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蝶を飼う  作者: 鮎川 了
第二章 闇の庭師
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花を手折る者






 台所から、包丁の小気味良い音が聞こえてくる。

 ああ、母さんが朝食の支度をしてるのか。

 味噌汁や卵焼きのいい匂いもしてきた。

 「お父さん、食べる時ぐらいは新聞仕舞ってくださいよ」

 また父が叱られている。

 「そろそろ真人を起こした方がいいんじゃないか?」

 「あら、もうこんな時間?そうね、起こしてくるわ」

 母の、スリッパを履いた足音が近付いて来る。  もう目は覚めている。

でも、母がゆり起こしてくれるまで、もう少し寝たふりをしよう。


 だが、いつまで経っても、母は部屋に入って来ない。

 ……あたり前だ。

 母も父も、この家に居ない。

 幸せな夢を見たのに悲しくなるのは何故だろう?

 あの幸せをもう一度噛み締める為なら、悪魔に魂を売っても構わない。

 そんな夢を見たせいか、たまには母の様子を見に行かないと……と、ふと思う。

 滞っている入院・治療費も支払わなければいけない。かなり溜まっているが、夜羽からの“給金”で今までの分はまとめて払える。

 ……しかし、何をして得た金なのか、母が知ったら烈火の如く怒るだろう。

 でも大丈夫だ。母は、昔の母ではないのだから。



 一階の会計で、今までの入院・治療費を精算する。

 今まで、出し渋っていた奴がいきなり大金を持って来たら、不審だとは思わないのだろうか?

 会計係はそれに関しては何も言わず、

 「ありがとうございます。次も御早めにお願いします」と、にっこり笑う。

 どんな金でも金は金なんだろうな。

 俺も商売をやっているから解るが。

 窃盗で得た金だろうが、人殺しで得た金だろうが、金払いの良い奴は優遇されるのだ。

 煮え切らない思いを抱えて、エレベーターに乗り、三階のボタンを押す。

 ドアが閉まると、ちょっとした圧迫感と浮遊感。


 病室に入ると、母が視点の定まらない目で窓の外を見ていた。

 「母さん、具合はどう?」

 良い訳は無い。

 なのに、何故毎回こう言ってしまうんだろう?  すると母は俺の方を向き、必ず決まってこう言うのだ。


「あなた、だあれ?」


 母は辛い記憶を消すために、全ての記憶を失ってしまったのだ。と精神科の医者は言った。

 父は逃げた。

 母もまた現実から逃げた。

 俺だけが取り残された。



 病院からの帰り道、川沿いを歩いて居ると、草の生い茂る堤防の斜面に、セーラー服の四角い襟が見えた。

 美佳ちゃんの学校の制服と同じだな……

 でも、まだ午前中だ。  高校生が、こんな時間に、しかもこんな場所にいるのはおかしい。

 艶のあるセミロングの後姿を見ているうちに、それがどうしても美佳ちゃんの様な気がして、声を掛けようかどうしようか迷っていたら、振り向いた。

 間違いない、美佳ちゃんだ。

 「おはよう」

 とりあえず、何を言っていいか判らず、そう声を掛けた。

 「おはようございます」

 いつもの笑顔で、そう返してくるが、心なしか声が震えている。

 学校は?と訊きたいが、それを訊くのも愚問の様な気がする。

 「あ〜!朝飯食ってないから腹減っちゃった!美佳ちゃん、腹減ってない?」

 鳩が豆鉄砲を喰らう、とはこの時の美佳ちゃんの顔の事を言うのだろう。

 「駅前のファミレス、モーニングセットが美味いんだよね〜、でも一人で行くの恥ずかしいから、誰か一緒に来てくれないかな〜?」

 「……私で良ければ」

 美佳ちゃんにやっと、作られたのではない自然な笑顔が戻った。


 高校生を、こんな時間につれ回すのはどうかと思ったが、放っておけない。

 幸い、ファミレスの店員も我関せずといった風情なので安心した。

 「母が入院してるんでね、面会に行ってきたところなんだ」

 「お花屋さんのお母さん、どこか悪いんですか?」

 美佳ちゃんは心底心配そうな顔をする。

 いや、社交辞令などではなく、まるで自分の母親が入院したかのように、心を痛めているのだろう。

 そういう子だ。

 この子は。

 そんな子にこんな話をしてしまった事を少し後悔した。

 それなのに

 「心の病気なんだ」

 何故そこまで言ってしまう必要があったのだろう。

 美佳ちゃんの顔がますます曇ってしまった。

 「なにか……辛いことが有ったんですか?お母さん」

 「父がね、借金を残して失踪してしまったんだ」

 俺のバカ……!

 美佳ちゃんだって何か悩み事があるから、あんな所に居たというのに!  

 自分の悩みなんて語ってどうする?

 俺は本当に夜羽が言う様に“おバカさん”かもしれない。

 「お花屋さん、そんな辛い目に遭ってたんですね……それに比べれば私なんて」

 「どうしたの?何か困った事があるんなら相談に乗るよ?」

 意外にも、俺の話を聞いて心を開いてくれたようだ。

 「私……」

 「何?」

 「学校でイジメに遭っているんです」



 美佳ちゃんが、美佳ちゃんがイジメに遭っているなんて……

 あんないい子が何で……

 「ちょっと、店長!そんな乱暴に薔薇のトゲを取らないでくださいよ、花が傷むじゃないですかっ!」

 バイト嬢の声で我に返る。

 花よりも俺の手の方が傷んでいた。

 血だらけだ。

 「絆創膏ある?」

 「救急箱に入ってます!忙しいんだから自分で取って来てください」

 美佳ちゃんにこのバイト嬢の半分でもいいから気の強さがあれば……

 薔薇の棘が刺さった手のひらに血が滲むのを見て、美佳ちゃんの心を見る事が出来るとしたら、きっとこんな風に傷ついて、血を流しているに違いない。と思った。


 自分で絆創膏を指に巻いていると、ふと背後に気配を感じた。

 「いらっしゃいませ」

 満面の笑みで振り向いたが、その客の顔を見て、一気に気分が暗くなった。

 山田織江が無表情で店頭に立っていたからだ。

 なんというか、真昼に幽霊でも見てしまったかのような物凄い違和感。

 「“仕事”が入りましたので今日は必ず邸にいらしてください」

 織江はそれだけ言うと、踵を返して立ち去った。

 「お客さん?」

 バイト嬢が店の奥から顔も出さずに訊く。

 「いや、何でもない」

 

 そう、何でもない。





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