フタリノマイ
廊下を歩く源氏の君は足元に目を落とした。
いつも耳障りなほど鳴っていた古びた木の軋む音がなくなっている。
次から次へと送られてくる源氏の君への貢ぎ物で
苦しかった源氏家の財政は遥かに良いものとなっていた。
傷んでいた場所にも人の手が入り
下流貴族の屋敷にまで様変わりする。
殺風景だった庭にも木が植えられ
ぼんやり眺めていると、何もなかった頃の情景が蘇ってきた。
そこへ幼い頃の葵が走る…
源氏の君に温かい感情が込み上げて来た。
暫くの間だけ時が止まる…
だが目を閉じる事で心を閉ざした。
ゆっくり目を開けると、源氏の君は再び歩き出し
灯りがともる部屋の前で腰を落とした。
「光です。お呼びですか」
「…中へ入れ」
しわがれた声が障子の向こうから返ってくる。
源氏の君は俯き加減で中へ入ると静かに座った。
義国は酒の酔いが回ったのか、いつも以上に重い瞼をしている。
飲み干した盃を投げやりに置くとまた次の酒をくみ
その薄っすら開いた目で源氏の君を睨みつけた。
「近頃、お前は公務にばかり時間を費やしているそうだな」
「今ちょうど仕事が忙しく…」
言葉を発すると同時に
義国は盃の酒を源氏の君に浴びせかけた。
美しく凛々しい頬から滴が流れ落ちる。
「そんな事は聞いておらぬ!
いつになったら位の高い姫の婿になれると言うのだ
勿体ぶるのもいい加減にしろ!
お前とて年を取れば誰からも相手にはされぬ
母の仇を取りたくはないのか
お前を宮中から追いやった者たちを憎くはないのか」
かけられた酒をぬぐう訳でもなく源氏の君はただ顔を上げた。
その顔には感情らしきものが見あたらなかった。
「私は宮中の人達を憎いと思ったことは一度もありません。
この様に生きていくのが私の運命なのです。
もう仇を討つなどと言う考えは御止め下さい」
義国の形相はみるみるうちに変わり、側にあった刀に手を伸ばした。
「おのれ腰抜けめっ、この私に逆らうと言うのか!
育ててやった恩を仇で返しおって、その腐った性根を叩きなおしてやる」
鞘が付いたままの刀を義国は源氏の君に向かって振り下ろした。
決して顔は打たず体だけを打ち続ける。痛々しい音が何度も響いた。
一言も声を上げない源氏の君。
そのうち義国は息が切れだすと刀を放り投げ
後ろへ倒れる様にどしんと座った。
「いいかよく聞け
朱雀帝の誕生日の祝いに
お前が上手く取り入っている左大臣の息子を誘い
一緒に二人舞を踊れ
お前たち二人が踊るとなれば噂になり
高貴な姫たちが大勢押し寄せて来るであろう
そこで今度こそ一番位の高い姫をものにするのだ
分かったな!」
心も身体も傷つき、疲れ切った源氏の君はふらりと立ち上がると
魂が抜かれた様な足取りで義国の部屋を後にした。
宮中に向かって真っすぐに走る大きな通りに
姫君たちを乗せた牛車がひしめき合う
今日は朱雀帝の誕生日を祝う宴の日。
光り輝くほど美しく、この世の者とは思えない
もやは実在しない架空の人物とまで噂された源氏の君と
左大臣家と言うこの上なく良い家柄で
何をやらせても人より優れ、心優しく美しい容貌の公子
頭中将との二人舞が見られるとあって
この日を夢にまで見た姫たちは良い場所を取るために
朝早くから宮中までの道のりを急いだ。
「何やら外が騒がしいな…何事だ?」
朱雀帝は寝殿から中庭の向こう側を覗くように呟いた。
「帝の誕生の祝いに、左大臣家の頭中将殿と
光り輝くほど美しいと言われております源氏の君殿が
青海波を踊られます」
「ほう、あの噂の者か…」
「はい、そのため全国から一目見たいと
姫君たちが夜も明けぬうちから行列をなしております。
中には道を譲らず、牛車同士がぶつかりあい
争いにまで発展するという事案も」
「なんと」
「それほどまでに人を惹きつける魅力のあるお方たちと言う事でしょう」
「んん、待ち遠しい。早く見てみたいものだ…」
と言うと帝は何かを思い出した。
「それはそうと、いつになったら海賊を倒した姫を
見つけることが出来るのだ。
あれからかなりの月日が経っておるぞ」
若い帝のお目付け役でもある家臣は、ごまかす様に軽く笑顔を作った。
「まだ覚えていらしたのですね」
「当りまえだ。ずっと覚えておる…
もしや、探してはおらぬのか」
「帝にはもっと相応しい姫がおられるかと…」
「母上に止められておるのか?もうよい、お前には頼まぬ
私自身で探して見せるわ」
「帝、お待ちください」
幼い子共の様に拗ねた素振りで朱雀帝は部屋を出た。
そして家臣を困らせようと軒下に素早く隠れる。
消えた帝を慌ただしく探し回る家臣たち。
「今日はどれ程で見つけられるかな」
朱雀帝は軒下から空を見上げると、あの日の事を思い出した。
「あの姫の様に、思うがままに生きよう」
海賊を倒す姫を見て以来、強く影響を受けた朱雀帝は
憧れの様な感情を抱いていた。
その為なのか、事あるごとに小さな騒動を起こす様になり
たびたび周囲の者を困らせる様になったのである。
「帝をみつけましたー!」
「………」
庭の中でも一番背景に美しい
色とりどりに紅葉した立派な木々の下に舞台は作られた。
舞台奥には数十人ほどの楽人が座っている。
その顔ぶれは名高い名人ばかりで揃えられ
美しい二人の舞人に劣らぬよう
最高の演出で迎えられたのである。
その頃、義国は眺めの良い場所探しではなく
位の高い貴族探しをしていた。
どの貴族の側に座ろうかと迷っていると
ちょうど目の前を左大臣が横切って行く。
細い目を丸くなるまで見開いた義国は、慌てて後を追いかけた。
「さっ、左大臣様!」
焦るあまりに声を荒げてしまった義国。
だが左大臣が足を止め、振り返るまでには澄ました顔で待ち構えた。
「はて、どなたであったか」
「初めてお目にかかります。
私、源氏の君の身内で親代わりをしております
源義国と申します」
「おお、源氏殿の!」
「はい。母親が私の従姉にあたります。
幼い頃に母を亡くし、そして直ぐに父を亡くし
行く当てのなかったところを私が引き取りました。」
情にもろい左大臣は薄っすら涙を浮かべ、義国の方へと体を向けた。
「そうであったか、それはご苦労であった」
「はい。可哀そうな子でしたが、今は頭中将様と親しくさせて頂き
大変ありがたい次第でございます。」
「んん…いや、ありがたいのはこちらの方だ。」
左大臣のあまりにも謙った態度に義国は困惑する。
「…と、言いますと」
「実は、源氏殿と先に出合ったのは娘の方なのだ。」
「娘…では頭中将様の妹君でございますか」
「んん、訳あって都を離れておったのだが、少し前に戻って来てな
その姫が幼い頃、屋敷を抜け出しては
毎日の様に源氏殿に会いに行っていたと聞いておる。」
義国に衝撃が走った。
幼い頃、源氏の君と庭を走っていたみすぼらしい娘
海賊を相手にする男装した女を、必死で守ろうと取り乱した源氏の君…
「もしやあれも…」
高貴な装束の姫君に声を掛けられ、知らぬふりをした…
何もかもが繋がる。みな同じ、左大臣家の姫君だったのか!
「どうかされたか」
「…いえ、まさか左大臣様の姫君が来られていようとは
思いもよりませんでした。どうかご無礼をお許しください」
「何を言う。分からぬ様に変装でもしておったのであろう。
家の姫はちとやんちゃでな、気づかれない方が良かったぞ…あっはっはっはっは」
何も知らず高笑いをする左大臣。
その横で飛びあがりたいほど嬉しくてたまらない義国。
今回の相手は思いもよらぬ大物。
この機会を逃すまいと、義国は必死で考えをめぐらせ
吊り上がる口角をおろした。
透き通るような龍笛の音が高らかに鳴り響く
続いて笙と篳篥が重なり合い、深い瞑想へと導いた。
萌黄色と赤の鮮やかな装束を身に纏い
二人は寸分違わず両手を上げた。
源氏の君と頭中将の動きはぴたりと合い、華麗で優雅で気品溢れ
まるで幻を見ているかの様な見事な舞となる。
観る者は息をのみ、中にはあまりの美しさに涙を流す者までいた。
「なんてお美しいお姿」
「この世のものとは思えませぬ」
「本当に光り輝いておられます」
御簾の向こうで沢山の姫君が座っていた。
二人に恋焦がれ集まった姫たちである。
噂を聞き、遠くから何日もかけて都へ来た姫たちも少なくはなかった。
そして御簾の中には入らず、遠くから見守る姫もいた。
人目を避ける様に舞台より離れた木の陰から、こっそり顔を覗かせる。
久しぶりに源氏の君と会えるとあって、かなりの緊張状態に見舞われた葵は
そこから離れる事で漸く落ち着けたのである。
「見違えるほど御立派になられました。お会いできて嬉しいです。
二度と悪さは致しませんと天に約束をし
もう一度会いたいという願いを叶えてもらう事が出来ました。
私の事をお忘れになったかもしれませんが
ずっと遠くから見守っています…源氏の君さま」
長く艶やかな黒髪が肩から滑り落ち、純真無垢な瞳が煌いた。
「これほどまでに美しいとは…この者たちを側に欲しい」
朱雀帝もまた、舞の美しさに歓喜の声をあげていた。
二人のそれぞれに違った魅力に惹きつけられ目が離せない。
見入っていると、ちょうどその視界のずっと向こうに
何かぼんやり映る存在を見つけた。
こんな貴重な一時にもかかわらず、とても気になって仕方がない。
朱雀帝は少しだけ舞台から目を話し、遠くに焦点を合わせてみた。
すると…表情が全く別のものへと変化する。
その存在が誰なのかを朱雀帝は一瞬で感じ取った。
「やっと見つけたぞ…姫」
完璧と言う表現よりも、現実ではない夢の様な舞を踊り終えた二人は
余韻を残しながら舞台を降りた。
晴れ晴れした気持ちでいた頭中将は、源氏の君の後ろを歩きながら声をかける。
「源氏殿の舞は本当に見事であった。
男も女も関係なく、皆の者が心を奪われたに違いない」
「私に人の心を奪う力などない。それは頭中将殿であろう」
「分かっておらぬな、どれほどの姫たちが
源氏殿と会えるのを楽しみにしているか…」
前を歩く源氏の君が急に立ち止まり、慌てて頭中将はぶつかるのを回避した。
「源氏殿、どうかされたか?」
一瞬で消えたが、源氏の君の驚く表情が見えた。
不自然な様子に頭中将は源氏の君の視線の先を見る。
「あれは父上…隣にいるのは義国殿?」
左大臣と義国の間に隔たりがない程
二人は親しげに話をしていた。
その光景を鋭い視線で見る源氏の君。
「今度は左大臣家に近づこうとしているらしい
左大臣様にお伝えしといてくれ、決して相手にはするなと」
源氏の君は義国を視界から消す様に顔を反らし歩き出した。
その後姿を悲しげに見つめる頭中将。
(叔父上に向ける源氏殿の目は、いつも憎しみの様なものが感じ取れる。
噂では源氏殿の人気でここまでのし上がって来たとか…
以前の暮らしよりは良くなっているようだが
他にも重大な悩みを抱えているのかもしれない)
葵と約束してからもうすぐ五年の月日が流れようとしていた。
親しい友でありながら本当の意味では近づけないでいる現状。
何も変えられない自分をもどかしく思い
〝大切な二人を幸せにしてみせる〟
と、改めて誓う頭中将であった。




