ラチェ5
これで終わりではない。
すぐに振り返って女神像の方からくるもう一体に対処――しようとしたところで、スイの声が響いた。
「炎よ、その力で邪悪を払え!」
杖を高らかに掲げると、その先端から現れた野球ボール大の火の玉が、その術者に迫る――そして火の玉の発生時には間抜けな距離で足を止めていた――ゴブリンに向かって発射される。
「ギギィッ!?」
決して速くもなく、そして恐らく火力自体も大したことはない――というのは、驚いて踵を返したターゲットの足元に落ちたそれは一際明るさを増したもののすぐに掻き消えてしまっていたからだ。
恐らく、直撃していても一撃で絶命させるには至らない程度の火力だろう。
「はぁ……はぁ……」
とはいえ、自分の身を護るという目的は十分に達成されていた。
ただならぬ相手であると悟ったゴブリンは、その火の玉が弾けて消える頃には一目散に森の中の獣道へ駆け込んで見えなくなってしまった。
「大丈夫か?」
もういなくなったゴブリンに対して杖を盾にするように構えたまま硬直しているスイに声をかける。
「やった……?」
「ああ、十分だよ。よくやった」
恐らく問いかけたのではないのだろうその声に答えると、それで初めて私がいたことを思い出したようにはっとこちらを見た。
「僕は……は、は……」
何か言おうとしたのだろうが、しかし言葉にはならずただ空気が漏れるような音が断続的に続くだけ。
杖を握る手は、もともと色白な肌がより一層真っ白になる程に強く、まるで溺れている時に唯一浮かんでいたそれを握りしめるかのように得物を持っている。
「もう大丈夫だよ。行こう」
そう言いながら血振りをし、近くの葉を一枚ちぎりとって刃をふき取る。
「は、はい……」
そう答えながら、しかしその手はしっかりと杖を握りしめたまま、その石突を地面につけようとしない。
「……どうした?」
「い、いや……あの……」
脳裏に急速に広がる不安。
「どこかやられたのか!?」
「い、いえっ!違います。その……」
恥ずかしいと情けないをない交ぜにした声と表情のスイ。
「……手がこわばって、杖から離れないのです」
消え入るような声に件の両手に改めて目をやる。
しっかりと握り込んでいる手は、どうもまだ戦闘状態だと認識しているようだった。
極度の緊張とストレス――ゴブリン一匹と向かい合っただけで。
「ほら、大丈夫か?」
「あっ……」
その硬直した手を包み込んで、指を一本ずつ離していく。
周囲に無数に生えている木の枝とすり替わったかのように硬い指。
ギイギイ音が聞こえるのではないかと思うほどに強張っているそれをほぐしていく。
「す、すいません……」
実証された事実:彼は戦闘行為というものにからきし向いていない。
戦闘能力そのものが不足しているのではない。
――いや、それも決して得意ではないのだろうということはなんとなく分かったが。
正直なところ、ゴブリン一匹程度なら冒険者や兵士でなくとも、それこそこの旧街道の入り口にいた樵のような非戦闘員であっても手ごろな武器があれば十分あしらえる相手だ。
いやそれどころか、多少ガタイがよく腕っぷしに自身があれば子供でも叩き伏せて追い払うぐらいどうということはない。
ゴブリン単体の戦闘能力など精々その程度で、武装した人間の相手など先程のように徒党を組んでようやくという生き物だ。
そしてその事実は多くの人々に知れ渡っている。
恐らく彼も知っているだろう。
だがそれを前にしても、今こうしてほぐしてやらなければならない程に指を硬直させてしまっているのだ。
要するに肝である。
より正確に言えばメンタルの部分だろうか。それが戦闘に向いていない。
もしかしたらだが、初めて出会った時のことがトラウマになってしまっているのかもしれない。
――だが、そんなことは口には出さないでおく。
「ほら、これでいい」
「あ、ありがとうございます……」
彼の肩を落とし、意気消沈という言葉そのもののような態度を見れば、そんな追い打ちをする気などとても起きないし、何よりそのことは当人が一番よく分かっているだろう。
「もういないな。先を急ごう」
「は、はい……」
触れてやらないのも優しさというものだ。
先程までと同様、私が前を行き、彼がその後に続く。
すぐ前の二股をゴブリンたちが来たのとは反対の方に曲がり、川の真横を更に少し進んだ先で石造りの古い橋を見つけた。
「お、あれだな」
かなり古く、既に既に苔むして――というか苔に飲み込まれて迷彩柄のようになっているその橋を渡れば、あとは対岸でこれまで歩いた距離を戻るだけだ。
「足元気をつけろよ」
苔に縁どられた石に用心深く足を乗せながら後ろのスイに声をかけ、その間にも更に足を進める。
橋を渡ってすぐのたもとは随分と木が生い茂っていて、ほとんど枝のトンネルと言っていい状態になっていた。放っておけば、そのうち橋を塞いでしまうかもしれない。
「……凄いな」
身を屈めてその下をくぐる。
――その一瞬、確かに私は気を抜いていた。
いや、そこまで意識が回らなかったというべきか。
「……っ!」
後ろでスイが息をのむ音が聞こえた気がした。
垂れ下がっている枝。それは一本ではなく、何本もの木の、何本もの枝が複雑に絡まっていた。
顔に当たりそうになるそれを、私は暖簾でもくぐるように手で持ち上げようとした。まさにその瞬間だった。
「危ない!!」
スイの声。
その声が指し示すものが何なのか、その正体を視認するのは、彼の声が鼓膜に届くのとほぼ同時だった。
――そしてそれは、枝を持ち上げようとした右腕に鋭い痛みが走るのとも同時だった。
「ううっ!?」
何かが突き刺さった。
爪楊枝ぐらいありそうな針が深々と私の右腕に抉り込まれている。
その針の根本=モルモットみたいな大きさの蜂が、枝の間から緊急離陸している。
勿論まともな蜂ではない。
バンディットワスプ。森や山に生息する蜂型のモンスターだった。
「くっ……」
咄嗟に腕を振って払うが、蜂の怒りは収まらない。
耳障りな羽音を立て、腕から引き抜いたその針を、もう一度喰らわせてやろうと接近し、急降下してくる。
「舐めるな虫がっ!」
虫のわりに単調な動き。股間右側に吊るしたシースナイフを引き抜きざま、奴を串刺しにする。
――きゃーきゃー言うとでも思ったか?
ご自慢の針よりも更に巨大な刃が背中側に突き出たその巨大蜂を捨てようとして、私は初めて事の重大さに気づいた。
「なっ……」
きゃーきゃー言う直前ぐらいまでの驚き。
心臓が止まる錯覚を覚えた光景=今くぐった木の幹の後ろから、数えきれないぐらいのお仲間が飛来してくる。
記憶:バンディットの名に相応しいこのモンスターの特徴=一匹が獲物に注入した体液の臭いを察知して集団で襲い掛かる。
どうする?流石にこの数で空を飛べる相手には分が悪い。
武器と言えばナイフ程度。刀は流石に当たるまい。
なら逃げるしかない――どういう速度でどこまで追ってくるのかは分からないが。
「伏せて!」
その考えが固まる瞬間に響いたスイの声。
それまでとは打って変わって強い意志を感じるそれに反射的に言われた通りにする。
その瞬間目に映ったのは、カバンから小さな袋を取り出し、その中身の石のようなものを複数個空に放り投げる彼の姿。
何をする気だ?すぐに答えは示された。
空中に広がった中身。
バドミントンの玉のそれを広げたような羽の生えたそれは、その部分でもって落下速度を落とし、そして一斉に破裂した。
「!?」
「こっちへ!」
突然の事態と、それによって発生した薄紅色の煙の中、こちらに駆け寄ってきたスイが私を起こすと、そのまま進むべき道に走り始めた。
走り出してすぐ後ろを振り向く。煙に突っ込んだバンディットワスプたちが狂ったように同士討ちを始めていた。
(つづく)
今日はここまで
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