ミヤコノケシキ
いつもは和やかな左大臣家にピンと張りつめた空気が漂っていた。
左大臣家のライバルである右大臣家の姫に
葵は一度ならず二度までも乱暴を働いたからだ。
以前はまだ左大臣に力があり、葵も幼かった事から
姫への贈り物と左大臣直々の謝罪で何とか難を乗り越えた。
だが今度ばかりはそうはいかない。
葵の父である左大臣は深くため息をついた。
「なぜまた右大臣の姫なのだ…」
「ですからあちらの方が嫌がらせをするからです。
それで仕方なく姫は仕返しをしたまでのこと」
いつもは美しく穏やかな舞衣が、この時ばかりは感情を露にする。
「舞衣、これは深刻な問題なのだぞ
もう謝るだけでは済まされない。今や右大臣は帝を
味方につけ、実権を握りつつある。
怒りが収まらない右大臣は姫に何をするか分からない」
「そんな!」
予期せぬ事態に舞衣は動揺し、項垂れた。
それを気遣うようにそっと寄り添う葵の兄。
「父上
妹を守る何か良い手立てはないのですか」
「んん…一つだけ手段はある」
「それはどういった手段でしょうか」
左大臣は目を閉じると、息をゆっくり吐きだした。
「それは…姫に重い罰を与えるのだ」
舞衣はその言葉に驚き目を見開く。
「罰ですって!罰ならこの私が代わりに…」
「母上、私は平気です。
あんな意地の悪い姫に屈するくらいなら
どんな苦しい罰でもお受けいたします」
葵はいつになく真剣な表情で真っ直ぐに父を見た。
「そうか…分かった。
では姫よ、明日の朝
日が昇る前に都を出るのだ」
予想もしなかった言葉に思わず葵は前へ身を乗り出した。
「そ、そんな…」
「父上それはあんまりです!」
常に冷静な兄までも声を荒げた。
舞衣はあまりの衝撃に言葉が出ない。
「このままでは、何処かの島へ流刑にされるかもしれん。
都を出る以外に右大臣から姫を守る良い方法はないのだ。
姫にとって都は窮屈な所。
もっと海や山、自然に囲まれて暮らすのが一番良いのではないか」
「ですが…」
「心配するな。行先は姫の大好きなお爺様の所だ」
葵の表情が一変する。
「お爺様ですか!」
「そうだ。悪くないであろう」
「はいっ嬉しいです!
あっ、…でも…光る君が」
父は初めて聞く名に眉間を寄せた。
「ひかるきみ…」
「父上、それは昨日お話しました葵の大切な友でございます」
「そうか、姫の友の名であったか」
「やはり私は行けません。光る君をおいて都から離れるなんて…」
すると兄が葵と並び隣に座った。
「父上、私に光る君に会いに行くことをお許しください。
光る君は妹の命の恩人です。
その恩人が辛い境遇にあることを聞きました。
葵に代わって私がお助けしたいと思います」
「兄さま…」
兄は葵と真っ直ぐ向き合うと、優しく微笑み頷いた。
「この兄に任せろ。光る君の友となり
その友にとって一番良い方法を考えよう」
「では父も出来る限りの力を使って応援することにしよう。それで良いかな姫」
「はい、ありがとうございます!」
葵はおでこが畳に付くまで深く頭を下げた。
廊下で聞き耳を立てていた女官たちも
胸を撫で下し笑顔が戻る。
左大臣家に和やかな雰囲気が戻りつつあったが
ただひとり母の舞衣だけは、葵に飛びつき泣き出した。
部屋を出た後、日が沈みかけた空を見上げ
葵はぼんやりと呟いた。
「兄さま、最後にお願いがあります」
「最後なんて言わないでくれ。何年かすればきっと都へ戻れるようになる」
葵はうつむき加減で微かに笑って見せた。
「願いとは、光る君のことか?」
「はい…
都を離れ、遠くへ行く事になったので
もうお会いすることが出来ないと
光る君にお伝えください」
兄の瞳に涙が浮かぶ。
だがそれをぐっと抑え込み、葵の手をぎゅっと握った。
「馬を出すぞ」
宴に出ることを進めなければよかった…
こんな事態を招いたのは妹ではなく自分にある…
兄は悔やまれて仕方なく
〝都を離れる前にせめて一目だけでも合わせてやりたい〟
それをやり遂げずにはいられなかった。
兄と妹は固く手を結び、全速力で走り出す。
幼い頃から姫に仕えていた女房は、影から二人の後ろ姿を見守ると
溢れ出す涙をさっと拭い、時間稼ぎのため葵の部屋へと向かった。
「二人だと目立つので兄さまはここに居て下さい」
光る君の屋敷の前に着くと同時に葵は
馬から飛び降り直ぐ行動に移った。
葵の判断は適格だと考えた兄はここで待つことにした。
「では何かあれば大きな声を上げるのだぞ。良いな」
「はい兄さま、直ぐに戻ります」
葵は頷くと慣れた感じで門の脇にサッと隠れる。
そして奥の様子を伺ったかと思うと、スッと消える様にいなくなった。
兄は二度ほど瞬きをしたが
それほど心配のいらぬ妹であることを思い出した。
「さすが私の妹だ」
腰を屈め人の気配を伺いながら葵は馬小屋へと忍び込んだ。
辺りは薄暗く、ぼんやりとしか見えない。
そして真っ先に藁の寝床を探り光る君の姿を探した。
「ヒヒィーン、ブルルルル」
馬が足踏みをして葵を呼ぶ。
「満月!」
葵は走り出し満月に抱き付くと真っ黒な体に顔を埋めた。
「お前のことを忘れていた訳ではないぞ!
ただ光る君のことが気になってな……
私は明日の朝、都を離れることになった。
もうここへ来ることが出来ないであろう。
だから満月に頼みがある。私の分まで光る君を守ってはくれないか?」
愛おしそうに葵は、満月の鼻の頭を撫でた。
「ブルルル」
葵の言っていることが分かるのか
満月は小さな鳴き声と共に首を上下させた。
「よしっ、偉いぞ!」
そこへ馬小屋から聞こえてくる微かな音に
満月の様子を見に来た光る君がそっと窓から覗き込んだ。
「…葵」
思わず顔がほころび一歩、二歩、前へ出る。
だが直ぐに足は止まった。
光る君は拳を握ると会いたい気持ちを抑え
断ち切るように来た道を引き返した。
「光る君は強いやつだ。だから大丈夫だと信じている。
今日は急に来たので何も持ち合わせていないが…
そうだ、これを置いていく事にしよう」
葵は懐を探ると鮮やかなに彩られた櫛を取り出した。
「これを光る君に渡してくれ」
落ちていた木の枝を拾い地面にさらさらと文面を書く。
その横に櫛を置くと名残り惜しそうに馬小屋を見回した。
最後に満月を目に焼き付け葵は走り出す。
「さようなら」
満月の嘶きが葵の後を追いかけ、どこまでも響く。
頬を大粒の涙が伝い肩を震わせながら葵は走り続けた。
宴で偶然に会い、葵を酷く傷つけてしまった。
戸惑う顔が目に焼き付き
胸に矢を突き立てられたような痛みが走った。
だが葵を危険な目に合わすわけにはいかない。
義国から守るため、宴では知らない振りをした。
自分との関わりを絶つことが最善の策と考えた。
眠りにつけず何度かごろごろ寝返りをうっていると
もう朝の気配が近づいていた。
ずっと葵の事が頭から離れない。
光る君は布団をばっと引き剥がす。足は自然に馬小屋へと向かっていった。
葵の残した痕跡を探るかのように…
「どうした満月」
満月は右へ左へと落ち着かない様子。
不思議に思った光る君は柵を潜ろうと腰を屈めた。
すると地面に落ちてある物に気が付く。
「…櫛」
手を伸ばすと光る君は地面に書かれてある文字に目が留まった。
そして全身の力が抜け落ちる。
「行くぞ満月」
消え入りそうな声。
満月の背に乗り手綱を握りしめると
全てを分かっているかのように満月は全速力で走り出した。
〝 一緒に過ごした日々
私は忘れない
明日の朝
都を出る
さようなら
ありがとう
葵 〟
幼少の頃から笑う事もなく抜け殻のように生きてきた。
こんな絶望の毎日に生きがいをくれたのは葵だった。
楽しさを知り死への恐れを感じ
生まれて初めて大切なものができた。
そばに居れさえすればそれでいい…
その願いさえも受け入れてはくれないのか
日は昇りはじめ徐々に周囲の景色が見えてくる。
一度だけこの道を通り葵が帰るのを見送ったことがあった。
「何とか間に合ってくれ!このまま会わずに離れるのだけは…」
視界が涙でぼやけ、ぐっと唇を閉じる。
満月と光る君は一体となり一筋の明りを抜け出した。
「ヒヒーン!!」
そこは一帯を見渡せる崖の上。
山間から太陽が顔を出し始めていた。
逸る満月を抑えるように手綱を引くと光る君は都を見下ろした。
そして縋るような目で葵を探す。
すると都から離れていく馬の行列があった。
行列の中には高貴な牛車が…
「葵ーーーーーーーっ‼」
もう既に届くはずのない小さくなった牛車に
むなしく叫ぶ光る君の声が木霊した。
牛車の下簾が跳ね除けられ、ひょっこり葵が顔を出した。
「兄さま!いま声が聞こえませんでしたか⁈」
馬に乗り牛車の横にぴったりと付いていた兄は少々戸惑う。
「これで七回目だが…分かった。皆の足を止めよう」
「あっ、兄さま…ごめんなさい
…やはり私の勘違いでした」
兄は一度周辺を見渡した。だが既に都を離れていたため
家臣以外の人物は、いないことが直ぐに分かる。
「光る君の事は心配するな。必ず私が傍でお守りしよう」
「…ありがとう、兄さま」
最後の見納めをするかの様に
葵は今まで育った都の景色を見渡した。
その景色の空気を吸えるだけ吸い込むと
葵の顔は凛々しくなる
「では急いで行きましょう!
そして兄さまは直ぐに戻ってください!」
兄と葵は視線を合わせ、誓いを立てるかの様に頷いた。




