プロローグ
『それでは女子800メートル、決勝の選手の紹介に入ります。第1レーン────』
アナウンスが入る。六月の太陽は彼女の笑顔に落とされたのか、今ばかりはその勢いを弱めている。
風は無い。カラリと乾いた競技場に、アナウンスの声と、ギャラリーのざわめきが響いている。
3人の選手紹介が終わり、遂に彼女の番となる。
『第4レーン。江川 彩光。霞駆高校』
「せーのっ!」
仲間の誰かが合図を送る。決して小さい声ではない。彩光
仲間全てに行き渡った声に、数十人の肺が反応する。
「「「「あかねぇーーーっ!」」」」
何色ものTシャツが、ジャージが、ユニフォームが、彼女の為に空気を震わせる。
皆等しく彼女の笑顔に救われ、元気づけられた人々だ。
ここまで他チームの応援が多いのは珍しい。
それどころか、中学から高三までの長い陸上人生でも初の経験かもしれない。
全く〝俺の後輩〟にはこの半年間ビックリさせられっぱなしである。
────そして今日も、一際大きい驚きを俺たちに与えてくれるのだろう。
競技場。1周が400メートルでレーンは8つ。
そのセンターとなる第4レーンに彼女がいる。
大きく手を振り、最後に勢いよく腕を下から上に突き上げ、そのまま上空で停止させる。
一瞬時が止まったと勘違いする程の存在感。
それだけ見れば、その目に映るのは絶対支配者の姿である。
しかし、その姿を見るものは少なくともこの場にはいない。
だって────
彼女は笑っていた。満面の笑みで、その明るさを会場すべてに向けて。
癒しの笑顔で人を脅すことは不可能である。
残りの選手の紹介が始まった。
その間、彩光は高く二度ジャンプして脚の状態を確認すると、次は太ももから順に上から下へと脚を叩いていく。
手のひらで太ももを素早く叩き、程よい刺激を与えていく。
そして最後に第八レーンの紹介が終わると会場が徐々に静かになり、緊張感が増す。
選手達はスタートラインぎりぎりに片足を置き、もう片方の足を一歩引き、若干前傾姿勢になりながらスタートに備える。
もちろん、彩光も。
姿勢が下がる瞬間、彼女の動きが止まる。
そして素早く後ろを振り返り、ある一点を見つめるとそこにウインクを送った。
数十人の視線が1人の男へと集まる。
くそ、あいつ……あんなあからさまに……。
幸いにも、スタート前の緊張のお陰でちゃちゃを入れてくる奴らはいない。
オン ユア マークス
一瞬後に訪れる、喜び、猛り、苦しみ。
複数の入り交じる感情にその銃口は向けられる。
パアンッ!
緊張を破る音が会場に響く。
それを合図に8人の選手が空へと解き放たれた鳥のようにスタートする。
歓声に会場が震える。
その先頭を走るのは空色のユニフォームを纏った、黒髪ショートカットの鳥。
「あかねファイトッ!!」
会場の中で一番彼女からの笑顔を受け取った男。
同じ800メートルを走り、同じ練習を積み
〝彼女に惚れた男〟
これは、そんな男、俺。
小泉 純と
一つ年下の笑顔の少女、
江川 彩光の
6ヶ月間の『走りと甘い青春の物語』である