賭けには、
「ねぇねぇ見て見て! 切符の振り番は今日の日付だよ! 裏に書いてある列車のイラストも可愛いし、これ記念に残しておこうね! 」
係員の持つ切符を見て、女の子が元気いっぱいに言いました。女の子の言葉を聞いて、一緒にいる男の子は眉をひそめて心底嫌そうな顔をすると、
「いちいち残していたらキリがないだろ……泊まった宿屋からその辺の喫茶店まで、ロゴ入りのグッズで俺の鞄の中がいっぱいになってるんだ! 切符を残しておくなら、俺の鞄をなんとかしろって」
そう言って、列車内の係員から二人分の切符を受けとりました。女の子は少しむくれながら男の子の鞄のポケットの中を指差します。
「全部残しておくの。大事な記念だもん」
「あのなぁ、」
「ね、席を探そう? わぁー、内装も可愛い!」
女の子はあっという間に自分達の座席を探しに車内へと入って行きました。男の子は仕方なく切符二枚を鞄に入れて、女の子に続きます。
座席を見つけて荷物を整理し、二人はベットに倒れ込みました。深い赤色を基調としたコンパートメントですが、ふかふかの座席とベットが二人分あります。落ち着いた照明も手伝い、とても快適に過ごせそうな空間です。
「ふかふかで気持ちいい……」
「やっぱり、外のベンチで一晩過ごすもんじゃないなぁ……」
「同感。っていうか、私ヤバイよね」
「"お前が俺を"ベンチで野宿させたから?むしろ逆で、"俺がお前を"だとは思うけどな……」
「セオにおとがめがあるわけないし、あるとしたら私の方」
「なるほど。お前は怒られるだけじゃ済まないかもな」
ふざけた調子で男の子は言うと、うつ伏せの体勢のまま、部屋の反対側のベットに寝転がる女の子に視線を向けます。
「逮捕されちゃうかも」
女の子は体を横向きにして男の子に向くと、ちょっぴり沈んだ声で言います。
「裁判で証言してやるから大丈夫」
「起訴される前提はやめて、笑えない。それに、零地区に出られたら、でしょ?」
「そう」
「じゃあ、絶望的じゃない」
「あははっ、確かに」
男の子が楽しそうに笑います。女の子は紙くずを丸めると、もう、と言って笑いながら、ベットにうつ伏せになっている男の子の背中に向けて放り投げました。紙くずは静かに落ちていきますが、背中に落ちる前に男の子は後ろ手に掴みました。
「朝食までまだ1時間あるし、それまで休もうぜ」
「その前に、さっきの切符をもう一回見たい」
「ん。お先に」
「ありがと。おやすみ」
――お客様にご案内致します。5号車にて朝食のご用意が整いました。皆様ぜひお越しくださいませ――
簡素な放送で、車内の乗客達がぞろぞろとコンパートメントから出て食堂車を目指します。徐々に広がる会話に男の子が目を覚まして、女の子を起こしにかかります。
「あぁ腹減った……なぁ、起きろって、エレナ?」
肩をやんわり揺すりますが、
「う~ん……」
パシッと手を振り払われました。
「……。えーれ?」
「う~ん………」
やはり、パシッと手を振り払われました。
「……。"乗客の皆様にお知らせ致します。誠に恐れ入りますが、大好評につき、`とろとろスクランブルエッグ'は間もなく終了致します。皆様お早めに"」
「セオ起きてっ! 行くよっ!」
「ぶっ」
女の子は飛び起きると、毛布を振り払ってベットから慌てておりました。男の子は嫌そうな顔をして、頭にかぶさった毛布を丁寧に畳むと近くの椅子にかけました。
「スクランブルエッグが終わっちゃうんだって! 急がなきゃっ!先に行くから荷物お願い!」
「……へいへい。危ないから走るな」
女の子の姿はあっという間に見えなくなりました。
ため息をつきながら、男の子は荷物を持つと女の子の後を追います。廊下の窓には、清々しい快晴の朝が広がっていました。食堂車に入ると、すでにたくさんの先客で大部分の座席が埋まっていました。女の子は、カウンターの隅になんとか二人分の座席を見つけたようで、男の子と目が合うと、元気いっぱいに手を振りました。
「スクランブルエッグは死守したよ」
見ると、スクランブルエッグがもうこれ以上乗せる場所はないだろうと思うほどに、お皿に山盛りになっていました。まるでビルのような高さです。
「これ、お前が全部食べるつもりか……」
「大丈夫、セオの分はこっちのお皿。パンももらってきたからね。はい」
「……」
渡されたお皿には、女の子のお皿と同じくらいの、山盛りのスクランブルエッグがありました。丸い形のパンが3つ、スクランブルエッグの上で困ったように並んでいます。
「俺は別に、」
「食べ盛りでしょ。味で選んでる場合じゃないんだからね」
男の子はやれやれとため息をつくと、座席につきました。スプーンを持つと、恐る恐る、スクランブルエッグをほんの一口だけ食べました。神妙な表情で、ゆっくり味を確かめます。
「食べられそう?」
女の子はなんだか心配そうに、男の子の顔を覗き込みながら言いました。男の子はスクランブルエッグを飲み込むと、表情を和らげて、
「ん、旨い」
一言言いました。女の子は良かった、と安堵の表情です。男の子は続けて、パンを小さくちぎって口の中に入れました。女の子はやはり心配そうに見ながら、ひとまず男の子が卵を食べられたことに安心したのか、自分のスクランブルエッグをどんどん食べ進めます。すると、
「…………」
男の子の表情が止まりました。
女の子は急いでスクランブルエッグを飲み込むと、用意していた水とナプキンを差し出します。
「だめ?」
男の子はやんわり左手で女の子を制して、水を遠慮しました。男の子は静かにパンを飲み込んで、ふう、と深呼吸をしました。
「足りないからこれも食べる」
そう小声で言って、鞄から包装紙に包まれた小さな固まりを取り出しました。膝の上に隠すように置きます。
「え、ここでそれはちょっと……」
女の子は慌てて制しますが、男の子は相当お腹が減っているのかお構いなし包み紙を開けます。中からは、真っ黒の、世界中の黒をかき集めたかのような見事に真っ黒の、本来はパンになるはずだったであろう小さな"それ"がいくつかありました。
男の子は1つを手に取ると、スクランブルエッグを真っ黒な"それ"にのせて、勢い良くほお張りました。男の子はとても満足そうな表情です。かりかりと良い音が二人の間に広がります。
「セオは絶対、味覚がおかしい……」
かわいそうなくらいに焦げきっている"それ"は、誰がどこからどう見ても、女の子が作って焦がしてしまった"もの"でした。
「ねぇ、はやくそれをしまって。マナー違反なんだからね!」
女の子は小声で男の子に言いました。
「分かってる、あと1つだけ」
男の子も小声で言うと、もう1つの"それ"を口の中に急いで放り込みました。すると、男性のコックが一人、カウンター越しにやって来ました。二人は慌てて姿勢を正します。
「あ、あの、すみませんっ」
まだ話せない男の子に代わって、女の子が言いました。一方で、男の子は急いで膝の包み紙を小さくまとめると、慌てて咀嚼をして飲み込もうとします。
すると、
「こちらをどうぞ」
男性はそう言って、二人に飲み物を差し出しました。果物を絞って作られたもので、とても新鮮で美味しそうでした。そしてそれは、女の子が朝食を取りに行った際に大行列が出来ていたため、諦めたものでした。
「どうぞごゆっくりお過ごしください。ご自由にお持ち込みいただけますので、遠慮なくそちらもお召し上がりくださいね」
男性は静かに、そしてとても穏やかに言いました。
「あ、ありがとうございます」
「…………」
女の子が会釈をしながら言いました。男の子もぺこりと頭をさげてお礼をします。女の子はそうなんだ、と呟いて、切符と一緒に渡されていた案内書を見直したり、食堂車をキョロキョロと見渡して、どこに書いてあったのか確かめようとしていますが、
「あの、」
ようやく話せるようになった男の子は、目を丸くしながら男性を見つめます。男性は男の子の表情を見て、指を1本立てて口元に当てると、優しく微笑みました。
「…………」
男の子は男性にもう一度、小さくぺこりとお礼をします。男性は胸に手を当てると、ほんの一瞬、そして小さく、恭しく礼をしてから去りました。
「あぁ、おいしかったぁ、大満足~」
女の子はとても幸せそうな表情で言いました。
一方で、
「……」
「セオ?」
「俺、人生7回分くらいの卵を食った気がする……」
男の子はぐったりしながら言いました。ねぇねぇお腹がいっぱいになったから食べて、と言われて、半分以上は残っていた女の子の分まで食べるはめになったのですから、当然の成り行きです。
そのかわりに、丸い形のパンは女の子が3つとも食べたようで、男の子のお皿には"漆黒の食べかす"がちらほらとありました。
二人はかなりの時間をそこで過ごし、男の子のお腹が落ち着いたところで席を立ちました。
最初に入って来た出入口から出ようとすると、時間をずらして朝食を取ろうとやって来た乗客とすれ違いました。すると、
「嫌ねぇ、最近の子は髪なんか染めて」
「どうしたって、素行が良さそうには見えないわよねぇ……。親の顔を見てみたいわ……」
年配の女性二人が小さく言いましたが、女の子に聞こえないようにという配慮は全く見られませんでした。
「…………」
女の子は体を固くして、足早に通り過ぎようとします。男の子は女性二人に近づこうと体の向きを変えますが、
「いいから。行こう」
女の子はとっさに男の子の腕を掴んで、首を横に振りました。
「だけど、」
男の子は言いますが、女の子はもう一度、ゆっくり首を振りました。
「……。分かった」
男の子は女の子の背中に優しく腕を回すと、くいっと女の子の体を引き寄せて、その髪にそっと唇を寄せました。
「景色を見に行こう」
男の子は柔らかい表情でそう言うと、また歩き始めます。
女の子は一瞬、ぽかん、としていましたが、次の瞬間には今起きた出来事を理解したようで、他にも同じように嫌みを言ってくれる人はいないかを急いで探し始めました。
女の子がきょろきょろとしていると、男の子が不思議そうに、
「ここから外に出られるって。一番後ろに回って見に行こうぜ」
女の子を呼びました。
「そ、そうだね! 行こー行こー!」
女の子は慌てて男の子の横に並びます。軽い会話をしながら歩きますが、男の子の横顔を見ながら、こんな格好良い人に気遣って貰えるなら嫌みもたまには良いかもしれない、なんて口の中で呟きます。が、当然ながら男の子には聞こえませんでした。
車両の両端には人が通れる通路が設けられていて、景色を見られるようになっています。上手く設計されていて、通路を通って直接車両の前方や最後尾まで歩けるようになっていました。
おかげで、女の子は食堂車を通らずに最後尾まで行くことができます。先程の女性二人組とすれ違えず、とても残念でした。設計士を恨み、次はほっぺたがいいな、なんて淡く考えていたのは、男の子には永遠に秘密です。
最後尾に着くと、景色を堪能出来るように観覧場所が設けられていました。まだ他の乗客は朝食を取ったり部屋で休んでいるようで、男の子と女の子しかいませんでした。
「わぁー、良い天気!風が気持ちいいね~!」
柵に手をかけて女の子が言いました。背中の真ん中あたりまである金色の髪が風になびいています。
「でっかい海……」
「にしか見えないよね、川なのに……。きらきらしててすっごく綺麗!」
「世界って広いんだな……」
「だって世界だもん、広くて当然」
「ふっ……確かにそうだな」
二人の気軽な会話が続きます。
気持ちの良い空と風の中、濃く青々しい山が大きくそびえており、かなり遠くには大きな町がありました。海のような巨大な川が町の方にまで続いています。町の手前には陸橋がかかっているので、数時間経てばこの列車も陸橋を通ることでしょう。車両の通る線路が横切る大きな川が、どこまでも続きます。陸橋をわざと通るように、線路は遥か彼方で曲がりくねっていました。
「ねぇねぇ、あそこに双眼鏡があるよ!」
見ると、観光客用に遠くの景色を見られる双眼鏡が二つありました。小銭を入れると数分間、景色を堪能出来ます。二人は早速料金を払い、仲良く並んでレンズを覗き込みました。
「わぁ、大きな橋がある! あ、動かしちゃった……あれ、あっちは建物?あの看板の印は病院かなぁ。大きい~……」
「泊まれそうな施設は……う~ん、これじゃ分からないなぁ。駅の近くなら働く人用に何かがあるかも……んーと、」
二人してしばらく夢中で景色を堪能します。
「なぁエレナ、あそこの白い看板の印は宿泊施設?」
男の子が言いました。
「なぁエレナってば」
返事が無いため、男の子がもう一度言いました。
「えーれ?」
それでも返事が無いので、男の子は双眼鏡から顔を放しました。
「エレナ……?」
ところが、隣にいるはずの女の子の姿がありません。
すると、
「むぅ……むぐ」
後ろから女の子のくぐもった声がしました。
そして、黒い服にマスクをした男二人組もいました。男の内の一人が女の子の体に片方の腕をまわしており、女の子は身動きが出来ません。男はもう一方の腕で女の子の口元を押さえていました。
「エレナを離せ」
女の子の困惑した表情を見て、男の子は短く、そしていつもより低めの声で言いました。右腕を動かそうとして、
「余計な真似はお止めください。貴方を返り血で汚すわけにはいきません」
もう一人の男が、女の子の頭に銃を突き付けたまま言いました。男の人差し指が引き金にかかっています。銃を見て、女の子は表情を固くしました。
「………」
「我々と一緒に来ていただきます。いいですね」
男の子は右腰の銃は諦めて、舌打ちをしました。
「分かったから。エレナは離せ」
「むむぅ!」
女の子が動こうとしますが、男に押さえつけられます。
「それは出来ません。我々と、と申しあげたはずです。」
「……。あんたら何者だ。目的は何だ」
「全て貴方の為です。どうかご理解を」
「……」
「両手を上にお願い致します」
男の子は大人しく、両手を上げました。男は左手の銃を女の子に向けながら、ゆっくりと男の子に近づきます。腰の銃を取り上げようと、空いている右手を男の子に伸ばした、その時でした。
「むぅ!!」
「がっ!!」
二つの悲鳴が同時に起きました。
まず、たまたま顔の近くに飛んで来た一匹の蝿に恐怖を感じた女の子が悲鳴をあげて、思わず身動きをしました。女の子の頭が拘束している男の顎に勢い良くあたり、結果的に強力なアッパーを喰らわせました。男は思わず一歩、後ずさります。男の子の銃を取り上げようとしていた相方の動きを注視するあまり、拘束が少しだけ緩んでいたことが、女の子に幸いしたようでした。
次に、女の子と男の動きに反応した相方の男が、思わず二人の方を振り返り、隙が生まれます。その一瞬を見逃さなかった男の子は素早く自分の腰から銃を引き抜き、相方の男の銃だけを打ちました。銃はカシャン、と音を立てて、離れた場所に落ちました。銃の音を消す装置がなされているため、辺りに銃声はしませんでした。
銃を失った男は、男の子にみぞおちを殴られて床に突っ伏してしまいました。うぅ、とうめき声がします。
ここまでが、ほんの1秒の間に起きた出来事でした。
一方で、女の子を拘束していた男は、
「こいつ!」
ふいをつかれた怒りから、女の子の首もとに手を伸ばしました。男の手を拒絶しようと、女の子は腕で顔を庇いますが、
「それはだめっ!」
男は首よりも先に手に当たったものを反射的に掴みました。それは、少し前に男の子からお揃いで買ってもらった、写真なども入れられる、細かい花の紋様が素敵な首飾りでした。
男はそれを力一杯に引っ張って、首飾りの鎖は千切れてしまいます。相当アッパーが堪えたのか、男は真っ赤な顔をして怒りながらその首飾りを列車の外にぶん投げました。
ガン、と音がして、幸か不幸か首飾りは車両最後部の金属部品の一つに引っ掛かりました。ただ列車の速度や振動で、今にも落ちてしまいそうです。
男はもう一度女の子を拘束しようとしますが、体勢に生まれた隙を付いて、女の子は男の足を思いっきり靴のヒールで踏んづけました。あまり高くないヒールの先に仕込まれた針で、男はぎゃっと声を上げます。
これらもまた、次の1、2秒で起こりました。
その次に、男の子が女の子を守ろうと急いでかけよりますが、
「落ちないでっ!」
女の子は首飾りを取ろうと柵に手をかけて、
「やっ!」
足をばたつかせながら、安全対策用の柵を乗り越えてしまいました。どうやら景色が良く見えるように、柵があまり高くないことが影響したようです。
スタンドパーソンよろしく、女の子は必死に車両の金属にしがみつきながら、首飾りを目指します。一歩一歩確実に首飾りに近づく度に、もちろん柵からは離れてしまいます。
「だめだめ、落ちないで……きゃっ!」
今にも車両から落ちそうな女の子を見て、
「バカえれっ!」
愛称を用いて罵りながら、男の子も慌てて女の子を追って柵を乗り越えます。
「危険ですっ!」
「お止めくださいっ!」
そして、柵を乗り越えてしまった男の子を見て、男二人組が顔を真っ青にして必死に呼び止めますが、もちろん男の子の耳には届いていません。
「エレナ!」
「もうすこし……」
男の子が必死で叫びながら、女の子に近づきます。女の子は懸命に右手を伸ばして、
「取れたっ!」
列車はカーブにさしかかりました。同時に、ガタン、と列車が大きく揺れます。
「きゃっ!」
「えれっ!」
遠心力と振動で、女の子の体は車両から振り落とされてしまいます。金属から女の子の手が離れ、体は空中に投げ出されてしまいます。
「……っ!」
男の子は瞬時に車両から手を離すと、女の子の後を追いました。つまりは二人とも、車両から落ちてしまいました。
「手をっ」
二人組の内のひとりが言いましたが、間に合いませんでした。
「セオっ」
「大丈夫」
男の子は落ち着いて言うと、女の子の体を引き寄せました。女の子は、ひゅうっと落ちていく感覚に目をつぶって耐えています。
二人はどんどん落ちていきます。列車がかなりの高さがある線路を走っていたので、地面に叩きつけられずに幸いでした。
男の子は腰からベルトを引き抜くと、勢い良く投げて線路を支える柱の一部に引っかけました。短いはずのベルトはぐいん、と伸びて、二人は空中でぶら下がる格好になりました。
落下が止まる衝撃でベルトから手が離れないように掴んでいるベルトを手首に一瞬で巻き付けて耐えた後、男の子はベルトから手を離します。落下の勢いを利用して線路の下に潜り込みました。
というのも、線路の下にはぼろぼろの橋が、もう何年も使われていない、今にもくずれてしまいそうな金属製の錆びた橋がありました。
上手く勢いをころした男の子は、そのままぼろぼろの橋に着地しました。二人に怪我はありませんでした。時間差で上から落ちて来る壊れたベルトを、男の子は掴みます。
「あれ?」
女の子が違和感を感じて言いました。それもそのはずで、足元の金属の錆びきった板は大部分が抜け落ちており、わずかに残るのみで、到底立てるはずがありませんでした。
こんこん、と足元を靴で鳴らしますが、やはり、ぼろぼろの橋の上に透明の"何か"があります。
「セオ、これってどうなってるの? 」
「歴代の"俺達"が昔から出来ることのひとつだ」
「怪我や病気を治せる以外にも、契約前に出来るんだね」
女の子が不思議そうに言いました。
「仕組みは良く分からないけど……"死なないように"予め備わってるんだと思う」
「こんな事態になった時のために?」
「たぶん……」
男の子は苦笑いをします。
「貴重なご飯の源だもんね」
「ご飯か……確かにそうだな」
助かったことに安堵して、二人は上を見上げました、車はガタン、ゴトン、と音を立てて、彼方に消えゆくところでした。男の子は女の子のそばに寄ると、ふんわりと腕で女の子の頭を撫でました。
「落っこちてくれてありがとう、おかげで助かった」
「私は……どういたしまして、って言うべき?」
「そう。あのまま大人しく着いていったところで、お前は殺されているだろうし、俺は何に利用されていたか……」
「あ……確かにそうだね」
「それにしても、よくあの男に一撃を入れられたな」
男の子が先頭になり、二人は手を繋いでゆっくりと慎重に歩き始めました。足元は補強されていても、巨大な川の上では横風が強烈で、手すりとなる両側面の鎖は錆びきっており、少しの衝撃でも崩れてしまいそうでした。
「蝿がいたから、気持ち悪くて……」
女の子は思い出したようで、青ざめた表情で言いました。
「顔の近くにだよ! あんなの絶対無理っ!」
「凶悪犯や銃よりも、蝿が怖かったのかよ……」
男の子はため息をします。
「あの羽音はだめ。ほんっとにだめ……」
「はいはい………」
くだけた会話をしながら、一歩づつ二人は進みますが、
「鎖は持つなよ」
「分かってる。すごい高さ……数百メートルはありそう、木が豆粒みたい……」
「下は見るな」
「だって、」
「見るな。大丈夫だから」
「この橋、あとどのくらい……」
「前に200、後ろにも200はあるだろうな……」
「単位は……」
「キロメートル」
「だよね……陸地が見えないし――きゃっ!」
「えれっ」
時折、びゅうっと風が吹いて、その度に女の子の体が風に持っていかれそうになり、二人は立ち止まります。男の子は上を見上げますが、線路は遥か上空にあり、ジャンプをして線路に戻ることは到底出来そうにありません。
「うぅ……」
「えれ、大丈夫だから」
二人はぎゅっと手を繋いで進みます。風で暴れる髪を抑えながら、女の子は必死に勇気を振り絞ります。
「行こう、ほら」
「うん」
同じやり取りを何回も繰り返し、ようやく100メートル程進んだ頃でした。
「はぁ……はぁ……はっ」
男の子は片膝をついてしまいます。荒い息で、肩が大きく上下しています。額から数滴、静かに汗が落ちました。女の子が慌てて男の子に寄り添います。
「だ、大丈夫? 」
「はぁ……はぁ……、大丈夫」
言葉と様子が全く一致していません。誰がどこからどう見ても大丈夫ではなさそうです。
「セオ……」
「はぁ……行こう」
男の子はそう言って立ち上がろうとしますが、
「……っ」
「セオしっかり。術、解いて良いから……ね?」
力が入らず立ち上がることが出来ません。
「落ちるだろうが」
「だけど……」
「問題ない……行くぞ」
男の子がふらふらと立ち上がった、その時でした。きらり、と光の反射が起きて、男の子は瞬時に反応しました。同時に、チュインチュイン、と音がして、
「伏せろ!」
「きゃっ!」
男の子はとっさに女の子の体を自分の下に引き込むと、腹ばいになりました。
「くっ!」
女の子を狙ったはずの銃弾は、男の子の左肩をかすめました。血が、金属の鎖と川の中に、わずかに散ります。
「あれを投げろ!」
「ええいっ!!」
男の子が叫び、女の子は困惑しつつもやけくそになりながら、鞄から手榴弾を取り出して、ピンを抜くと思いっきり上に投げました。ひゅう、と手榴弾は空中を登ります。
男の子は女の子を抱き寄せます。
「なんとか持たせるし、なんとかなる、だから大丈夫」
「なんとかって?」
「"向こう"だって、俺がいないと困るはず」
「賭けってこと? 知ってる? そういうのを他力本願って言うんだよ」
「賭けには負けない」
「セオじゃなくて、夢に出てくる男の人が、でしょ?賭け事したことないくせに」
「黙れ。舌噛むぞ」
素早い会話で、女の子が男の子にわざと茶々を入れます。同時に、ドン、という振動が起きて、空気がうわん、と唸ります。
ぼろぼろの橋は衝撃に耐えられず、ガキン、と音を立ててうねりながら、両脇の鎖、足場と、一瞬で崩壊します。男の子と女の子は大きくて丸い"何か"に包まれたと同時に、激しい爆風に吹き飛ばされました。
"それ"は弾丸のような速度で落下して、爆音とともにビルのような高い水しぶきを上げて、巨体な川の中に落ちました。そして"それ"は浮き上がってきません。
数秒の間を空けて、見るも無惨な姿になった機械が川へ落下していきます。黒く丸い形をしていて、プロペラだった部分は折れてしまっています。平らな面の上に固定されていたライフルを下向きにして、機械は川の中に落ちました。ドボン、という音が辺りに響きます。男の子と女の子が落ちた場所が一瞬蒼く光りましたが、川面が落ち着いた時には、既に元の景色に戻っていました。
崖の上に、男二人組がいました。
「くそ……逃げられたか」
丸い機械と交信不能になった通信機を握りしめながら、一人が言いました。相方は血の気の失せた顔で川を見つめながら呟きます。
「お怪我を……」
「あれくらいならご自身で治癒が可能だろう、問題ない。女は消して、あの方をご案内する手筈が……」
「ひ、ひとまず、上に報告をしなくては……」
「そうだな……行こう」
荷物を抱えて、二人は静かにその場を離れました。
近くの木から一匹の小さくて薄い黄色の鳥が飛び立ちました。
「あ! とり!」
小さな男の子が、バルコニーで望遠鏡を除き込んで言いました。
「おとーさーんっ、あのねー!」
男の子は父親の腕を引っ張ってバルコニーに呼び、鳥を見せようとしましたが、当然ながら、もうどこにもいませんでした。がっかりしている男の子に、
「あ、列車が来るぞ、ほら」
父親は望遠鏡を調節すると、男の子を呼びました。男の子はぱっと表情を明るくさせると、嬉しそうに望遠鏡に顔をくっつけました。