花を手折る者
◇
台所から、包丁の小気味良い音が聞こえてくる。
ああ、母さんが朝食の支度をしてるのか。
味噌汁や卵焼きのいい匂いもしてきた。
「お父さん、食べる時ぐらいは新聞仕舞ってくださいよ」
また父が叱られている。
「そろそろ真人を起こした方がいいんじゃないか?」
「あら、もうこんな時間?そうね、起こしてくるわ」
母の、スリッパを履いた足音が近付いて来る。 もう目は覚めている。
でも、母がゆり起こしてくれるまで、もう少し寝たふりをしよう。
だが、いつまで経っても、母は部屋に入って来ない。
……あたり前だ。
母も父も、この家に居ない。
幸せな夢を見たのに悲しくなるのは何故だろう?
あの幸せをもう一度噛み締める為なら、悪魔に魂を売っても構わない。
そんな夢を見たせいか、たまには母の様子を見に行かないと……と、ふと思う。
滞っている入院・治療費も支払わなければいけない。かなり溜まっているが、夜羽からの“給金”で今までの分はまとめて払える。
……しかし、何をして得た金なのか、母が知ったら烈火の如く怒るだろう。
でも大丈夫だ。母は、昔の母ではないのだから。
一階の会計で、今までの入院・治療費を精算する。
今まで、出し渋っていた奴がいきなり大金を持って来たら、不審だとは思わないのだろうか?
会計係はそれに関しては何も言わず、
「ありがとうございます。次も御早めにお願いします」と、にっこり笑う。
どんな金でも金は金なんだろうな。
俺も商売をやっているから解るが。
窃盗で得た金だろうが、人殺しで得た金だろうが、金払いの良い奴は優遇されるのだ。
煮え切らない思いを抱えて、エレベーターに乗り、三階のボタンを押す。
ドアが閉まると、ちょっとした圧迫感と浮遊感。
病室に入ると、母が視点の定まらない目で窓の外を見ていた。
「母さん、具合はどう?」
良い訳は無い。
なのに、何故毎回こう言ってしまうんだろう? すると母は俺の方を向き、必ず決まってこう言うのだ。
「あなた、だあれ?」
母は辛い記憶を消すために、全ての記憶を失ってしまったのだ。と精神科の医者は言った。
父は逃げた。
母もまた現実から逃げた。
俺だけが取り残された。
病院からの帰り道、川沿いを歩いて居ると、草の生い茂る堤防の斜面に、セーラー服の四角い襟が見えた。
美佳ちゃんの学校の制服と同じだな……
でも、まだ午前中だ。 高校生が、こんな時間に、しかもこんな場所にいるのはおかしい。
艶のあるセミロングの後姿を見ているうちに、それがどうしても美佳ちゃんの様な気がして、声を掛けようかどうしようか迷っていたら、振り向いた。
間違いない、美佳ちゃんだ。
「おはよう」
とりあえず、何を言っていいか判らず、そう声を掛けた。
「おはようございます」
いつもの笑顔で、そう返してくるが、心なしか声が震えている。
学校は?と訊きたいが、それを訊くのも愚問の様な気がする。
「あ〜!朝飯食ってないから腹減っちゃった!美佳ちゃん、腹減ってない?」
鳩が豆鉄砲を喰らう、とはこの時の美佳ちゃんの顔の事を言うのだろう。
「駅前のファミレス、モーニングセットが美味いんだよね〜、でも一人で行くの恥ずかしいから、誰か一緒に来てくれないかな〜?」
「……私で良ければ」
美佳ちゃんにやっと、作られたのではない自然な笑顔が戻った。
高校生を、こんな時間につれ回すのはどうかと思ったが、放っておけない。
幸い、ファミレスの店員も我関せずといった風情なので安心した。
「母が入院してるんでね、面会に行ってきたところなんだ」
「お花屋さんのお母さん、どこか悪いんですか?」
美佳ちゃんは心底心配そうな顔をする。
いや、社交辞令などではなく、まるで自分の母親が入院したかのように、心を痛めているのだろう。
そういう子だ。
この子は。
そんな子にこんな話をしてしまった事を少し後悔した。
それなのに
「心の病気なんだ」
何故そこまで言ってしまう必要があったのだろう。
美佳ちゃんの顔がますます曇ってしまった。
「なにか……辛いことが有ったんですか?お母さん」
「父がね、借金を残して失踪してしまったんだ」
俺のバカ……!
美佳ちゃんだって何か悩み事があるから、あんな所に居たというのに!
自分の悩みなんて語ってどうする?
俺は本当に夜羽が言う様に“おバカさん”かもしれない。
「お花屋さん、そんな辛い目に遭ってたんですね……それに比べれば私なんて」
「どうしたの?何か困った事があるんなら相談に乗るよ?」
意外にも、俺の話を聞いて心を開いてくれたようだ。
「私……」
「何?」
「学校でイジメに遭っているんです」
美佳ちゃんが、美佳ちゃんがイジメに遭っているなんて……
あんないい子が何で……
「ちょっと、店長!そんな乱暴に薔薇のトゲを取らないでくださいよ、花が傷むじゃないですかっ!」
バイト嬢の声で我に返る。
花よりも俺の手の方が傷んでいた。
血だらけだ。
「絆創膏ある?」
「救急箱に入ってます!忙しいんだから自分で取って来てください」
美佳ちゃんにこのバイト嬢の半分でもいいから気の強さがあれば……
薔薇の棘が刺さった手のひらに血が滲むのを見て、美佳ちゃんの心を見る事が出来るとしたら、きっとこんな風に傷ついて、血を流しているに違いない。と思った。
自分で絆創膏を指に巻いていると、ふと背後に気配を感じた。
「いらっしゃいませ」
満面の笑みで振り向いたが、その客の顔を見て、一気に気分が暗くなった。
山田織江が無表情で店頭に立っていたからだ。
なんというか、真昼に幽霊でも見てしまったかのような物凄い違和感。
「“仕事”が入りましたので今日は必ず邸にいらしてください」
織江はそれだけ言うと、踵を返して立ち去った。
「お客さん?」
バイト嬢が店の奥から顔も出さずに訊く。
「いや、何でもない」
そう、何でもない。