森の眠り姫
太陽が頭上を通過してどれほどの時が流れただろうか。
高い木に阻まれ、その存在は届く光の強さでしか分からない。
朝は江川の事しか頭になかった為に、時計も携帯も忘れてきてしまった。
────けど、今の俺はまだ多少の幸福感を覚えていた。
微かな寝息と、肩にかかる重み。
背中の硬い木の幹と、左半身の柔らかい肌。
陽がまた弱まる。
さて、何故かいまいち危機感を認識出来ぬ思考の中、俺の記憶は数時間前へと遡る。
あれは、森のカフェを出て直ぐの頃。
「あっ、アゲハチョウ!」
少女の口から飛び出す無邪気な言葉は、時として無意識に人を迷わせる。
その無垢な少女はただ、ひたすらに空の影を追う。
ここから、冒頭のシーンに移るための必要条件は3つ
一つ、蝶が俺達の目の前を通る事
二つ、その場に居たのが蝶を追いかけるほど純粋な人である事
そして、最難関の三つ目。
追いかける少女の身体能力が、舗装されて居ない山道で軽々と行動できるレベルに達している事……。
(はぁー)
まさに、呆れてものが言えないとはこの事である。
奇しくも俺の隣人はこの最大の難関である三つ目の条件を軽々とクリアしている。
運命の条件クリアから30分後。
俺達は無事森の精霊に惑わされ、……歩き疲れ。
手身近な木の下に座り込むこと更に幾らか。
ここで俺はやっと冒頭へと到達する。
眠気により、幾度か途切れたその意識にはおおよその時間さえも分からない。
唯一確かなのは、隣人────江川から、肌越しに伝わる温かさと鼓動。
彼女の寝息とその鼓動は一定のリズムを刻み続ける。
真っ直ぐ以外を知らない。
純粋な心に〝我〟を秘めた、そんな彼女を体現するかの様な力強いリズム。
常に前を走る音。ただ今だけは、横にある。
横。
俺はそれだけに満足するような性格はしていない。
数十年前の日本人はこのような言葉を残している。
『欧米に追いつき、追い越せ』
あの日誓ったその気持ち。
陸上において、そして────
俺がこの鼓動で気づいたもう一つの事。
彼女の鼓動よりもやや早くリズムを刻む音。
不安定で、情けなくて、それでも時々覚悟を決めるかのように、一際大きな脈を打つ。
俺の心臓、俺の心。
縮まる距離。
脈が更に〝速くなる〟
周りの景色は見えなくなり、その代わり画面いっぱいというように江川の顔が表れる。
唇の距離が指一つ分となり……
「やっ!!」
「うわっ!!」
ゴツッ!
突然飛び起きた江川との頭合わせによってそのカウントを無にする。
前のめりに起き上がった彼女は見事唇が合わさる前に頭突きを俺に放ったのだ。
「痛ったーーーっ!」
涙目で俺を見上げる江川。その純粋さに先程までの自分の行動の情けなさが思い出される。
男なら
────直接伝えなくてはならない
「江川……その話がある」
真剣味が伝わったのか、未だ頭を抑えてはいるものの、江川は黙ってこちらを見ている。
寝起きであり、更に突然の舞台展開に申し訳なさを覚えないではないが、これまでの彼女の自由奔放さに付き合った身としてはこれくらいの許しは欲しいものである。
「俺、実は……」
それだけで肺の空気が無くなる。言葉が直ぐには出てこない。
たった一言。〝好き〟と言うだけの空気が足りない。
一度の深呼吸。
いつの間にか、江川の手は頭から離れ、身体の横にすとんと伸びている。
口を広げ、肺いっぱいに空気を吸い込み────




