ヒップドロップの目覚め
「……ん?」
鼻腔をくすぐる甘い匂い。
後頭部には何か柔らかいものがあり、寝心地がいい。
(俺、新しい布団でも買ったかな?)
取り敢えず、起き上がろうと腹筋に力を込める。
「痛っ!」
腹に走る衝撃。一瞬涙目になるが、逆にそれが功を奏し、目の潤いを取り戻させる。
結局、すぐに起き上がることが叶わず、俺の視線は上を向く。
そこにあるのは見慣れた家の天井ではない。
「気づきましたか?」
見えるのは上下が逆向きの女の子の顔。
その時点でようやく俺の記憶が繋がり始める。
(そうか、俺はストレッチ中にもろヒップドロップを食らわされて……その後の記憶がない)
「こいずみ先輩……ですか?」
さて、まだ状況を完全に把握していない状況での質問。
顔を見る限りその純粋無垢な光の中には欠片の悪気も見えない。
「どうして名前を?」
「ジャージ。そこ、思いっきり〝Koizumi〟て刺繍されてましたから」
指をさされたのはジャージの右肩部分。そこには白色の刺繍が腕に沿うように縫い込まれている。
ちなみに背中には大きく〝KASUMI〟の文字が黄色でプリントされてある。
これはもちろん〝霞駆高校〟の意味である。
「そか。……で、ところで、今俺はどんな状態なんだ?」
彼女の質問のせいで思考を後回しにしていたが、これは聞いておかなければいけない。
何故ならば俺は実のところ思考は後回しでなく、放棄しているからだ。
俺も馬鹿ではない。仮説の一つくらいをたてる頭は備えてある。
だがしかし、人は時にある物事に対し、敢えてその認識を拒む事を選択する場合がある。
俺はその偉大な先人達の知恵により、表情を比較的冷静に保ち、かつ会話をする事にも成功している。
だから、
「膝の上ですよ」
……今なんと?
「だから、先輩は今私に膝枕されています」
だから、直球で放り込まれた事実は脳天を直撃し、俺の羞恥心を正常に作動させた。
★
先ほどの膝枕から時を数えること500ほど。
俺達は並んで帰路についている。
ちなみに真っ赤になって戻らない顔は、血行が良く、走った後の常であるという事で納得してもらっている。
さて、ここで何故一緒に帰っているのか、と問われれば答えはたまたま家の方角が同じだったと答えるだろう。
別にそれに嘘はない。
────ちなみに、それ以外に何かあったとしても俺は認識してないし、仮に認識しても外部に出すつもりはさらさらない。
さて、彼女と歩きながら分かったことが数点。
一つ目は彼女は引っ越してきたばかりという事。
それならば見かけない顔なのにも納得がいく。
二つ目は彼女の名前が江川彩光であり、高校二年である事。
ちなみに彼女が俺のことを読んだ時〝先輩〟をつけたのは年を知っていたからではないらしい。
彼女曰く、『男の人って女の子から先輩って、呼ばれると喜ぶって聞いたので。もし、そうならヒップドロップも少しは大目に見てもらえるかなと思いまして……』
彼女がどこからその情報を仕入れたのかは知らないが、それを話す姿がとても一生懸命だった事と、なによりそれが図星だった為、敢えて問うことも無かった。
三つ目は彼女の転校先が霞駆高校(通称、霞校)であった事だ。
そして、最後の四つ目はもう時期知らされる事となる。
Y字路にさしかかった所で彼女は足を止めた。
「あっ、もうすぐ家なんで! お疲れ様でした〜。せーんぱいっ!」
「あぁ、じゃあ気をつけてな……江川」
「はい!」
そのあざとさがなく、純粋な言葉は的確に俺の胸をついてきた。
(まったく凄いやつである。まるで出会ったばかりには思えない距離の近さだ)
そして、それは何故かすんなりと心地よい。
再び歩き始める2人。
江川は左に、俺は右に。
俺はその道を10メートルほど歩き、今度は左に曲がり、右手に空き地を見ながら玄関に立つ。
すぐ近いご近所さんはいない。
ここは元々工場があったらしく、空き地が多いのだ。隣に俺の家と同じ作りの一戸建てがあるのだが、そこは随分前からの空き家である。
反対側の道から歩行者がくる。これはまた珍しい。
片側は民家の裏、もう片方は玄関こそ向いているが、一戸建て二つの寂しい脇道。
そこを通る必要があるのは物好き以外、その家の住人のみだ、
(よし、物好きの顔でも拝むとするか)
徐々にはっきりしてくる物好きの姿。
黒髪ショートの女の子。女子にしては回転が早くしっかりとした歩き方。
(おい、まさか……)
家の前にたった頃にはお互いもう完璧に気づいている。
「また会いましたね、純先輩!」
呼び方が既に名前になっている。
だが、今はそれよりこの驚きが強すぎた。
最後の四つ目、彼女────江川は俺のお隣さんである。