山のしほうみ
昔むかしのお話。どのくらいの昔かというと、だれもがちょんまげをして、お侍さんが刀をさして歩いていたころの昔。だから、自動車はないし冷蔵庫だってなかった。コンビニだってないから、遠くに出かける人は、食べ物や飲み物を自分で用意しておかなければならない。それは今なら、ちょっと遠足みたいな感じだったかもしれない。
そのころの長い旅は、とにかく歩く歩くのくり返し。乗り物に乗る人はほんの少しだけで、ほとんどの人は朝に町を出て、夜にはつぎの町に着くように歩いた。町に着く前に夜になるのは、とても心配なことだった。なぜそんなに心配だったかというと、人をおそう動物が出て来たり、人をおそう人間が出て来たりするからだ。
もう暗くなり始めた山道を、一人、いそぎ足で歩く旅人がいた。近道のつもりで細いふみわけ道に入ったのに、いつになっても広い街道に出会えないでいた。だんだん心細くなって、そうなるとどんどん早歩きになって、あわあわとあわてて何度もつまずいていた。「こまったなぁ」とつぶやいたちょうどその時、向こうでぽっと明かりがともったのを見つけて喜んだ。
たどり着いたその山小屋には、一人のおじいさんがいた。旅人は、おどろかさないように最初は小さく声をかけた。おじいさんは気づくようすを見せない。そこで大きく「こんばんは。すみません、お願いがあります」と声をかけた。おじいさんは「なんだそんな大きな声で。まったく、そうぞうしい」とおこった声で返事をしました。
旅人は、ていねいにおじぎをしてから、道を間違ったと話し、ひとばん寝るところをかしてほしいとお願いした。おじいさんは、ひと部屋しかないので炉端のごろ寝になるぞと言い、食べ物は自分で用意するんだぞと付け加えた。もちろんです、と旅人は笑顔で答え、そして何度もお礼を口にした。
「そんなに頭を下げんでもよい」とおじいさんが、初めてちょっと笑った。
囲炉裏の鍋で、野菜の汁物が煮えていた。おじいさんの晩ご飯だ。旅人は、自分の荷物から取り出した黒いかけらを、その鍋に入れていいかとおじいさんに聞いた。これは海藻を干した物で、味がよくなりますから、と言い足した。それはありがたいことだ、とおじいさんは喜んだ。そして結局、二人はいっしょに晩ご飯を済ませることになった。
「お若いの、あんたは何で旅をしていなさるんだ」とおじいさんが聞いた。食事の片付けをすませ、二人はそれぞれ寝る準備だ。囲炉裏の向こうとこちら側にゴザがしかれて寝床になった。「わたしは、山の村に海の干し魚などを売って歩いています」と若者が答えた。おじいさんは、さっき食べたワカメのおいしさを思い出して納得した。
海の村で干物を買い、山の村でそれを売る。日頃は海の魚を食べることのない山奥では、とても喜ばれています、と若者は話した。そして「私はね、今はこうして干物だけを売っていますが、そのうちきっと生の魚でも、山の人に食べてもらえるようになるだろう、と思っています」と付け加えた。それはうれしい話だが、どうやるんだろうか、とおじいさんは不思議そうな顔をした。
ぐっすり眠った若者が翌朝目覚めるとおじいさんがいない。外へ見に行くと、まだ薄暗い中、おじいさんはいろんな道具をそろえていた。もうお仕事ですか、と声をかけた若者は、その時になっておじいさんの仕事について何も聞いていなかったことに気づいた。おじいさんが「そうだ、あんたも一緒に行ってみなさるか」と言ったとき、若者はほっと笑顔になってうなずいた。
朝ご飯をすませ、昼の弁当を用意して二人は出発した。その道すがらのこと。今から行くのは川の上流で、そこの大岩を削り落として川をせき止めるつもりなんじゃ、とおじいさんは言った。今の川のままだと、大雨では下の村を流し去り、日照りだとすぐに干上がってしまう。だから大きなため池を作れば、村の者たちも安心だするだろう。
両側のがけがせり出して川幅が狭くなっているところに、大岩は出っ張っていた。その付け根のあたりが削り込まれて、もうすぐ転がり出しそうになっている。ここまで削るのに十年近くもかかった、とおじいさんが笑いながら言った。若者は、おじいさんが一人で続けた仕事の苦労に驚いてしまった。
その日一日、若者はおじいさんの仕事を手伝った。大岩の付け根をのみで削り取ったり、大岩が転がりやすいようにじゃまな木を切ったりした。おじいさんは、その働きぶりを大いに喜んだ。これでずいぶん仕事がはかどったと上機嫌だった。若者は、おじいさんに喜んでもらえたことが、うれしかった。
つぎの日、このままおじいさんを手伝いたいけれど、自分にも約束している仕事があるから、と若者は出発を告げた。おじいさんは、手伝いにもう一度お礼を言い、村までの道は、あの川にそって続いていると教えた。若者は「帰りにも、また手伝いに来ます」と言った。おじいさんは「その時には、もう仕上がっているだろうさ」と笑って答えた。
若者が教えられたとおりに川沿いの道を歩いていると、上流から突然大きな音が近づいて来た。ゴロゴロと重い物が転がる音と、バキバキと木がなぎ倒される音が混じっていた。振り向いて確かめる間もなく、その大きな音に巻き込まれてしまった。あの大岩ががけから落ちて、その場に止まらずに川を転がって来たのだった。
おじいさんは、そんなに早く大岩が切り離されると思っていなかった。そんなに川を転がっていくと思っていなかった。あわてて、大岩の転がっていった先を見に行ったのだが、何も見つけることはできなかった。大岩の下敷きになり、そのままはじき飛ばされた若者の姿も、背負っていた荷物も、見つけることはできなかった。
大岩は川が狭くなった所にはまり込んで止まっていた。そこで川をせき止め、水はどんどんたまり始めていた。おじいさんは、若者の心配をしていたが、水がたまっていく様子を見ていると、やはりうれしくなってきた。若者が見たらきっと喜ぶだろうな、とも思った。
新しくできた山のみずうみに、うわさを聞きつけて人が来るようになった。何人かは釣り竿を持って来ていた。それは、そのうわさというのが、山なのに海の魚がとれる、という話だったからだ。山で暮らす人には、海の魚は珍しくて有り難かった。そして、イカがつれたぞ、タコをとったぞ、という話は途絶えることがなかった。
おじいさんは、それからも、みずうみの見えるそばで暮らした。山の潮海なら、海の魚を生で食べられるわけだ、とおじいさんは若者があの夜言ったことを何度も思い出した。
これは、冷蔵庫もコンビニもない頃の不思議な不思議なお話でした。