壁の町7☆
「来るぞッ!」
その咆哮にかき消されないように声を張り上げる。
直感――だったのだが、叫んだ瞬間にはそれが現実になって一気に距離を詰めてきた。
「くうっ!!」
危うく横=空プール側へ飛び退いて躱す。
それまで立っていた場所で、斧と床が爆発音のような衝突をしたのを知ったのは、一段掘り下げてあるプールに三人で飛び込んだ時だった。
三人。そう、三人だ。
俺とフレイとセレネ――シェラさんがいない。
「私は大丈夫だ!!くそっ、奴がそっちに行くぞ!!」
そんな俺に奴の巨体と、今の振り下ろしで舞い上がった粉塵の向こうから叫び声。
同時にミノタウロスの巨体が飛び上がる。
「ちいっ!!」
プールの中央に向かって飛び退くと、奴の斧が再び空を切って、レンガの床に巨大な亀裂を走らせた。
と、同時に響くセレネの声。
「清き光よ、我とわが朋友を照らし慈しみ守り給え!」
そして更にそれと同時に発生するオーロラのような光のカーテンが俺を包み、しかし視界を一切遮らずにその光が収まる。
やはりこういう時、セレネの防御魔術は頼もしい。
あの攻撃をまともに受ければ、恐らく人の体など熱したバターのように簡単に引き裂かれてしまうだろう。
――といって、これでどこまでダメージを軽減できるかは分からない。セレネを信用していない訳ではないが、あくまで保険と考えるべきだ。
「グオオォォォォッ!!」
二度の攻撃で仕留められなかった獲物にいら立ちを露にするミノタウロス。
その巨大に裂けた口の中には、牛という動物のイメージには到底似合わない鋭い牙が並んでいる。
その口から発せられる雄たけびはしかし、すぐに激昂から当惑のそれへと変わった。
――防御魔術の直後に発せられたセレネの詠唱によって。
「我が魔力よ、今ひと時仮初の魂を纏いて、影となり舞い踊らん!」
彼女の魔術はこれまで何度か目にしたが、その詠唱はこれまでで初めて耳にするものだった。
「ゴオォ!?」
ミノタウロスが声を上げる。
詠唱の終了とともにセレネの体から無数の光が放たれ、それらが牛頭の巨人を取り囲むように漂って、人の形をとる。
影となり――その表現は言いえて妙だった。人の姿をとったと言っても、光たちはあくまで人のシルエットでしかなく、まるで紙をその形に切り抜いただけのように、囲んでいるミノタウロスの動きに合わせてゆらゆらと揺れ動いている。
その奇妙な人形劇のような光景も姉妹にとっては――詠唱した本人は無論のことその横で杖を天に捧げて力を集中している姉にも――気になることではないようだ。
「お姉ちゃん!お願い!」
「清らかなる者よ、善なる者よ、その力を鎖とし、その意志を錨とし、我に向けられし悪意を戒め鎮めよ!」
妹の声に、この場には不釣り合いなほど厳かな声での詠唱が響く。
その声に応じて杖の先端から現れたバスケットボール大の光の玉が、纏わりつく影法師に踊らされているミノタウロスの頭上目掛けて飛んでいき、その角の僅か上ではじけた。
「あっ!」
思わず声を上げる。
くす玉のように弾けた光の玉から飛び出してきたのは、無数の光のロープのようなもの。それがお互いに複雑に絡み着き、その絡まりの中にミノタウロスの巨体を巻き込んで地面に先端を食い込ませている。
「グガッ!?ガアアァァァッ!!」
突然の拘束に怒りを隠さず叫びながら振り払おうとするミノタウロスだが、しっかりと食い込んだ無数のロープは、ずっと昔からそこにあったかのようにしっかりと立っていて、全く緩む気配はない。
「凄いな……」
思わず漏らした声――隠すことのない正直な感想。
妹が幻影で相手を包み込み、その隙に姉が相手の行動を封じる。シンプルながら完成された連携だった。
「ショーマ!」
「お願いしますショーマ!」
その連携で巨体の動きを封じた姉妹に呼ばれ、俺はハッとして剣を構えなおす。
「おおっ!!」
返答と気勢を兼ねて叫びながら、さっきの意趣返しに奴に突っ込んでいく。
ミノタウロスの姿を見るのは初めてだが、話に聞いたことはあった。極めて凶暴で、その巨体に相応しい怪力としぶとさ、そして相応しくない突進の速さを兼ね備える、非常に危険な相手。
だが既に動けないなら、どれほど巨大で強力な相手であっても脅威ではない。
全身全霊を込めた一撃で断ち切る。その思いを込めて剣を振り上げ――そして急停止した。
「ッ!?」
第六感というものか。霊感の類はないが、体は反射的にこの直感に従った――或いはこれも剣の能力なのかもしれないが。
そしてそれは正しかった。
「えっ!?」
「そんなっ!」
姉妹が声を上げる。
「グゥゥオオォォォォッッ!!!」
それをかき消す凄まじい咆哮。
そしてその咆哮すらも気にならない程に全身を強く貫いていく禍々しい殺気。
その声だけで、盤石と思われた光のロープは無残に引きちぎられ、奴の眼を晦ましていた影法師たちは吹き飛ばされてしまった。
そして自由になった奴が最初に目を付けたのは、のこのこと距離を詰めてきた俺だった。
「くっ!!」
前進を急停止したためか一瞬反応が遅れる。
ほんの一瞬だ。だがそのほんの一瞬のうちに先程とは比べ物にならない程に殺気をむき出しにした巨体が目の前に迫って来ていた。
直感:回避は間に合わない。
横薙ぎに放たれる奴の斧。
その鋼塊のような刃をラットスロンで受け止めるべく剣を垂直に立て、腰を落とす。
直後凄まじい衝撃、それに気づいた瞬間には世界から重力がなくなっていた。
「ぐあっ!!!!」
トラックに撥ねられたってここまで勢いよく吹き飛ばないだろう。
「がっ!!ぐぅっ!!!!」
受け身を取ることもできずに地面に叩きつけられ、バウンドしてプールの壁に背中を叩きつけられてようやく動きが止まった。
「がはっ……!」
「――マ!」
ぼやける世界。
肺が叩き潰されたように息が出来ない。
遥か彼方から聞こえてくるような声――恐らくセレネ。
「――レネ、危な――」
これまた遥か彼方から聞こえたフレイの声。
その意味を理解するよりも、こちらに駆け寄ろうとしてくれたセレネが目の前に現れたミノタウロスの、彼女のそれの三倍はありそうな脚に蹴り飛ばされて俺と同じように吹き飛ばされるのが先だった。
「あぐっ!!」
回復しかけた聴力と意識が叩き潰されたようなセレネの声を拾った。
俺もきっとそうなっているのだろう、プールの壁にクレーターを作って、ゆっくり剥がれ落ちていくセレネ。
「セレネ!!くっ……!雷よ、その光破邪の刃となり、我に迫りし敵を討て!」
フレイの叫び声。と同時に追撃を加えるべく妹に近づくミノタウロスに電撃を浴びせながら割って入ろうとする。
「ガッ!」
だが、とうの巨体はその電撃=樹人を一撃で炭に変えた程の攻撃を受けてもなんら臆することなく、妹を守ろうとした姉を迎え撃った。
「や、やめ――」
思わず漏れた声は届かなかった。
ほんの僅かな幸運:フレイは真っ二つにはならなかった。それをするには距離が近づいていて斧の頭を持て余す。
残りの不運の部分:ミノタウロスはそんなこと気にせず横薙ぎに得物を振るった。
「フレッ――」
最後まで呼ぶことは出来なかった。
腹に斧の柄=鉄の棒を叩き込まれたフレイが、その棒を中心に「く」の字に折り曲げられて俺やセレネのように吹き飛ばされた。
フレイの細い体が飛ぶ。台風の中の木の葉のように。
壁には当たらず、床に転がっている犠牲者たちの上に叩き込まれ、ぐったりとした彼女を、ミノタウロスは首を掴んで絞首刑のように持ち上げた。
「や、やめ……ろ……」
フレイはぴくりとも動かない。
既に意識はないのだろう。両腕も両足も一切動くことなく指先とつま先とを地面に向け、体重など存在しないかのように、その首よりはるかに太いミノタウロスの手によって軽々吊り上げられている。
「やめろ……」
それも、或いは剣の能力だったのか、或いはただ単に偶然だったのか。
まあどちらでもいい。
「ッ!」
吹き飛ばされた時に手放してしまったラットスロンが、俺の少し先に落ちていた。
そしてその切っ先の向いた先には、フレイを捉えたミノタウロスの背中があった。
「お……お……お……」
剣が呼び寄せたのか、俺が剣を求めたのか。
これもどちらでもいい。
大事なことは一つだけ――俺は立ち上がり、剣を取ったという事。
そして、体はまだ動くという事だ。
(つづく)
今日はここまで
続きは明日に。




