桜の蕾
明るい朝。
青々とした広葉樹の葉が茂り、時折若干冷たい風が頬を撫でた。
川沿いの朝練コース。それを少し外れて登下校する道の方まで走っていくと、葉も花もない木の並木道がある。
その先にある小さな生命。
三月が始まった
「純先輩、桜が咲いたら、2人で見に来ましょうね!」
江川との朝練はあれからずっと続いている。
一緒に走らなかったのは、あの風邪をひいた一日だけだ。
この二ヶ月。
短くて実は長いような時間の中で、江川は完璧にクラスにも陸上にも馴染んでいた。
俺と江川との関係はそもそもが近かった事もあり、それ程大きな変化は起こっていない。
敢えて上げるとしたら、毎日の弁当が2つになった事であろうか。
俺が練習中に「腹減った〜、弁当箱小さいんだよ!」
とか、何だかんだで湊汰や和也と言い合っていたのを耳にしたらしく、ある日から弁当を作ってきてくれるようになったのだ。
それからは、取り敢えず江川が俺の教室に来るまでの母親の弁当を食べ終え、江川が来てからは2人でまた彼女作の弁当を食べるという日々が続いている。
弁当を食べる所はそれこそ、屋上、グラウンド、木陰、中庭など多岐にわたり、もちろんそのまま3年の教室で食べる事もある。
その為、江川は自クラス以外に俺のクラスとも馴染んでいるようなのである。
まぁ俺より、俺のクラスの人達と仲良さそうなのは、ちと思わないことも無いでは無いのだが……
「ねえ! 純先輩、聞いてます!?」
おっと、回想もここまでかな。
練習の途中に立ち止まるのもあまり長くはお勧めできない。
てっ、近い……!
そして、二ヶ月がありながらも慣れないのがこの恥ずかしさ。
いや、てか女子とのほぼゼロ距離シチュとか、そもそも慣れるものなのかよ!?
しかし、江川の方はもう慣れっこのようで最近は一方的にドキドキされる事が多く悔しい限りである。
「……き、聞いてるよ」
我ながらに歯切れの悪い返事であるが、それの文句は言わせない。
「約束する。だって江川以外の子と一緒に桜見るなんて考えられないし」
その返事に目の前で顔を隠す江川。
最近では少しレアになってしまった江川の最大の照れ顔だ。
いや、だって普通に朝練しながら、毎日ここに通ってたらそうなるのは必然だろう?
との内心のツッコミはあっさりと瓦解する。
────はい、彼女の照れの意味を語りました……
「……取り敢えず走るか」
「……はい」
共に顔を真っ赤にしていてはまともに話す事も向き合う事もままならない。
「行きますよ!」
だからか、江川は朝練にしては速すぎるスピードで練習を再開する。
慌ててそれを追いかけるが全く距離は縮まらない。
風に乗って彼女の甘い香りが過ぎ去った。
意識して見ると、やはり彼女の走り方は美しかった。
まるで足に羽でも生え、そして身体全体で空に憧れているようなスピード感。
それでいて、足が地面にある事を許容しているような安定感
常に横を走っていた彼女。
この彼女の後ろ姿。
数日後、それが俺の心に強く残る事になろうとは、その時の俺には知る由もない事であった。