ネバーランドに恋をする
プロ野球はあんまりだけど、高校野球は好きかな。
ビール片手にそう言ったのは、二十代になって再会した、高校の同級生だった。
ソイツとは特別仲が良かったとかではなく、たまたま席が近くなって、課題を見せてもらったり、他愛ない話をしていたくらいだ。
以上も以下もなく、友人と言うよりはクラスメイト。
そんな奴と再会したのは、本当にたまたまで、道のど真ん中で派手に本をぶちまけたのがソイツで、その近くにいたのが俺。
周囲の視線が刺さる中で、ソイツは慌てて本を掻き集め、俺もまた、その本へと手を伸ばしたのが再会する切っ掛けだったのだろう。
きっとスルーしてたら、気付かなかったしな。
有難う御座います!なんて必死に頭を下げるソイツの声には、聞き覚えがあって、顔を上げてくれと頼んだ瞬間に俺達の間には沈黙が流れ、互いにゆっくりと指先を向け合った。
「あ、え、花屋敷くん?」
「蕾見さん、だよな」
蕾見 小桜は高校時代のクラスメイトで、二年生から同じクラスだった。
俺の通っていた学校は、三年生に上がる際にクラス替えをしなかったから、必然的に卒業まで同じクラスだったことになる。
高校時代は胸元まで黒い髪を伸ばして、数本の桜色のメッシュを入れていた蕾見は、大人になってもそのスタイルを変えることなく、あの頃よりも伸びた髪に同じメッシュを入れていた。
小動物のようだったきょときょとと忙しなかった目は、落ち着きを持って俺を映している。
雰囲気までも落ち着いて、カッチリしたスーツがちゃんと着ているになっていた。
もっと着られるイメージがあったのだが、そういう訳じゃないらしい。
数年の時がこんなにも人を変えるなんて、想像もしていなかった。
そうして再会した彼女と連絡先を交換して、何となくこうして近況報告をしながら酒を飲み交わす仲になった訳だが。
高校時代はこんな風になるなんて考えていなかった。
例えば、街中で彼女と再会することも、そんな彼女とこうして酒を飲むことも。
「お前、野球好きだったっけ?」
「うん。実はちょくちょく見に行ってましたぁ」
くすくす、と甘ったるい笑い声を漏らす蕾見。
そんなに酒は強くないのか、ほんのりと頬を染めながら、ゆらゆらと体を揺らしていた。
目を細めながら、枝豆に手を伸ばす蕾見は「花屋敷くん、凄かったよねぇ」と笑う。
何年も経った後に、こうして知らなかったことを知るのは、何とも言えない複雑な心境だ。
嬉しいような、悔しいような。
「声、掛けてくれなかったよな」と確認のために聞いてみれば、枝豆を齧りながら目を見開く蕾見。
少しだけ高校時代の顔が浮かんでは消える。
「だって、声かけれなかったんだもん」
唇を尖らせるようにして言った蕾見は、恨みがましい視線を俺に送る。
俺に、と言うよりは高校生の時の俺にだろう。
あの頃は野球しかなかった。
強いて挙げるならば、家のことも、まぁ、少し。
「フェンス越しに見えるグラウンドってね、何だか触れちゃダメな気がするんだよ」
「良く分かんねぇんだけど」
「私なんかがそこに行っちゃダメって言われてる気分になるの」
そう言い捨てて、蕾見は持っていたジョッキを傾ける。
白い喉が大きく上下しているのを見て、俺は舌に残っている慣れきったビールの味に眉を寄せた。
それで何杯目だ、と視線を流せば、蕾見の近くのテーブルの上には空いたジョッキが四つ。
そんなにハイペースで飲んでいたか、とも思ったが、俺も俺で今のジョッキで六杯目だから、人のことは言えない。
明日は土曜で、今日は花の金曜。
多少飲み過ぎても、明日に支障はないが、この場に支障は出るかもしれない。
「花屋敷くんはモテモテだったもんねぇ」
「は?」
俺が目を丸めたにも関わらず、蕾見は俺の方から視線を外し声を張り上げていた。
「生二つ追加でぇ!」と語尾を伸ばした舌っ足らずな喋り方に、そろそろ飲むのを止めさせるべきかと頭が働く。
俺は上戸だが、どう考えても蕾見は酒慣れしてない。
んふふ、なんて怪しい笑い声を漏らしながら、油っこい唐揚げを頬張る蕾見。
目元が完全に蕩けきっていて、ふとした瞬間に糸が切れた人形のように、机に突っ伏して寝てしまいそうだ。
黒髪に混ざって揺れる桜色のメッシュに、卒業式の桜を思い出す。
何人かの女友達に囲まれていた蕾見は、涙も見せることなく穏やかに笑っていたのが、何故か印象強く残っていた。
ぼんやりと見ていたら目が合って、嬉しそうに微笑まれたことが思い出され、今現在酔が回って楽しそうにしている蕾見から目を逸らす。
「はい、生二つね」
「ありがとうございまーす」
店員と蕾見の声で、視線を送り直せば、そこにはニコニコと笑いながら、店員からジョッキを受け取る蕾見がいて慌てて手を伸ばす。
両手を使いジョッキの縁まで注がれたビールを二つとも奪う。
あ、なんて驚いた声を上げた蕾見を尻目に、右手に持っていたジョッキを傾けて、中身を一気に喉の奥へと流し込む。
喉が焼けることはないが、その分回りは強くなる。
「わぁ、すごぉい」
ゴンッ、と音を立ててジョッキをテーブルの上に叩き付けるように置けば、出来上がりつつあるらしい蕾見が、キャッキャと手を叩いて喜ぶ。
これ以上飲ませる気にはなれずに、飲み掛けのジョッキも、左手に残る新しいジョッキも、全て俺が処理する。
水を頼んで蕾見に渡せば、不思議そうな顔で首をかくん、と傾けた。
再会した時に感じた大人になった、という感覚は既に薄れつつある。
高校生の頃よりも子供っぽくなっているのは、きっと酔っているからなんだろうけれど。
「……で、何でプロ野球より高校野球のが好きなんだよ」
両手で包み込むようにして、水の入ったグラスを持っていた蕾見は、落としていた視線を上げる。
俺と蕾見の視線が絡んで、間に沈黙が落ちたが、水を一口飲んだ蕾見は、のんびりと言葉を紡ぐ。
「花屋敷くんの、姿が、被る、から、かなぁ」
とろりとした甘ったるい溶けそうな声で、ぽつりぽつりと紡がれた言葉に、飲んでいたビールが口の端から溢れた。
ぽたり、と下ろしたてのスーツに落ちる。
幸せそうに目を細める蕾見は、ゆらゆらと体を前後左右に揺らして船を漕ぐ。
酒の力を借りた夢現状態で、微睡んでいる蕾見から顔を逸らして、残った一杯と少しのビールを飲み干す俺。
このまま二人揃って酔い潰れて寝てしまえば、きっと懐かしい夢を見られるような気がした。