第五章 釣りに行こう
「さて、いよいよ釣りに行きます。準備はいいですか?」
「うん」
早朝のまだ夜も明けきらない黎明の中、私たちは手作りで作った毛針、フライを持って渓流へと出かけたのでした。
川端に生えていた、釣り竿になりそうな真っ直ぐな若木。 ユキヤナギか、何かでしょうか? これをクーの持っていた小さなナイフで切り取って釣り竿にします。
釣り糸はテグスなど手に入りませんでしたので人の髪。伸ばし放題だったクーの髪を一房切り取ってそれを寄り合わせ、つなぎ合わせて前もって作って置きました。こんなことに役立つとは思いませんでしたが髪も伸ばして置くものですね。
釣り好きな世界史の先生に伺ったお話ですが、私たちの世界でもテグスが一般化する前は人の髪や馬の尻尾の毛を使っていたそうです。その後、利用されるようになったテグス自体も昔はカイコの幼虫から採れる天然素材だったそうで、こちらならこの世界にもあるかも知れませんね。高くて手が出せない、というのがオチのような気もしますが。
まずは、せっかくの釣り糸が痛まない草原で毛針を狙った所に投げるキャスティングの練習。クーの体を借りて私が実演します。糸を巻くリールも無くただ釣り糸を竿の先に付けただけですから、投げ方は釣り竿を跳ね上げて反動で釣り糸が後ろに伸びきった所で前方に投げ出すピックアップ・アンド・シュートか、前方にループを描くように投げるロールキャストができれば十分でしょう。基本はピックアップ・アンド・シュートなんですけど、釣り場では背後に木があったりして使えない場合があります。そんな時には、新体操のリボンのように釣り竿の先をくるりと回して糸にその回転を伝えて前方に飛ばすロールキャストは便利なんです。ピックアップ・アンド・シュートのように糸と針が頭上を通過しませんので、失敗して自分の服に針を刺したりしませんし初心者にもお勧めです。まぁ、糸が髪の毛なので感覚を掴むのに少々苦労しましたが、何度か練習する内に上手くできるようになりました。また、これはクーの体を借りた練習なので私の経験はクーの経験。若干の練習でクーだけでもすぐにできるようになりました。これがリールから何度も糸を繰り出して距離を伸ばしていくフォルスキャストとなると、もう少し練習が必要なんですけどね。
さて、狙うのはヤマメ。人の気配に敏感で人影を見ただけで物陰に隠れてしまいますから極力、水面に姿を映さないようにそろりそろりと進みます。
この辺はカラス狩りの経験からかクーも慣れた様子で、結構険しい河原をすいすいと魚を狙えるポイントへと移動します。
獲物が見込めるのは、岩陰。川の流れにより下流に渦が発生し、巻き返しが生じる所です。ここは流れてきた餌が流されにくく、長時間同じ所を回りますから魚にとっては餌を取りやすい場所なのです。
「ヤマメは非常に敏感ですから、かかった瞬間を見逃さないように。少しでも不自然な動きをすると、すぐに偽物と見破ってしまいますから毛針の操作は慎重に」
「うん、分かった」
ポイントの手前に慎重にキャスト。狙った場所からは少し離れてしまいましたが、何とか流れに乗ってポイントへ。今回作ったフライは水面に落ちた虫を模したドライフライですから、川の流れに沿って水面をフライが流れて行きます。
「来た」
素早い食いつきにびくん、と竿を立てるクー。一発で食いつくとは、ラッキーですね。逆に言うとヤマメは敏感ですので、一回失敗すると二度と同じ手には引っかかってくれないのですが。結構な引きで、即席の竿では折れてしまいそうです。
「クー、竿を立てて糸を手でたぐり寄せるんです」
「ん」
ランディングネット…… タモ網などありませんから何とか魚をなだめながら引き揚げないと。
それにしてもこの引き、尺物ですか? こんな大物がかかるなんて、この辺では誰も釣りをしていないんでしょうか?
クーは私の助言の元、糸を手繰り寄せ獲物が暴れたら少し引きを緩めることを繰り返し、逃さないように気をつけながら魚の体力を削っていきます。しばし格闘を続けると、獲物も素直に引きずられるようになってきました。もう少し、あともう少し。ゆらりと水面に影が浮かびます。私でも、今まで見たことがないような大きな魚影。
ふと、祖父に初めてフライフィッシングに連れて行って貰った時の興奮を思い出します。祖父は魚影を見て、
「ぎょえーっ!」
って、しょうがないことを……
余計なことまで、思い出してしまいましたね。
それはともかく大きい。これは大きいです。私も凄くわくわくしてきました。
「今です、クー!」
パシャッ!!
水しぶきをあげて大きな影が水面から躍り出ます。
「釣れたーっ!」
何とか河原にヤマメを引き揚げることに成功したクー。尺には届きませんが、七、八寸、二十センチを越える大物でした。
「凄いですよクー。私もこんな大物、見たことがありません」
クーをちゃんと誉めてあげます。これでフライ作りの苦労も報われてくれるでしょう。あれも楽しんでくれていたとは思いますが、何も知らないクーにとっては根気の要る作業でしたでしょうから。
「クー、ヤマメは内蔵が弱いのでさっさと捌いてしまわないと。やり方は分かりますか?」
「うん」
何でも、手づかみで魚を捕ったことがあるらしくて魚の捌き方もそれで覚えたそうです。
肛門から、この日のために鋭く研いでおいた小さなナイフを差し込み腹を開け、内蔵を取って骨に沿って付いている血合いを親指の爪でこそぎ落とします。後はエラを取って身を水洗いしてできあがり。魚籠がありませんから、木の枝を切ってそれをエラから口に通して引っかけ持ち歩くことにします。
「それでは次のポイントに行きましょう」
「うん」
良い返事ですね。
結果として、この川は大当たりでした。最初に釣り上げたような大物こそ居ませんでしたが入れ食い状態で。やはり誰も釣りなどしていないのでしょうか? 魚もすれていないようで、素人のクーが粗末な出来合いの道具を使っているというのに面白いようにかかりました。
「クー、緊張しているのですか?」
「う、うん」
ドライフライはその名の通り乾いていないと浮きません。ですからフライは適宜取り替え、乾かしてやらないといけません。本当ならフライパッチという専用の道具をフィッシングベストに付けて乾かすのですが、今回使っている手作りの針は返しが付いていませんから適当にベルト等に引っかけておけば問題なく乾かすことができます。
それで何故クーが緊張しているのかというと、私が手を貸して作ったフライは既に使い切ってしまったため最後に残ったフライ。クーが一人で作った芋虫フライをいよいよ使わなくてはいけなくなってしまったからなのです。
「さぁ、クー」
「うん」
もうクーも慣れた様子で私が指示しなくても魚が居そうなポイントを見分けてキャスティングできるようになりました。
「……釣れない」
「まだまだ、もう一度です」
再度、トライ。
そして、
「かかった!」
「やりましたねクー! がんばって!」
見事、当たりです。
クーが初めて独力で作ったフライ。それに記念すべき第一号の獲物がかかった瞬間でした。
「さて、十分釣れましたしもう帰りましょうか」
魚の居るポイントを追って藪を越え、崖や急斜面を登ったり時には川を渡ったりと、随分と山奥まで踏み入ってしまいました。そろそろ帰らないといけません。
「クー?」
返事が無いのを訝しく思い振り返ると、クーは流れに削られたのでしょう、露出した岩壁をじっと見詰めていました。
「何かあったんですか?」
クーの肩越しに視線の先を見渡すと、岩肌にきらきらとした筋が。これは鉱脈ですか?
「金? アーヤ、これ金?」
瞳を輝かせながら勢い込んで尋ねるクー。
「いえ、これは…… 硫化鉄鉱ですね」
鉱山町出身の祖父から教えられた知識をたぐり寄せながら答えます。金色と言いますか、真鍮色をしていますが主な成分は鉄と硫黄分。硫黄分の分離が難しいので鉄鉱石としても使いにくい、あまり価値の無い鉱石です。
そう説明すると目に見えてがっかりするクー。しょんぼりと耳を伏せている様子が涙を誘います。
「あ、そうです! 硫化鉄鉱は火打ち石として使われたんでした」
周囲を探り適当な大きさの硫化鉄鉱と、その辺に落ちていた適度に尖ったメノウのかけらをクーに拾わせます。クーの体を借り、硫化鉄鉱をメノウの角でこそぎ取るように打ち合わせると火花が散りました。
「くぅ?」
「そうですね、クー、これで火を起こしてみましょうか」
乾燥した枯れ草。枯れ落ちた小枝。朽ちた流木。これらを積み上げた上、クーの服のポケットに溜まっていた棉ゴミを取り出してこれを火口とします。
「いいですか、クー」
火口の上で景気良くメノウの角で硫化鉄鉱の表面をえぐります。鉄の部分が削れると、鉄の粉が摩擦熱で赤熱したものが落ちます。これが火口に落ちて火が付くのです。
「くぅ……」
火口が赤く燃え出したら息を吹きかけ、それをだんだん大きくしていって枯れ草に燃え移らせます。それを小枝に、そして朽ち木に、というように燃やしていくと立派なたき火のできあがりです。
「今から釜茹で亭に帰ってもお昼に間に合いませんから。昼ご飯はここで済ましてしまいましょうか?」
こんなことも有ろうかと、釜茹で亭のご亭主からは岩塩のかけらを分けて頂いています。塩を擦り込んだ素朴な味付けでしょうが、素材が新鮮ですからいけるでしょう。
「クー?」
と、クーは水際から植物を取ってきてくれました。
「これ、食べられる」
「これは…… セリですか」
よく似た植物に毒ゼリがありますので、念のため私も確認しましたが確かにこれは食べられるセリでした。
「これは香り付けに、そして彩りになっていいですね」
山菜の類は結構ありますが、アク抜きをしないで食べられる物は少ないんです。そのまま使えるセリをここで手に入れられたのは幸いですね。
「それじゃあセリを刻んでヤマメの腹の中に入れて、ヤマメの香草焼きにしましょうか」
「うん」
石で竈を作り、平らな石を上に載せてフライパン代わりに熱します。そして、この上でお腹にセリを詰め、塩を擦り込んだヤマメをジュウジュウと焼くのです。この身の上になってから空腹や食欲を覚えなくなったのですが、それでもこれはおいしそうで。クーのことが少し羨ましかったです。
「クー、おいしいですか?」
「うんっ」
そうですか。
クーの笑顔、それが私に幸せを分けてくれるようでした。