コーヒースタンド
「ありがとうございましたー」
最後の客にやや高めの声でそう言うと、私は思わずため息をついた。
日はすっかり落ちて、あたりは真っ暗だ。廃ビルの間に挟まれたちっぽけなこのコーヒースタンドを、みんなよく見つけるものだ。
やっと店の片付けが出来る。
通信機経由でコーヒー豆や必要な備品を発注し、使った容器を洗い、ゴミをまとめ、レジを精算すればようやく家に帰れる。
店が繁盛するのは嬉しいが、何もここまで流行ってくれとは言っていない。
深呼吸をひとつして、私は通信機のボタンを押し、発注画面を表示させる。
人気の豆を切らさないように、一つづつ種類を選んで配送の手配をする。
なんて面倒なシステムなんだろう。
電車に通信機に飛行機なんて序の口。
こんなに科学技術が古代のレベルに戻りつつあるのに、コーヒー豆すらまとめて発注できないなんて。
どう考えても理不尽だ。
豆の種類を増やし過ぎた感じも否めないが、それは頭の隅に追いやっていつも通りの手順で発注を進める。
会社員生活に馴染めず、一念発起して始めたコーヒースタンドは、夜逃げしようかと思うくらい最初は酷かった。
コーヒーの味には自信があった。趣味が高じて、まさに"好きこそものの上手なれ"。友人には美味しいといつも褒められていたし、実際、店が軌道に乗る前から来てくれていた数少ない客からも、とても好評だった。
ただ……。
いかんせん、経費節約のために借りた場所が悪すぎた。
オフィス街からは中途半端に距離があり、そこで働く人たちは近くにある駅前の巨大なモールに行ってしまう。おしゃれなカフェやレストランがこれでもかと集まっている商業施設で、よくもまぁこんなに腹を空かせた人間がいるもんだと思えるくらいの集客力があるモールだ。こんなちっぽけなコーヒースタンドなど敵うはずもない。チリや埃の方が、まだ気に止めてもらえるのではないだろうか。
そんな立地だから、近くにあるといえば大きな治水公園や、殆んど使われず、ときどき学生が試合をするスポーツ施設か、幼年学校くらいだ。幼い子供は私とおしゃべりするだけなうえ、一緒に来てくれる母親も、今後の子供の養育費捻出のため、節約モード一色だ。申し訳なさそうな力無い苦笑いとともに、さっさと会釈だけして帰ってしまう。
まったく、なんてことだろう。
この場所ならぜったいに儲かるだなんて、占い師のおばあさんの言うことを信じた私が馬鹿だったんだ。
なんで信じてしまったんだろう。
『この場所であんたがコーヒースタンドをしてくれるのを、待ってる人が大勢いる』だなんて。その場で『よし、やってみる』と言えば、『これで世界は救われた』なんてことも言っていた。どう考えても、自分が血迷ったとしか言えない。
"結婚は"とお決まりの言葉から始まって、"孫の顔は"にステップアップし、"自営業だなんてとんでもない、絶対に失敗する"、"あんたはアドバイザーに騙されてる"だの、何かと口うるさい母親に、大口叩いて決別したのに、ざまあない、それみたことかと、今にも母親の声が聞こえるようだ――――
―――――そう思った矢先だった。
珍しく、平日の真っ昼間に、男女二人がやって来たのだ。
最初二人は、私のコーヒースタンド前を、雑談しながらのんびりと歩いていた。
女性はおそらく20代後半から30代前半といったところか。長く淡い茶色の髪は緩くウェーブし、きめ細かい白い肌は透き通っている。目はぱっちり二重のアーモンド型だ。形の良い他のパーツもきちんと自分のいるべき場所に鎮座しており、テレビでみるどんな女優よりも綺麗だ。服装はシャツにジーンズ、そして薄いカーディガンを着ていた。足はすらりと長いうえ、足首がちらりと見える丈で、それがまた似合っている。シンプルな白のスニーカーを履いているから、どうやらデートという感じでもなさそうだった。
一方男性はといえば、こちらも恐ろしく顔立ちの整った爽やかな人だった。見た感じだと、まだ20代半ばくらいで、女性と同じように、シャツにジーンズ、薄いジャケットと、ラフな格好だった。程よく背は高く、短い黒髪は風に柔らかく揺れていた。女性と同じようなアーモンド型の瞳は透き通おるような黒色で、高過ぎず低すぎず心地良い高さの声は、穏やかそうな彼の人柄が如実に表れていた。どうやら彼は女性の後輩らしく、女性を先輩と呼んでいた。
その日は朝から快晴で、天気予報でも一日中晴れだと言っていたにも関わらず、昼頃に急に猛烈な雨が降ったのだ。まさにスコールさながらで、のんびり歩いていた件の女性と男性は、私のコーヒースタンドの隣にある廃ビルに慌てて駆け込んだのだ。吹き付ける風雨から逃れるように二人は移動し、結局コーヒースタンドのすぐ側まで戻ってきた。
『雨止みそうにないわね……ゲイリー迎えにきてくれるかな……』
男性の上着にすっぽりとくるまれて、猛烈な雨から庇われていた女性は、男性の上着の中からひょこっと出てくると、恨めしそうな表情でぽつりと言った。そして、お礼代わりなのか、男性の腕をぽんぽんと叩くと、小さなハンドバックからハンカチを取り出して、自分の体を軽く拭い始めた。男性はというと、女性から上着を受け取ってばさばさと雨粒を払い、袖を通した。その額からは、水滴がいくつも落ちてきて、男性はそれを無造作に袖で拭った。庇われていたおかげで大して濡れなかった女性は、男性を見上げて心配そうにハンカチを差し出したが、
『もうすぐ止むでしょうし、それまで待ちません?――髪、失礼しますね』
男性はやんわり女性の発言を否定しつつ、女性からハンカチを受け取ると、彼女の髪をそっと優しく拭い始めた。意図しない思わぬ展開に、女性は目を点にしながら、一瞬何かを言いたげにしていたが、まるで力を入れたら彼女が死んでしまうとでも言いたげなその拭い方に、仕方なさそうに小さく笑みを浮かべて、結局何も言わずに、じゃあお願いとばかりに男性に背を向けた。
『止む? これが?』
バケツというより、ダムをひっくり返したかのような見事などしゃ降りに、女性は言う。彼女の言うとおり、当分の間は止みそうになかった。一通り髪を拭い終えた男性から、ハンカチを受けとると、
『なら最低でも午後いっぱいは、私はここで雨宿りすることになる。――ありがとう』
成すすべのないどしゃ降りに肩をすくめながら女性は言った。男性はどういたしましてと返すと、
『たまにはのんびりなにもしない時間があってもいいかと思いますが』
暗に、迎えの"ゲイリー"はいらないとの要望を発言に含ませて、彼女の表情を伺う。
『戻って本庁のピリッとした空気を吸いたいのに……あとはあれもしてこれもして……』
女性はやや大げさに、おどけたような感じで言った。
本庁ということは二人は警察官なのだと、やっと私は気かついた。なるほど、どおりで平日の真っ昼間に休日なわけだ。二人はモールで働いてるような感じには見えなかったので、私はここでようやく合点がいった。
『先輩には何もしない日ってないんですか?』
男性は、隣に立つ女性に視線を送りつつ、声のトーンをやや落として女性に聞いた。
『ない。いつもやることがある。』
女性も先ほどとうってかわって、静かに言った。ただ、隣に立つ男性には視線を向けなかった。
『家のこと以外で?』
『そう』
『……。先輩、一体何を調べているんです?』
ここで女性は、ちらと男性を見て、すぐに視線を反らすと、
『すべきことを、しているの』
固い表情でそう言った。私からは、なんだか少し寂しそうに見えた。男性は深く追及はせず、そうですか、と相槌だけに留めた。
『ん~……ゲイリーはまだ会議だろうなぁ……』
女性は両腕をくいっと伸ばしてのびをすると、通信機を取り出して言った。どうやら女性は、話題を変えて欲しいようだった。
『だと思いますよ。』
彼女の要望に応えたのか、単に別の人物の名前がまた出てきたのがご不満だったのかは定かではないが、男性はやや膨れっ面でそう言うと、人差し指でちょこんと彼女の通信機を押さえて、通信機を持つ彼女の手をすうっと下に追いやった。"ゲイリー"とやらに、連絡して欲しくなさそうだった。
『んー……。これ以上濡れたら、ひなちゃんが風邪引いちゃう……』
『ちょっと先輩?』
『ひな助の方がいい? ひな太くん、っていう手もあるけれど?』
『もっと嫌です……』
『じゃあひなちゃんね♪』
『あはは! "じゃあ"ってなんですか、"じゃあ"って』
『ピー助、ぴよ太、ピーちゃん、ひよ丸、ぴよりん、ひなっピ……』
女性は指折り数えて、バリエーション豊かに愛称の候補を披露した。
『よくそんなに思いつきますね……。まぁ、呼ばれても返事しませんけど』
『気に入らない?』
『ええ』
『全部?』
『ええ』
『ま、まさかとは思うけど……ひなちゃんはいいわよね?
え、まさかダメ??』
『ええ、そうですよ、だからそれもダメです』
いつものじゃれ合いらしく、男性は女性の肩にほんの少しだけ肩を寄せる。
『呼び掛ける時に困るわ、そんなの』
一方彼女はといえば、本気で困るのか、悲愴感漂う声で反論した。
『名前があるでしょう、ダニエル・』
『はいはい、でもそれはあまり気に入ってないんでしょう?』
私は知ってるぞとばかりに、彼女は得意気に言った。
男性の胸元をぽんと叩くおまけ付きだった。
『それは……その……っていうかなんでそれ知ってるんです?』
『電話入れたら……怒るかなぁ……お兄ちゃんは学会だし……う~ん』
女性はしかめっ面でどす黒い空を見上げる。
『だから、課長は会議なんでしょ?あの人がここに来るのは無理ですよ。どうせ俺達は非番ですし、ここで雨が落ち着くまで、様子を見ましょう。――ね?』
一通りくだけた会話が落ち着き、女性は再び自分の通信機を見つめようと視線を下げたが、この間ずっと通信機を押さえていた男性は、慌てて手を広げて、彼女の視界に通信機が入らないようにした。
どうやら、女性は、後輩である男性のために、良かれと思ってなんとかして早く帰る手段を見つけてあげようとしているらしく、反対に男性は、なんとかして女性と一緒にいる時間を伸ばそうとしているようだった。
『ん~、やっぱりそうよね。タクシーが来るまでここで待機かな。それか……北東4ブロック先のバス停まで走れる? 試射で疲れちゃった?そこなら屋根付きだからちょっとはマシだと思うんだけど……』
女性は、う~んと悩める声を出しながら、屋根付きのバス停を候補にあげる。周辺の地理をきちんと把握しているのは、さすが警察官だ。困った顔をして空を見つめる彼女の髪に、雨の水しぶきが付き、きらきらと光っていてとても綺麗だった。女の私でも見惚れるくらいに素敵だったので、案の定、男性は女性に釘付けになっていて、彼女の話はちっとも聞いていなかった。
『うん? 何?』
『……っ! いえ、なんでも。』
視線を感じたのか、女性は隣の男性をきょとんとして見上げた。男性はぽけーっと彼女を見つめていたので、急に彼女に問われた瞬間、手の甲を鼻に当てると慌てて咳払いでごまかした。可哀想なくらい耳まで真っ赤になっていたので、誰でも気づきそうなものなのだが、女性のなんとも不思議そうな表情から察するに、彼の淡い恋心にはちっとも気づいていないようだった。
なんともいじらしいこの展開に、いよいよ私は助け船を出してあげたくなった。あんまりにも店が暇過ぎて、他にすることがなかったのだ。
女性から視線を反らしてなんとか顔のほてりを冷まそうと、見つめる何かを探していた男性と、ちょうど目が合ったのも、タイミングが良かった。
私は自分の店の看板を人差し指で指し示すと、にやりとうなづいてみせた。
コーヒーでも口実にすれば、飲んでいる間くらいは雑談タイムを伸ばすことができるだろうと思ったからだ。
『ね、4ブロック走れる?』
何も知らない彼女は、ついに強硬手段に出ようと話を進めた。
『へ?』
男性は、やっと我に返ったようだ。
『だから、バス亭まで走れるかって聞いてるんだけど?』
『まぁ平気ですが……?』
それが何か?とばかりに目をしばたかせる。
『よし、決まり! じゃぁ出発ね』
『え、この雨の中を走るんですか?』
この、至極もっともな突っ込みに、彼女は不満そうに言葉を返した。
『もう……だからさっきからそう言ってるじゃない。』
『あ、あのっ、』
これは大変だと、男性は焦り始めた。それはそうだろう。ひと度バスに乗れば、そこからはそれぞれの家路に着くハメになるのは明白だった。
彼は、まだ彼女と一緒に居たいのだ。
だからほら、ここでコーヒーっていいなよと、私はもう一度男性に合図を送る。
『えと……!』
ほらほら、頑張れ頑張れ!
再度彼と目が合ったので、私は力強く店の看板を指し示した。
『……あのっ、コーヒー飲んでからにしません?』
ようし、よく言った!と、私も彼女の返答を待った。
『私、缶コーヒーはあまり好きじゃない』
確かに二人の後ろには、飲料の自動販売機があった。廃ビルがまだオフィスビルだったころの名残だろう。むなしく自動販売機だけが、未だに健在なようだった。
だが、私たちの言いたいことは、それじゃなかった。
『ですよね……冗談です走りましょうか……あの、上着どうぞ』
あ~あ、引っ込めちゃった。
私はがっかりしてため息をついた。と、その時、やっと私の小さなコーヒースタンドに彼女は気がついた。
『ね、ちょうどいいのがあった!ほらそこの!』
彼女はそう言うと、嬉々としてこちらにやって来た。
値段を見て少しだけ考えると、一番大きなデラックスサイズを2つ買った。これはシェア用で、ひとり一つ買うものではないのだが、男性のために、私はだんまりを決め込んだ。
『はい、どーぞ。』
女性は優しく男性にコーヒーを差し出した。
『あ、ありがとうございます、え?あれ……あの走るのでは?』
『だって、飲みたかったんでしょう?』
『そうですがあの! 払いますっ 』
『あはは、いいのいいの、私の方が先輩だもの。早朝から撃ちっぱなしに付き合わせたからこれくらいはさせて。』
女性はからっと言ってのける。
『いえっあのっ……』
『だーめ。私の方が先輩。』
こつん、と後輩の男性の額を小突いて、女性はくすくす笑っていた。
『どうしてもって言うなら私に勝ってからにしてくれる? 勝った方が出す、これが本庁の伝統よ。前に教えたでしょう? 今日も私のぼろ勝ち。ね?』
『……はい』
女性が自分にじゃれてくれてほんのり嬉しい反面、ぼろ負けしたという事実をさらりと言われて、男性はなんとも言えない複雑な表情だった。
『分かればよし』
女性の若干偉そうな言い回しは、私には、彼女がリラックスしているがゆえ、素がほんの少し出たように見受けられた。 仕事柄、きっと普段は相当気を張り詰めているのだろうから、恐らく彼女にとってこの男性は、気負わずに一緒に居られる心地良い関係なのだ。彼女にとっては今の距離感が一番良いのかもしれない。だとすれば、なんだか彼が可哀想に思えてきた。この距離感のままでは、諦めることは出来ないだろうからだ。
『そういえば、前にね……――――』
他愛もない話を彼女が続ける一方で、男性は地面を見つめて何かを考えているようだった。
『ねぇ、聞いてる?』
案の定、女性にそう言われて、
『は、はい! 明日中に手がかりを見つけます!』
案の定、すっとんきょうな返事をかました男性は、
『…………。あなたに貰ったクッキーの話をしてたんだけど?おいしかったって言ったの』
じろりと彼女に睨まれるハメになった。
『げっ! さ、さーせん……』
『まったく、もう……』
せっかく褒めてあげたのに、と女性は膨れっ面をして呟いた。
『射撃のアドバイスまで、忘れましたーなんて言わないでよ。それから……――』
肘で男性の横腹をつつきながら、女性は軽く嫌みを飛ばしたが、それを全てスルーして、男性は意を決したように息を吸い込んだ。
『あの、先輩!』
『うん??』
なんだろう、と小首を傾げてきょとんとした彼女に、
『あの! 今度、俺と』
必死に踏ん張って彼女の瞳を見つめて主張をしようとしていたが、
『???』
不思議そうにしながらも、ゆっくりと頷いて優しく続きを促す彼女に堪えきれなくなったらしい彼の視線は、彼女の瞳から頬、首へと右往左往したあげく、
『っ! いえ、やっぱり……何でもないです……』
口元を見つめたのを最後に、真っ赤になりながら慌てて視線を地面に反らしてしまった。こんな人に上目遣いに小首を傾げられたら、そりゃあたまったもんじゃないだろう。
一方、そんな彼の苦労は知るよしもなく、再び地面に視線を落とした男性を、女性は雨雲の時と同じ困った顔をして見つめる。
『……ん、何ですか?』
先ほどとは反対に、視線を感じて男性が問いかけた。ようやく彼は落ち着いたようだった。
『それはこっちの台詞。』
『はい?』
『だって……。雨宿りしてからいつもと様子が違うんだもの。何か気にさわるようなことを言っちゃった?ならごめんなさい……私、結構考えなしに言うところがあるから……』
一体、何をどうしたらそのような解釈になったのか、彼女は急にしょんぼりした表情で、ひとりで反省会を始めた。
『ていうか、そもそも無理矢理付き合わせたようなものだものね……抽選で当たった試射撃ちが二人一組だからって、くじ引きを作って無理矢理みんなに引いてもらっちゃって。勝手に休日の予定を変えさせてごめんなさい……予定があったはずなのに……。断り辛いわよね……』
試射撃ちというからには、新しい銃器の試し撃ちのことだろう。見事に権利を引き当てた彼のことを、彼女は無理矢理連れ回してしまったと反省しているようだった。
『考えてみたら……あなたからすれば、テストされてるようなものだものね。スカッとして気分転換になるから射撃は好きなの……。だから……あなたも当然そうだと思ったの。でも気分転換の方法は人それぞれだものね……』
『いや、あのっ! せんぱい!』
『大丈夫、もう二度と休日に連れ回したりしないわ、約束する』
『ちょ、あ、あのっ!そーではなくっ!』
勝手に約束された男性は、ちっとも大丈夫じゃなさそうだった。
『うん?』
『困ってなんかなくて、俺は、その……』
『???』
ぱちくりと女性はまばたきをして、男性の意図を汲み取ろうとしていた。ただ、この時も、そして恐らく今現在でも、彼女は彼の気持ちをちっとも汲み取れていないと、未だに私は思っている。
そして、
『一緒にいて欲しかっただけです。』
『…………。』
『課長ではなく、俺と……その、一緒にいて欲しかっただけです。だから、けーぶが謝る必要は、何一つありません』
何もそこまであけっぴろげに言うことはないだろうに、超ド級のパンチを繰り広げた。男性は男性で、物事をオブラートに包むということを知らないらしかった。
『………』
女性はここでようやく、先ほどからの不思議そうな表情から、なんだかびっくりしたような表情に、ほんの微かに変化した。
『だから……その、』
男性は言葉を続けようと、懸命だった。
『…………。』
女性は小さく頷いて、話の続きをゆっくりと待っていた。
『あなたが謝る必要はありません。むしろ特別試射に連れてってもらって俺は感謝してますし、あなたはどういたしまして、と返答すべきかと。』
『……良かった。困らせたのかと。』
しばらく黙っていた女性が、ほっとしたように表情を和らげて言った。どうやら誤解は解けたようだった。ただ、彼女は肝心なところは全部スルーしたようだった。
『違います!バスにのったら、その、それぞれの家路に向かうことになりますから……』
『ええ、そうね……? 帰宅中だし?』
『もう少し、二人でいたかっただけです…。その、バスに乗らずに。』
『………。』
『ゆっくり話していたかっただけです……一課の部屋なら、絶対にマリー先輩かイーサンが途中で混ざってきますし……だから、その……つまりは……そういうことです。』
ここで、男性はギブアップした。よく頑張ったと思う。
しかし、
『そういうこと…………?』
彼女は小さく呟いて首を傾げた。
可哀想に、彼の努力はことごとく無意味に終わった。
『そういうことって???』
平然と彼に聞いてしまうあたり、本当に分かっていないようだった。
『あの、』
『ん?』
『凄腕の刑事ならご自分で調べてみてはいかがです?』
『今言ってくれればいい話でしょう?』
彼女は自分の腰に手を当てて、かなり不満そうにそう言った。
『ぇと………まぁ………そうですね………』
『なに?』
もじもじしている男性がじれったかったのか、ちょっぴりトゲのある言い方だった。女性が相変わらず腰に手を当てて、じーっと見つめているので、男性は再び真っ赤になっていた。
男性はもう一度、息を深く吸い込んで、
『あの、だから、俺、先輩のこと!』
ちょうどその時だった。
男性が言葉を続けようとしたところに、ププッ、と車のクラクションが鳴った。
『よぉ~、お二人さん! 試射の帰りか~!?』
巡回中のパトカーから、40代くらいの男性が声をかけた。
『ギャスパー! 久しぶり~!』
女性は知り合いのようで、男性に後でねとそっと断りを入れて、元気よく手を振った。男性はため息をつくと、静かに敬礼をした。
ギャスパーと呼ばれた男性はパトカーから降りて、二人に歩み寄った。
が、ちょうどその時、女性の通信機が鳴った。
女性は二人に向かって片手を軽く上げて、会話を打ち切るジェスチャーをすると、一気に表情を固くして電話に応対した。
『イーサン、どうしたの?何かあった?――――うん……うん……へっ!??あぁもう、そんなこと? あ~、良かった、何かあったかと思った……んーん、許してあげない。あはは! で、それなら………のファイルに………違う違う、右よ、そうじゃなくて、私から見て右側! へ?今私の立ってる向き? んーっとね、こっちよ、こっち! え? こっちって?? ん~……左……かなぁ???』
女性がその場でくるくると回りながら電話に応対し始めると、肝心なことを言おうとした矢先に邪魔された男性は、面白くなさそうな顔を急いで隠して、キリッと表情を引き締めて、所属先や名前を伝え、ギャスパーとやらに挨拶をした。
ただ、ギャスパーはそんなことどうでもいいとばかりに、がなり声で男性に威嚇した。
『おいこら新人!一人で抜け駆けは許さんぞ。したっぱのクセにあの人を口説くな!』
『え、あ、あのっ!』
『言い訳無用!警察の底力をナメるなよ! 町中の防犯カメラを駆使して見張ってるんだからな!裏手のモーテルに連れ込もうだなんて言語道断!タクシーにでも乗ってみろ!Sシステムで地のはてまで追跡してやるからな!』
『ええっ!? ちょ、モーテルは誤解っ!』
男性は真っ赤になって否定していたが、ギャスパーの牽制は続いた。
『うるせぇ! そこの防犯カメラでちゃぁんと見てるんだからな!』
飲料の自販機をよく見ると、確かにその上に、ひっそりと防犯カメラがあった。あまりに小さくて、言われないと誰も気づかないだろうそれは、確かに自らの役目をしっかりと果たしていたらしかった。
『は、話し聞いてたんですかっ!?』
これにはさすがの男性も白旗だったようで、今日一番の真っ赤な顔であたふたしながら頭を抱えていた。
『ちなみに、本庁と全分署から集まった有志で合同対策本部が立っている。徹底的にお前を監視し、全力で警部を護衛しているからな!』
『うええっ!?』
『しかと心得るように!いいか?分かったな?』
『………はい。』
男性は弱々しく敬礼した。
『ようし、分かればいい。―――警部、では。』
『ええ、またね。』
どこかで仲間が見ているらしく、ちょうど女性の電話が終わり、彼女はギャスパーとやらに手を上げて軽く挨拶をした。
ギャスパーは、違反者は吊し上げだぞ、と男性の首元をつついてしっかり脅すと、仕事を無事に終えて満足したのか、ふん、と鼻を鳴らしながら最後にもう一度男性をひと睨みしてから、パトカーに戻った。車両のドアがバタン、と閉まり、ブルンとエンジンをふかしてから立ち去った。
車が去るまで、何も知らない女性はのんきにひらひらと手を振って、気を付けてねーと笑顔で見送っていたが、男性はこの間ずっと敬礼をしたまま直立不動だった。まばたきすらせず、文字通り、微動だにしなかった。まさしく石化したようだった。
警察官も大変だな、と私は心から彼に同情した。
好きな人を口説くには、まずは出世、次に先輩への根回が必要らしい。
『はぁ……』
パトカーが完全に見えなくなってからようやく男性がため息をついた。
『ギャスパーはなんて?』
『え、いや……あいさつだけで大したことはなにも。頑張れよーって。あはは』
力なく男性は笑った。女性はじっと彼を見つめて、
『ふぅん……』
笑顔でもなければ怒るでもなく、かといって別に無表情でもない、感情の読めない表情で、一言そう言った。
そして、
『ならはい、これ冷まして。』
『はい?』
ぽい、と男性にコーヒーを渡してしまった。
『頃合いになったら渡して。熱くてそろそろ限界。持てないんだもの。』
『あははっ!舌だけではなく、手まで猫なんですか?』
肩をすくめた女性に対して、男性はコーヒーを両手に持ちながら吹き出すように大笑いした。
『うるさい、いいから冷まして。』
『は~い。』
男性は笑みの残る表情だった。
すると、
『あ、虹。』
女性が空を見上げて一言呟いた。
『どこですか?』
『向こうの方』
『本当だ、あった。』
いつの間にか雨は小降りになり、太陽が顔を出していた。
巨体なモールの方から、全色揃った大きな虹があった。色もはっきりと出ていて、翌日には新聞の一面を飾るほど見事な虹だった。
『久し振りに見た、綺麗ね~』
女性は柔らかな笑みをうかべて、空を見上げて嬉しそうに言った。
男性は、自販機の防犯カメラをちろりと見ると、カメラに向かってムスッとした顔で声には出さずに何やら文句を言った後、軽く深呼吸してから、
『虹を見ているけーぶの方が綺麗です』
はっきりキッパリと、そう言った。
この女性警部なんだと、私は猛烈に驚いたのをおぼえている。
『うん?』
女性は、目をぱちくりとさせると、
『 あはは! はいはい、どーもありがとう』
女性はさすがに少し照れたのか、とっさに右手の甲を鼻の辺りに軽く当てていた。
私はこの時、妙に謙遜するよりもさらっとお礼を言った彼女の潔い対応に感心したのを覚えている。
そして、自販機の防犯カメラがウィーンウィーンとしきりに動き、男性に文句を言い返していたのも覚えている。
『あ、二重になってる。そのうち良いことあるかもね。』
男性の、先輩とのいざこざなんぞ知るよしもなく、女性はひたすら呑気だった。
『あの、』
ここで男性が再び、意を決したように発言した。
『なに?』
『今度お礼します、何がいいですか?』
『あはは、コーヒーくらいいいってば。』
『いえ、それもありますが、試射のお礼に。』
『ああ、気にしないで。』
女性は笑いながら軽く長そうとしたが、
『駄目です。』
男性が絶対引かないとでも言いたげな表情で、真っ直ぐ女性を見つめながら言うので、女性は柔らかい表情で小さくため息をついて、
『ん~……それなら、』
『それなら?』
『明日のあさイチ、最高に元気なあいさつをお願い。』
妙なおねだりを男性にした。
『……はい?』
『私にとってはそれ以上うれしいことはないもの。皆が外回りから帰るまで、何か不測の事態が起こらないかいつも心配だし、さっきみたいに休日に電話が掛かってきたら、誰かに何かあったのかって、ドキッてする……。』
『………』
男性は驚いたような表情で、静かに女性を見つめていた。
『私、電話は嫌いなの。同期や他分署の先輩で、自分の部下が殉職された人が何人もいるの。だから……いつ自分の番がくるのかって戦々恐々だし……電話が鳴るたびに、ついに自分の番が来たのかって怖くなる。だから……今言ったそれがいい。候補にすらなれていないのに、馬鹿見たいに毎朝あなたに総監呼びされたら、何故だかほっとするんだもの。』
ここまで言ったところで、
『あ、あの! べ、別にっ! 皆を信用してないとか、頼りないなんて思ってるわけじゃ!』
女性は慌てて補足した。
男性は女性のそんな様子をみて、小さく笑うと、
『分かりました、ではお望み通りに。』
とびきりの優しい表情で言った。
『馬鹿みたいに毎朝総監呼びして挨拶します。』
『総監本人の前では止めてね。あの時はさすがに肝が冷えたわ……』
『かなり前のことでしょう?』
『そうだけど……。総監と一緒にいた副総監に、"まだ総監は退いたりしませんよ"っておもいっきり睨まれるんだもん………閑職に飛ばされるかと思った……』
『あはは!』
『笑い事じゃありません!』
女性がここでピシャリと言ってのけたので、
『さーせん……』
男性はくだけた調子で謝りながらコーヒーを差し出した。ほどよい温度になったのか、女性はすんなりとコーヒーカップを受け取った。
『向こうが晴れてるからこっちも晴れるかしら……?』
女性は、そろそろと屋根下から道路側へと繰り出し、
『濡れますよ?』
『へーきへーき! きゃっ!』
案の定、急に横風が吹いて雨粒が吹き荒れた。
『ほら~。後ろにいてください。いくらかマシなはずですから。』
男性はそう言って女性の横に立つと、上着を脱ぎながら自分の背中側を指差した。
『ここにいる』
女性は隣を見ずに返事をした。右手で上着を断る仕草のおまけ付きだった。
『そこにいたら雨がかかりますよ?』
『あなたもでしょう?』
『え、まぁ俺は……』
平気だ、と男性が言う前に、
『なら私もここにいる。ここがいい』
女性は肩をすくめてさらりと言った。
『……。』
『なに?』
『いいえ。ただ――』
男性はふんわり優しく微笑んだ。
『絶対に自分の前に人を立たせないよなぁ……と。すっげぇけーぶらしい……あはは! 』
『あのねぇ……』
女性はため息をついて仏頂面だった。
すると、
『でもそんなけーぶのことが、俺大好きです。
―――あっ!』
うっかり本音が飛び出してしまった男性は、真っ赤になったり真っ青になったり、ひとりで百面相をした。
『……。』
あ~あ、言っちゃった……と私はひとりごちた。
『あ、あの!』
あわてふためく、という言葉がぴったりな男性とは裏腹に、
『それくらい知ってる。』
平然と女性は言ってのけた。
『へっ!? そ、そうなんですか!?』
倍増しで真っ赤な男性は、後ずさりしながら追及した。
『えぇ、私も仲間のことは皆大好きだもの? 』
何を慌ててるのやら、と、なんとも不思議そうな表情で、
女性は男性を見つめていた。
『そ、そうですね……!』
『……?』
男性が、何故だかほっとしている様子には気づいたらしく、女性は不思議そうだった。
『あの……、また試射があったら……教えてください、今度こそけーぶを抜かしますんで。』
頬をかきながら男性は言った。
『あはは、分かった、またあったらね。』
『はい。』
二人は空を見上げて他愛ない雑談に戻った。
『そのうち止みそうですね。』
『コーヒーを飲みきらないと。』
女性はカップをかかげて、困り顔だった。
『あはは、欲張るからでしょう?デラックスサイズなんてするから……めちゃくちゃでっかいじゃないですか!しかも俺の分まで。』
『だってこれが一番お得だったんだもの……』
女性はしげしげと特大カップのコーヒーを見つめていた。
『だからと言ってこれはないですよ。』
『そうよね………………………。私もそう思う。』
『あはは。飲みきってからなら当分帰れませんね。』
『たまにはいいでしょう。』
『それ、俺の台詞ですって。』
『ふっ、そーかもね。』
『かもね、じゃないですよ』
『んー、もしかしたら。』
『けーぶー?』
『あるいは。』
『もう……。』
『ひょっとしたら。』
『うん…………おそらく?』
『あはは! 他には?』
『んー…………場合によっては』
『あはは! よく出てくるわね。』
『う~ん、そろそろ限界ですよ。』
『大分出尽くしたものね……あ、ともすれば!』
『すっげぇ……さすがけーぶ。』
『あはは!あ~危ない、コーヒーこぼしそうだった……
あはは!』
ケタケタと楽しそうに笑う彼女を、男性は優しく見つめていた。
と、その時、女性の通信機が鳴った。
女性は通信機の画面見て、すぐに応対した。
『――――っ、はい、本部局第一課一班、キンバリーです。』
女性の応対第一声を聞いた男性は、急いで背筋を真っ直ぐにして姿勢を正すと、その場で敬礼をした。
電話の向こうにいる相手は、とても偉い人なのかもしれない、と、私は思った。
『――――かしこまりました。』
電話を切り、女性は固い表情で男性に向き直った。
『コード0発生、直ちに戻る。』
『――――コード0って、そんな! 大変です、 バックを!』
男性は真っ青な表情で、まるで、この世の終わりだとでも言うような様子だった。余程大きな事件なのか、と、翌日、私は珍しく新聞を買ってみたが、事件は何一つ載っていないどころか、いつもよりも平和な内容で、とても不思議だったのを覚えている。
『大丈夫、手配車が来てくれるって…………来たわ!』
『――――っ、ここです!』
男性が道路に向かって大きく両手を振ると、警察車両がすぐにやって来て、乱暴なブレーキで停止した。
『ありがとうございます! ――――警部、乗って!』
かなりの緊急事態らしく、仲間が本庁まで送ってくれるようで、男性は仲間にお礼を伝えながら、急いで後部座席のドアを開けて、女性をエスコートしてから、自らも助手席に飛び乗った。
男性が助手席のドアを閉めきる前に警察車両は出発し、あっという間に警察車両は走り去っていった。
エンジン音に紛れて、
『ひなちゃん、後でドーナツありったけでお願い!』
『だからひなちゃんは禁止です!』
二人の会話がうっすら聞こえた。
こうして、朗らかでじれったい試射撃ちデートは、突如終わりを迎えた。
静けさが戻り、また暇な時間になる、
"バック"とは、仲間を呼ぶ隠語なのか、ドラマでは聞いたことないなぁ……などと感心していると、
『あの! 一番大きいサイズのを、2つ!』
顔を赤くした二人の女子高生がやって来て、デラックスサイズのコーヒーを買っていき、
『ほら、あそこにいるよ、早く! 先輩が行っちゃう! 』
『で、でも……!』
『大丈夫、さっきの人みたいに、これを口実に話しかけて、告るのよ!』
『ちょ、そう言われても! 心の準備がっ! みかちゃん、引っ張らないで~! 』
女子高生二人は路地を曲がって行ってしまい、
翌日から学生の大行列で、いっさい、私の休みが無くなってしまったのは、また別の話。




