それぞれの取り分9
それが一瞬だったのか、数秒だったのか、或いはそれ以上だったのかは誰にも分からないだろう。
随分スローに流れた気がする時間をおいて、スイの声が響き渡った。
「兄さん!!?」
ゆっくり、ゆっくりと、アマキの体が床から離れていく。
植物が根を張って成長する過程を早送りで見るように、アマキに突き刺さった異形の腕が彼の皮膚の上下に張り巡らされていく。
体表を覆うそれは、相手の逃走を防止するために包み込むかのように満遍なく伸びていき、衣服に覆われていない部分からだけで判断する限り、体内に巡っているそれは、体表のものが必要ないと思えるぐらいにしっかりと複雑に絡み合い、血管を全てそれに置き換えているかのように全身を走っている。
アマキの手から落ちた杖が妙に響く乾いた音を立てて床を転がり、異形の腕の枝分かれの一つがそれを絡めとると、同時にアマキへの作業も完了したようだった。
「兄さん!!」
スイがもう一度叫び、音を立てて床に崩れ落ちた兄へと駆け寄る。異形の腕は映像を巻き戻すように元の姿に戻り、用済みになった相手を捨てて引き返していたが、その本体はまだ扉の前に立っている。
しかし少年にはそれが目につかないようだった。兄を串刺しにしたその異形も、その横で呆然とその光景を見ていた毒の異形も。
そしてその毒の異形が、唐突に動き出したことも。
「ッ!!」
咄嗟に抜刀し、抜き打ちざまに奴の首に刃を当てる。
「動くな。舐めた真似をすれば殺す。貴様も――」
視線を一瞬だけスイの向こうへ。倒れた男の胸は僅かに上下している。
「――貴様の主も」
一体何が目的だったのか、アマキを刺した異形は彼を殺しはしなかったようだ――無傷でもないようだが。
と言っても、あれだけのことをされて出血はそこまで見られない。精々刺された傷口の周りに血のシミがいくつかできた程度だろう。
そしてその血も、恐らくは刺された瞬間にはねただけのもの。信じがたいが、奴が苗床のようになっていた間も、それを引き抜かれた瞬間も、そしてその後も、出血はしていないようだった。
だが、それで拾った命を握っているのは、この毒の異形だ。
こいつの行動如何で、私はこいつもアマキも殺す。
「……」
ちらりと腕の異形を見る――貴様も同じだ。スイに手を出せば殺す。
その思いが通じた――のかどうかは分からないが、唐突に腕の方は身を引いた。
赤い吐息だけが粒子のようにその場に舞って、それを残した本体は後ろに吸い込まれるように飛び下がった。
「あっ、おい!!」
そしてそれを追うように、毒の個体も出口に向かう。
一瞬反応が遅れた私が慌ててその背を追うが、奴にとってはかなり急いでいるのだろう、毒の個体は扉を飛び出し、腕の個体を追いかけていく。
――主の仇か、或いは別の意味があるのか。
まあいい。どちらの異形もスイと私を害するつもりがないのなら別に何をしていようが構わない。
「なっ……」
そう思って足を止めた瞬間、毒の個体越しに見えた奴とこの土地の姿は、思わず私を再度フリーズさせた。
先程見た過去の映像。あの中で緑の濁流に覆われていたこの地。恐らくその毒の濁流がなくなった後はこうなっていたのだろう。
辺り一面に鼻をつく異臭が立ち込め、危険物を刺激臭で感知できることの有用性をしっかりと証明していた。
その異臭の原因=地面に溜まった毒物は辺り一面でドライアイスのように煙となって立ち昇っており、それによって世界にうっすらと緑色の靄がかかったようになっていた。
幸いこの程度の濃度では効果を発揮しないのか、ただ視覚と嗅覚に危険を訴える以上のことはなかった。
そしてそれ以上の危険をもたらすだろう者が、緑の靄の向こうに複数蠢いていた。
爪、牙、尻尾、そして恐らくマンティコアの尻尾に叩き潰された者の成れの果てだろう、肩から先が鞭のように変形した異形たちがわらわらとこのすり鉢の底へと集まってきていた。
「……ッ!」
一瞬だけ後ろを振り返る。
スイが倒れ伏したまま呼吸以外の動きを見せない兄の名を叫び続けている。恐らくは集まってきた連中を用意していた人物の名を。
大方、私たちが谷を抜けてここに至ることを想定し、この辺りを毒で満たしたうえで包囲するつもりだったのだろう。
しかしその計画は破綻した。突然の乱入者によって。
そしてその乱入者は今、集まってきた異形たちと向かい合い、こちらに天使のような羽を広げた背中を向けていた。
「あれは……!?」
その一対の羽に、アマキの体内を巡っていたように無数の管が浮かびあがる。違いがあるとすれば、こちらは奴の吐息のような赤い光を放っていることぐらいだろうか。
その羽が威嚇のように大きく広げられる。それに連動しているかのように奴の右手に持たれた、体と同じ物質の剣を地面と水平にあげる。
雲の間から差し込む光がその体と剣を照らし出し、それに呼応する様に羽の赤さが一層強まる。
「ッ!!」
直後、奴が消えた。
いや、そうではない――それに気づいたのは一瞬遅れてだったが。
ただ高速で移動しただけだ。瞬間移動のごとき高速で。
のろのろと、奴のその動きからすれば止まっているかのようなスピードで近づいてくる異形の集団の頭上に飛び上がる。
それを理解した瞬間、奴の羽は巨大な赤い光の塊となった。
そしてその塊は、一瞬で無数の雨となり地上に降り注ぐ。
「あ……」
自分の口から声が漏れていることにさえ気づかない程の圧倒的な火力。
相手を撃っている、破壊している、そうした表現は適切ではなかった。
光の雨が水煙のようにその中心地を覆い隠し、雨が止んだ瞬間には何も残っていなかった。
粉々になるまで砕いたのか、或いは肉体を完全に蒸発させたのか、もしくはその合わせ業か、まあどれでもいい。
明らかなことは一つだけだ。どういう理由かは知らないが、奴は敵の死体すら残さず消滅させた。初めから何もなかったかのように。
最早生物――魔物をそう呼ぶことが出来るのなら――の所業とは思えない。恐らく兵器か、もしくは自然災害に分類されるべき破壊力。
その実行者は再び地上に降り立つと、再度常識外れのスピードで僅かな生き残りに襲い掛かっていく。
既に赤い光は消滅している。恐らくあの光の雨にはあの光のチャージが必要なのだろう。
だが、どうやらあの一瞬でトップスピードに達する――そしてそのトップスピードも何かの間違いのように速い――能力にはあれは関係ないようだ。
のたのたと、目の前の敵に対抗しようとする生き残りたち。
それらの間を奴が駆け抜け、同時に手に持った刃が煌めく。そしてその度に奴らがその数を減らしていく。
戦闘とさえ呼べない一方的な殲滅。
その実行者に、毒の異形は一直線に向かっていく。
「「……」」
最後の異形が寸断され、そして残された毒の異形が、殲滅者と向かい合った。
「なんだ……?」
傍観するしかない私。
しかし、事態が動いたのはその対峙を認めた直後だった。
「……ッ」
毒の異形が先に動く。
その両手を殲滅者に広げ、かの者に更に一歩近づこうと踏み出した。
そしてその瞬間、今度は殲滅者の刃が毒の異形を貫いた。
毒の異形は崩れ落ちる。
その最後の敵から剣を引き抜き、殲滅者はふわりと宙に浮きあがると、一度の羽ばたきでぐんと高度を上げ、そのまま林の向こうへと飛び去って行った。
「去った……のか?」
残ったのは私と、いくつかの死体と、異臭を毒だまりだけ。もう何の気配もない。
「行ったぞ」
そう言いながら塔に戻ると、杖も部下も失った男は、既に息を吹き返していた。
(つづく)
投稿が不安定になり申し訳ありません
今日はここまで




