れてからは、何を食っていたのかは分からないけどね……」
そこで言葉を切り、奴が出てきた扉の方を見る。
背筋を伸ばしてそちらを見たが、奴が入ってきた扉の奥にもう一枚、シャッターのようなものがあって、その向こうがどうなっているのかは見えなかった――見たくもないが。
「……これで、死んだみんなが少しでも浮かばれればいいが。……さ、話はこの辺だ。手当をしよう。ここから私たちの居住地まではすぐだ。本当に、本当にありがとう」
そう言って、シェラさんは明るい声を出すと俺たちに薬を渡してくれた。
「これ……エリクシールジェム!?」
渡されたピルを見た俺が声を上げる。魔術薬の一種だが、同じような効果のある回復薬と比べても中々の貴重品だ。少なくとも、普通の冒険者が日常的に使うものではない。
「必要な時には惜しまず使うものさ。少なくとも、あなた達はこれよりずっと貴重なのだからね」
そう言った彼女の表情は、とても穏やかで優しげだった。
それから、俺たちは本来進むはずだった扉の向こうへ、改めて足を踏み入れることとなった。
「これは……」
「居住地はこの真上だ。乗ってくれ」
扉の向こうにあったのは、四人乗っても十分にスペースのある、大型のリフトだった。
俺たちを乗せると、シェラさんがその手前にあったレバーの根元に用意されたコネクタに照明用に使われていた魔石を取り外して差し込む。
そこでレバーを倒せば、光のなくなった地下空間はゆっくりと足元に消えていった。
がたがたと揺れながら立坑を登ること十秒ほど。揺れが止まると乗ってきたのとは反対側に現れた地面に降り立つ。
「さあ、ようやく着いた」
魔石をレバーから取り外したシェラさんが先頭に立ち、目の前の扉の鍵を開く。
久しぶりに浴びた気がする太陽光に思わず目を細める。
「ようこそ。デンケ族の居住地へ」
光に慣れたところでその声を合図に正面に目をやる。
そこには白い壁と赤い屋根の、古く、しかし立派な屋敷が待ち構えていた。
(つづく)
今日はここまで
続きは明日に




