第八章 ボア・ハント
「そうですクー。砥石に刃先が引っかかるのが手応えで分かる程度の角度で、それを一定に保ったまま砥石全体を使うようにして研ぐんです。ただし本当に端まで使って刃を落としてしまっては駄目ですよ」
私の指示に従って砥石を使って鉈を研ぐクー。
「何度か研いだら反対側の刃先を触ってみて下さい。バリができてささくれ立ってますね。これをそぎ落とすように反対側を研ぐんです」
この釜茹で亭で薪割りに使っている鉈も随分と刃が鈍っていたため、ご亭主に断って刃を研ぎ直しているのです。
「そうしてだんだん研ぐ回数を減らしていって、最後は少しだけ刃を起こしてバリ取りをする。刃先を触って、ささくれが無くなったら終わりです」
刃物研ぎの技能は役立ちますからね。特に台所を預かる主婦や独身女性の方々には大人気ですから、男性なら嗜みとして覚えておくと良いと思います。
「ついでにいつも使っているナイフを研いでみましょう。これは少し難しいですよ。曲面を持った刃は先の湾曲した部分を研ぐに従って刃を立てて行かないといけませんから」
やってみれば分かりますが、そうしないと刃を一定の角度に保てないのです。
なお、うら若い乙女である私が刃物の研ぎ方を覚えている原因は、祖父にあります。我が家では台所は私の領分で包丁もこだわりを持って業物を揃えていたんですが、ある日、中でもお気に入りの一本の刃が少々欠けたので、祖父に研ぎを頼んだのです。祖父は基本に忠実に荒砥でガリガリと刃のラインを修正した上、改めて一から刃を付け直し中砥、仕上げ砥でガシガシ削りまくり…… できあがったのは、見る影もなくやせ細った私のお気に入りの包丁でした。
それ以来、大事な包丁は一切、祖父には触らせず自分で研ぎ方を覚えたのでした。
「ああクー、使い終わった砥石は三つの砥石をお互い交互にすり合わせて平面を出し直しておくんです。そうしないと次に使う時に刃を一定の角度に保てなくなるでしょう?」
そうです、あの頃の自分にこういった知識があれば。真ん中だけ露骨に削り込まれた砥石を使うような祖父に大切な包丁を任せたりしなかったのに……
「アーヤ?」
「いえ、何でもありませんよ、クー」
悔悟の念が表情に出てしまったのでしょう。心配してくれるクーに安心させるよう、微笑んで答えてあげます。
「おお、できあがったかクー」
ちょうど片づけまで終えた所で、釜茹で亭のご亭主が勝手口から顔を出しました。
「悪いが、その鉈を使って裏山から薪を拾ってきてくれないか?」
薪拾いですか。良い運動になりそうですね。
「くぅ?」
私の方を問うように見上げるクー。宿代を請求されても困ることもあり私は居ないことになっているんですから、そういうことはしない方がいいんでしょうけど。でもクーは、はにかみ屋さんでご亭主もそれをご存知ですから、こういった仕草も照れているのだと受け取って下さいます。
「頼むぜ。昼飯、食わせてやるからよ」
いいでしょう。私が頷くとクーも承知して、
「うん、分かった」
と。
昼食にはチーズも付けて下さいね。あの、レンジやオーブンでチンするのではなく直火で炙ってとろりと溶かしたチーズをパンに乗せた物は、本当に美味しそうで。私は、それを食べるクーの幸せそうな顔を見るのが大好きなんです。
裏山とご亭主は仰いましたが、そこは丁寧に人の手で手入れされた照葉樹の森で。生えている木々にも何度も薪取りをした跡がある、いわゆる里山でした。多分、街の人たちが共同で持続可能なように大事に使っている場所なのでしょうね。薪取りで何度も切られた切り株を残し、根本からいくつにも枝分かれして生えている木が印象的です。
「アーヤ?」
「そうですね、この辺から集めましょうか」
森の奥へと進んで行くと、冬の間の雪の重みで折れたのでしょうか枝木などが散乱している場所に出ました。これらを適当な運べる長さに切り揃え、柴とします。そうです。おじいさんは柴刈りに、のあの柴です。
「クー、鉈は腕の力ではなく重さを利用して切るんです。あと、木を真横から切りつけると弾かれます。斜めに振り下ろして」
クーに鉈の効率的な使い方をレクチャーします。
「鉈を振るう先に自分の足を置かないで。空振りしたら大ケガしますよ」
そして何より安全が大事です。
「くぅ」
一生懸命、鉈を振るうクー。事前に刃を研いでいたお陰と、薪割りで鉈の扱いにある程度経験があるためでしょう。結構サクサクと切ることができて。ある程度できあがったら、その辺から採取した蔓草でまとめ束にします。この辺はクーも慣れて居ますね。
「ああ、蔓を取る時には漆にだけは注意して下さい。手がかぶれて後で酷いことになりますから」
私に助言できるのは、これぐらいの物でしょうか。
クーも日に日にたくましく、頼りがいのあるようになって来ていますね。外見が外見ですので、日頃は気付くことができないわけですが。
そうして柴の束をいくつか作った上で背負い、山を下ります。薪を探しながら来た時と違い、帰りは獣道らしき所を真っ直ぐに里の方へ。
いくつか小さな谷を降り、尾根に上がろうとした所でした。
「何か、聞こえませんか?」
「くぅ?」
豚の嘶きを数段荒々しくしたような獣の鳴き声。尾根へと続く獣道の先から聞こえて来ます。
これは……
不意に、ガサガサと揺れる茂み。そこに居たのは、
「イノシシ!?」
罠にかかったのでしょう、右後ろ足を括られたイノシシが一生懸命、クーに突進しようとしています。
これは不味すぎです!
「クー、回り込んでイノシシより上に出て!」
「う、うん!」
罠にかかったイノシシには、下から近づくと危険なんです。手負いのイノシシは近づく者に闇雲に突っかかろうとしますが、坂の下に居るとイノシシ自身の体重が突進力にプラスされます。結果として罠が持たない場合があるのです。
そして、ブチブチィッ、と嫌な音が聞こえたような気がしました。
「自分の足を引き千切ってっ!?」
半分、千切れかかった足を物ともせず転げ落ちるようにしてイノシシが突進してきます。
「くぅ!?」
「させません!」
翼を翻しながら姿を現し、クーの前に飛び出します。
いきなり現れた私に反応し、突きかかるイノシシ。
「アーヤ!」
「大丈夫です!」
何しろ私に実体はありませんから。ステップを踏み軽くいなし、翼を広げて引き付けて宙を飛んでかわして見せる。
「クー、イノシシの弱点は頭、耳の下のこめかみ辺りです」
獣は厚い獣皮と筋肉に覆われていて、生半可なことでは刃が通りません。
「私が隙を作りますから、鉈の角で思いっきり殴り倒して下さい」
「うん……」
切っ先の無い薪割り鉈しか持っていないクーには、鉈を鈍器代わりにして弱らすしかありません。安全を優先して逃げるには、機を逸しましたから。この距離では、逃げようとする間に背後から突かれてお終いです。ここは、私を囮にクーにがんばってもらうしかないでしょう。
一般的には山に居る豚の親戚ぐらいの認識しか無いイノシシですが、野生のそれは気性も荒く猛獣と言っても良いくらいです。その牙は鋭く、突きかかられると大ケガを負ってしまいます。ギリシャ神話でも、狩りに失敗してイノシシに突かれ命を落とした青年の話がありますし。
「決して無理だけはしないで下さいね」
「分かった」
クーの返事を確かめて、イノシシに立ち向かいます。
「やあっ!」
私の陰から鉈を叩きつけるクー。ここの所、カラスと戦ったり釣りで岩場を渡ったりと経験を繰り返しているお陰か、我を失ったイノシシ相手に結構な身のこなしで対処することができています。
「いいですよ、クー。敵は確実に弱ってきています!」
「うん!」
二度、三度とクーが殴りつけるにつれ、動きが鈍って行くのが分かります。時折、突発的に暴れるので油断はできませんがその間隔も少しずつ長く、そして弱々しくなってきています。このまま行けば勝てる、と思った矢先でした。
「クー!?」
足場の悪い森の中、クーが足を滑らせて転んでしまったのです。とっさにイノシシの注意を私の方に引き付けようとしたものの興奮状態のイノシシには通じず、イノシシはクーの上にのしかかって来ました。
でも、その時です。突然、藪をかき分け中型の犬が現れたのは。犬はイノシシに猛然と吠えかかると、その足に噛みつきます。
そして、
「くぅっ!」
隙をついた至近からの鉈の一撃。それは見事、イノシシのこめかみを砕いていて。
どうと倒れるイノシシに、ほっと息をついたのでした。
「おおい、大丈夫かー」
犬に続いて現れたのは弓を手にした小柄なご老人でした。興奮してじゃれついてくる犬を宥めながら、クーに声をかけて下さいます。
どうやら、猟師さんのようですね。するとクーを助けてくれたこの犬は、猟犬と言うことでしょう。
「大丈夫」
汗まみれ、土だらけの体を起こし答えるクー。大きなケガは、無いようですね。身に付けていた革のエプロンが防具代わりに役立ってくれたのでしょう。値が張りましたが買っておいて本当に良かったです。
「すまんかったのぉ。ワシの仕掛けた罠にかかったイノシシが迷惑をかけてしまったようじゃな」
この猟師さん、イノシシに畑を荒らされた農家の方々から依頼を受け罠を仕掛けていたそうで、申し訳なさそうにクーに謝って下さいます。
「良く仕留めてくれたの。そのままだったらワシが着くまでに逃げられていたじゃろうし、これはお前さんの獲物じゃ」
手際よくイノシシを捌きながらクーを誉めてくれるお爺さん。
「お前さん、釜茹で亭の世話になっとる子じゃろ。こいつを持って帰れば、いい値で引き取ってくれるはずじゃ」
そうですね。これは思いがけない臨時収入になりそうです。
猟師さんに獲物は山分けと言うことで手伝ってもらってイノシシを釜茹で亭に持ち込むと、ご亭主は喜んで引き取ってくれて。また猟師さんが畑を荒らしていたイノシシを退治したのが、こんな小さい女の子だった…… と皆さんに話してくれたこともあって見物に来るお客さん、感謝して農作物を持ってきてくれる農家の方などなど、大騒ぎの宴会に雪崩れ込みました。
クーは一躍、この街の有名人となってしまいましたね。
「……で、なんでまた騒ぎに混じってお酒を飲んでいらっしゃるんですか、魔王様」
この方は、ご自分の立場をどう捉えてるんでしょうね?
「なに、我が勇者が首級を上げためでたい祝いではないか。飲まないでどうする」
魔族は外見と年齢が必ずとも一致しないとはご当人から伺いましたが、少年の姿で酒杯を傾けないで欲しいです。
「ラーシュさんも、何とか言って下さいよ」
そう、この人も居るんですよね。
「……私はラゴアージュ様の僕だ」
返答の前の少しの沈黙が何だかこの人の心情を物語っているみたいで。思わずごめんなさいって謝ってしまいました。
それに対し、わずかに首を振って応えるのが、この人の優しさなんですよね。本当、こんな人が魔王軍の将軍殿なのですから世の中は分かりません。
「ふふ、次は熊かな?」
「止めて下さいよ!? 本当にクーが死んじゃいますからね!」
極めて物騒なことを呟く魔王様に、私は悲鳴混じりに訴えるしかなかったのでした。