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「アンジェ、困っている君を見ているのが辛かったんだ」
リオンは優しくアンジェリカの手をとった。
「男性に触れられない君だけど、俺なら大丈夫だろう?」
「大丈夫もなにも、あなたは女の子じゃない! リオ、ここ1ヶ月姿を見せないと思ったら、急にそんな格好をして!どうしちゃったの?」
手を握られたまま、アンジェリカは改めてリオンを見る。
「長くて綺麗な髪だったのに勿体ない…」
群青色の柔らかな髪は、ばっさりと切られて綺麗なうなじが見えていた。
「アンジェと婚約するためだよ。俺はリオじゃなくてリオンになったんだ」
「…えっと意味がわからないのだけれども」
王が、まあ座りなさいと着席を促し、一同は席についた。
人払いがしてあるので従僕もメイドも入室してこない。
王が指でトンとテーブルを叩くと、湯気をたたえた紅茶の入ったティーカップがそれぞれの前に現れた。
紅茶を一口飲み、王がふぅっと息を吐く。
「では説明しよう」
男性恐怖症とはいえそれを公にはしていないアンジェリカには毎日沢山の釣書が届く。
それに辟易しているアンジェリカを横で見ていたリオは思った。
『さっさと婚約してしまえば落ち着くだろうけど…』
しかし、アンジェリカは男性恐怖症。
無理矢理笑みを浮かべて男性の横に立つ姿が目にうかぶ。
そんな姿は絶対に絶対に見たくない。
『そうだ、私は背も高いし声も低い。男装をして婚約して最後には結婚してしまえばいい!』
ということでリオは髪を切り、男性の服を身につけリオンとなりアンジェリカの婚約者となったのだ。
「……待って下さい。色々と言いたいことがありすぎてアレなのですが、まずはジェブリ侯爵!」
「何でしょう、アンジェリカ様」
優雅に微笑む侯爵。
「あなたは愛娘が男性のふりをして、女性と結婚するという突拍子もない提案をなぜ受け入れたのですか?」
「確かに突拍子もない話なのですが、うちの娘も結婚は絶対にしないという頑固ものでして。しかもよくよく話を聞くとあなたに恋をしているというではありませんか」
「へ!?恋!?」
アンジェリカは思わず声を裏返らせた。
「そうなのです。私は娘の恋路を邪魔するのではなく、応援する父親でいたいのです」
「え? え?」
「まぁ、それは置いておきまして。
数多の婚約の話のせいでアンジェリカ様の精神状態も良くありませんし、政務が滞っている状態はいかがかと思いまして娘の話を受け入れたのです」
「私のために大事な娘の人生がとんでもない方向へ変わるのよ?」
「国を支えるアンジェリカ様のお役に立てるなら、ジェブリ家の本望です。
ここ1ヶ月でアンジェリカ様の伴侶となるに恥じない教育を娘…いや息子に施しました。
必ずやアンジェリカ様の愁いを払い、力になる存在となることでしょう」
「で、この話を持ってきた時のリオの様子は?」
「アンジェリカ様の力になりたい、良い案があるのと満面の笑顔で抱きついてきたリオは、我が子ながらとても可愛かったです」
「………そう」
キリリと表情を引き締め言い切る侯爵にアンジェリカは生暖かい笑みを向けた。
「ふふっ。父上大好きです」
リオンがにっこりと侯爵を見た。
でれんと侯爵の目じりが下がる。
「どんな形であれ、娘が幸せになってくれれば良いのです。それに、娘に変な虫がつくのは耐えられません」
そうじゃそうじゃと王が小声で追従する。
アンジェリカはため息をついた。
「…仲の良い親子で結構なこと」
リオンは嬉しそうに頷く。
「うん!だからアンジェ、何も気兼ねなく俺と婚約して結婚しよう?」
能天気なリオンをアンジェはきっと睨みつける。
「次はあなたよ、リオ!」
「ん?」
「今まで女の子として生きてきたのよ?夜会にも出ていたし、知り合いも多いし、胸の開いたドレスだって着ていたし、男ですなんていきなり言われても無理があるわ!」
「それはこの格好を見ても無理だと思う?」
リオンは椅子から立ち上がり、アンジェリカに向き直った。
外向きに開かれた足には最近若者の間で人気のUチップの革靴。
あんなに豊かだった胸はどこにいったのか、ディープブルーの三つ揃えをすらりと着こなし、真紅のアスコットタイを蝶下げ結びにして洒落っ気を出している。
端正に整った顔は当然ながら女性の格好をしていた時のままだ。
だが…。
「…眉が違うわ」
「きりっとして見えるように整えたんだ。どう?」
リオンは前髪からのぞく切れ長の瞳でじっとアンジェリカを見つめる。
…眉を整えただけでこうまで雰囲気が変わるものなのね。
アンジェリカは思わずリオンを凝視した。
「おかしな所があったら教えて?」
無いとは思うけど、と薄い唇から出てくるのは自信を漲らせた甘く低いテノールの声。
アンジェは思わず目を逸らした。
「い、違和感はないけれど、それ以前の問題よ!あなたは女性として歩んできた過去があるのよ。世間の目をごまかすなんて出来ないわ」
「それができるんだ。魔女エリーズのおかげでね」
「大魔女エリーズ!?そんな!10年前の建国250周年の行事の時以来姿を見せていないのよ!人嫌いで人間とは関わりたがらないって有名じゃない!」
魔法に人生を捧げ、いつしか人間では持ち得ない力を持った存在を魔法使いや魔女と呼ぶ。
エリーズは予言の魔女と呼ばれ、重大な国の行事で予言をさずける時だけは顔を出すが、普段は全く姿を見せず幻の存在となっていた。
「表向きは、な。そうなっておる」
王は愉快そうにお腹を揺らした。
「表向き?」
「収穫祭は雨の多い日季節に行われるが、なぜ毎年晴れると思う? お前の兄が王族でありながら好いた者と結ばれたのはどんな偶然が起こったからか覚えておるだろう?」
アンジェリカはハッと父を見る。
「大魔女エリーズは宮廷できちんと予言者として仕事をしているの?人嫌いで有名なのに?」
「さよう。人嫌いというより極端に面倒くさがり屋なのだ。人と繋がり縁ができるのを面倒くさがる。彼女は自分が話しても良いと思った人間の前にしか姿を表さん」
「話しても良いと思った人間がリオだったってこと?」
アンジェリカが振り向くとリオンが頷いた。
「そう。アンジェと婚約したいと父上に話していた時に、エリーズが入ってきたんだ」
あれは窓から涼やかな風が入り込む午後だった。
話があるというリオンのために、侯爵は人払いをし、盗聴防止の結界を張った。
リオンが公爵に話をしていると、暖かな風が吹いた。
風の吹いた方を見ると絵姿そのもののエリーズが立っていた。
エリーズの金色の瞳がリオンを捉え、上品に細められる。
「何やら面白い話をしておるな。そんなお主にこれをやろう」
大魔女エリーズはそれだけ言ってリオンに1枚の紙を渡す。
そして「楽しませておくれ」と華麗に微笑み、暗い紫色の豊かな髪をなびかせ風と共に姿を消した。
「それがこちらなのです」
侯爵が差し出したのは、少し黄ばんだ羊皮紙だ。
《この者、リオン・ジェブリを女児として育てるがよい。
さすれば有益な富をもたらすであろう》
たったそれだけの文章だった。
下部に書かれたリオンの生まれた日付に被せるようにして、魔女の刻印とサインが魔法による光るインクで刻まれていた。
魔女の予言は絶対である。故に人々から恐れられ崇められる。
「ええええ!さもリオが生まれた日に予言されたかのようにみせた偽造文書ではないですか! 魔女の予言はそんな感じで作られるのですか?こんな適当なのですか?」
「これは予言ではない。未来を視ているわけではないからの。予言書の書式ではないし王家の刻印がないので公式な予言書としては成り立っておらぬ。ただのエリーズのメモじゃ。紙切れじゃ」
「か、紙切れ…」
「魔女と国との間に交わされた契約の中で、予言として公式に表に出るものは厳格に取り決めがされておる。予言はきちんと予言であって、我々や魔女によって作為的に作られているものでは無い」
「これが、ただのメモ…」
アンジェリカはご立派な様式でいかにも予言書然とした大魔女のメモを見つめる。
「これを信じる信じないは個人の自由じゃ。なにせ公式なものではないからの」
侯爵が頷いた。
「我が家はもちろん大魔女のお言葉を有難く頂戴致しました」
「ええぇ…」
アンジェリカは開いた口が塞がらない。
「大魔女エリーズってもっと厳格な方だと思っていたけど、親しみやすい方だったよ」
リオンはエリーズの金の瞳を思い出す。
「エリーズは退屈しておるからの。突拍子のない話が大好きなんじゃ。人と付き合いたがらない癖に、面白そうだと思った人物には自分から寄っていく」
王は、わしも昔は王妃の件で世話になったと遠い目をして髭を撫でた。
「魔女殿のこのメモを公表すれば、リオンは今までこの言葉に従って女装をしていたと世間は思でしょう。公式な予言書ではないとはいえ、エリーズの言葉です。皆信じるでしょう」
戸籍もちょこっといじくりましたと侯爵は爽やかに笑い、一口紅茶を飲んで、すっかり青年貴族となったリオンをちらりと見る。
「なのでアンジェリカ様、何も気にせず娘、いや息子との婚約を受け入れて下さって良いのですよ」
「そうなのね…ならだいじょう…ぶじゃないわ!!」
人を安心させる侯爵の笑顔に、アンジェリカは思わず頷きそうになった。
…危ないわ。笑顔で貴族や商人を丸め込むのは侯爵の十八番よ。しっかりしなきゃ。
コホンと咳払いをし、アンジェリカは王に向き直った。
「そもそも王族の婚約者の性別を偽るという事は罪にはならないのですか?」
今回はお父様もご存知だけれど、そうでなければ犯罪だと思うのとアンジェリカは不安そうに言う。
「子孫繁栄を義務付けられておる王族にとっては結婚は一大事である。だが、王子の結婚も無事済み、エリーズから彼らは沢山の子宝に恵まれると予言を貰っておるので問題はない」
「そんな!お父様、国民を欺くことに罪の意識を感じないのですか?」
「私は王だ。国民のために嘘はいくつもついておる。それが一つや二つ増えたところで何も変わらん。ましてやお前が幸せになるのであれば尚更だ」
「幸せって!勝手に決めつけないで下さい!」
リオンがさっとアンジェリカの手を取った。
「必ず幸せにするよ」
菫色の瞳にまっすぐに見つめられ、アンジェリカは居心地が悪くなりもぞもぞと居住まいを立たす。
「そうじゃないわ!そうじゃなくて!」
アンジェリカはもうどうしたら良いか分からなかった。
侯爵と父王による、わけのわからないこの婚約話の強引な肯定、大魔女エリーゼからのよく分からない後押し。
さらにアンジェリカを混乱させるのはリオンである。
淑女のそれだった一つ一つの仕草は、今では全く男性のものなのだ。
「わ、私はお兄様のように好きな人と結婚したいの!リオの事は大好きだけれど、そういう対象としては見れないわ!」
「その好きな人に男性は当てはまらないんだろう?」
リオンはアンジェリカの手を包み込んで優しく言う。
「わ、わ、分からないわよ!いつか私が素敵と思えるような方が現れるかもしれないわ!」
「いつ現れるかわからない人を待つより俺にしなよ」
「しーまーせーん!女の子で友人のリオと結婚なんて考えられないもの!」
「でも今は俺、見た目も世間的にも男性だよ?」
「そうじゃなくて!確かに今のリオがどこからどうみても男性なのは認めるわ!でも違うの!リオとは無理なの!そういう風に見れないの!」
涙目になって必死にリオに訴えかける。
アンジェリカの様子を見てリオンは顎に手を当て、考え込んだ。
「……」
長い睫毛が目元に影を落とす。
「リ、リオ…?」
「わかった」
「本当に!?」
「わかってくれて嬉し「結婚はアンジェが俺に愛してるって伝えてくれたらでいいよ」」
「……え?」
己の言葉に重なったリオンの言葉を反芻する。
「婚約はアンジェの心の平穏のために必要だろう?だからしばらくは婚約者のままでいい」
…今リオは何と言った?私の思いが伝わったのではなかったの?
「今すぐに結婚とは言わない。アンジェがこの格好の俺に惚れて、愛してると言うまでは結婚はしない」
「何よその自信!男装した姿がちょっと格好いいからって調子に乗らないでちょうだい!」
アンジェリカは開き直った。
椅子から立ちあがり、リオを見上げビシリと人差し指を突きつける。
「いいわ!受けてたつわ!婚約はするけれど、絶対にリオとは結婚しない!あくまでも縁談避けのための婚約よ? 愛してるだなんて絶対に絶対に言わないわ!」
「言ったね?」
リオンはアンジェリカを見下ろし、ニンマリと薄い口元をゆがめた。
そして突きつけられた手をぐいっと掴んで引き寄せる。
アンジェリカの小さな顎を反対の手でくいと押し上げ、飴色の双方をのぞきこんだ。
「愛しのアンジェ、覚悟しておいて」
言うと同時にちゅっと頬に口づけを落とした。