あなたの事を知っていました
五月
桜の面影は遠に消え、葉と雫の気配がてくてくと迫ってくる。
久しぶりの1人。
今日は彩光が早朝から学校へ用事があるという事で、孤独な朝練だ。
長い河川敷に一本の風が吹く、舞い上がった朝露がぽつんと俺の瞳を潤わせた。
一年前の今を思い出す。
あの日の俺もその瞳を潤わせていた。
800メートル予選 1組目 7コース
一年経った今でもそれは鮮明に覚えている。
────
パァンッ
(準決勝に行けるかも……!?)
そう思ったのは300メートル通過地点。
高ぶった気持ちと場の雰囲気が融合し、俺の足は絶好調の動きを見せていた。
400メートルを通過。
やや足の動きが鈍くなり、2人に抜かれる。
前に走るのは計4人。
準決勝に行くには最低2人を抜くのが必須条件である。
550メートル通過。
1位との距離は約15メートル。
(……ギリギリの射程圏内)
一瞬視界が暗く染まる。
刹那
瞼の裏で行われるイメージ。
先頭を駆ける、勝利のイメージ。
運命のラスト200メートルのライン。
それから、数十秒の記憶はほとんど無い。
俺の記憶が始まるのはその2時間後。
準決勝の舞台である。
俺はそこで最下位をとり、泣いた。
俺の足は限界だった……。
予選突破を果たすのに、俺は全力を注いだのだ。
別にそれを悔やむつもりはない。
俺の力が足りなかっただけなのだ。
それに……
仮に力があったにしても、予選だからといって力をセーブするのは俺の性分じゃない。
だって、そんな走りだと楽しくないから
俺の脳裏にとある人の言葉が浮かぶ。
『なあ、純。お前、なんで走る?』
『────』
『答えにくかったかな……、なら取り敢えず俺の答えを聞け』
『はい』
『俺はな、俺の走りで会場を笑顔にしたい。思わず身を乗り出して、俺だけを魅せれる。そんな走りをしたい』
『そんな事……、』
『〝笑顔〟それと〝エンターテインメント〟』
俺の言葉を遮るように置かれた言葉。彼はそれを最後に俺の前から姿を消した。
彼は俺の最初の師匠だった。
でもな、でもな……本当に悔しかった
俺の瞳は誰もいない競技場で1人、潤っていた。
でも、そんな彼は気づくはずもない。
誰も居ないはずの競技場、そこにはもう1人、彼を見つめる小さな影があった。
時間は遡ること数時間。
800メートル予選が始まる、少し前の頃である。
競技場のバックグラウンド側。
トラックの第三コーナー辺りの芝の上にその少女は居た。
江川彩光
まだ高校一年の彼女、彼女の瞳は暗く、地面を見つめていた。




