深紅の華
〔1〕
彼岸花を建て物の中に活けると、その建物は火事になるということを耳にしたことがある。私は、あの夜に見た、家の台所の窓に活けられた美しい深紅の花の記憶を生涯忘れる事が出来ないのかもしれない。秋が来るたびに。
十年前の秋の夜――鈴虫や蟋蟀が、家の小さな庭の草叢で宴を催す季節に、私達四人が住んでいた、まだ新築だろう家が全焼した。深夜二時の頃合いで、偶然に厠へ赴こうとした私は、台所の扉の硝子から漏れる紅い光に気が付き、中を硝子越しに覗いてみると、台所は真赤な炎に包まれていたのである。火事だ! 当時まだ小学生だった私は、急いで三人が寝ている寝室に向って走り、深い眠りの中にいる三人を叩き起こそうとした。しかし、目を覚ましたのは一つ違いの妹のユウだけで、父母は一向に目を覚ます気配すら無かった。父親のぱっくりと開いた口元から漂う酒の匂いを嗅いで私は、父親が酔いつぶれている事に気がついた。母親も、仕事疲れのせいか、私と妹の叫び声など一向に耳に入らないと言った様子で、大きな鼾を掻き続けている。私は、燃え盛る火の気配に怯えながらも、懸命に父母を起こす手段を考えた。こうしている間にも、台所に燃え拡がった炎は、その隣にある応接室に移り、そして六畳ほどの和室部屋をあっという間に焼きつくしていた。白煙は壁を伝って天井を覆い、廊下を伝って寝室のある二階に侵入してくる。私は涙を流しながら、起きて、起きてよと声を出し、起きる気配のない父母に嘆願した。
ユウが寝室に侵入した煙を吸って、せき込んでいるのを見た私は、とうとう居た堪れなくなって、父母を置いていこうと決断したのである。
「お兄ちゃん! まだ、まだパパとママが!」 ユウは、噎び泣きながら叫んでいた。私はそんな駄々をこねる妹の言葉を全て無視して、彼女の手を強く引き、階段を駆け下り、火の手に包まれる廊下を抜け、一目散に玄関を飛び出たのであった。
「死にたいのか」
私が、そう訊ねるとユウは声を殺して、小さく鼻を啜った。どうしようもなかった。近頃父親は長年勤めあげた会社を解雇されて、酒に溺れているのは知っていたし、母親はろくに仕事を探そうともしない父を助けようと毎日、夜遅くまで働いている。近頃では、寝つきが悪いのか、彼女は寝る前に睡眠薬を飲む事もある。深い眠りの中にいる二人を小学生の私が如何なる術を持って助けだせばいいのだ。私は無力だった。地獄の業火を彷彿とさせる深紅の炎は、真っ白な外壁の家を包み込み、熱風が、空間を攀じ曲げていた。私達は、ただ茫然とその燃え盛る家を眺めている事しか出来なかった。漆黒の夜空に、白煙が吸い込まれていく。二階の硝子は割れ、破片が飛び散り、炎が飛び出す。
この世の光景とは思えなかった。地獄――そうここは地獄なのだ。私に手をつながれたユウの顔は真赤に染まっていた。肩の上辺りで切り揃えられた髪の毛が熱風で、ゆらゆらとなびいている。さきほどまで泣いていたユウは、目の前の騒然たる光景を、じっと見据えながら、こんな事を呟いていた。
「綺麗――」 と。
私は、思わず自分の耳を疑い、恐ろしい事を呟いたユウの顔を見た。妹の瞳は目の前の真赤な光景を鏡の様に反射して、紅色に光っていた。虚ろで、無表情な形相が酷く不気味に感じられた。
「――彼岸花だ」
私がそんな事を云うと、ユウは無言で頷いたのであった。轟轟――と単調な機械音の様な音を立て私達の住み始めて間もない家が燃えている光景が、私には秋の日に美しく咲き誇る彼岸花に見えたのである。
しばらくすると、近所の誰かが通報してくれたのか、救急車や、パトカー、消防車が数台、煤のような真っ黒な骨組だけになった家の周りを取り囲んでいた。私達の家は全焼し、厭な匂いが鼻腔内に忍び込んで、秋の夜を静かに奏でる虫達の声は――
聴こえなかった。
聴こえたのは、ユウの泣き声と、初対面の大人たちの淡々とした尋問だけである。
〔2〕
家の残骸から父母の焼死体が発見された後、私とユウは、警察に事情聴取を受ける事になったが、当時まだ子供だった上に余りに突発的に起こった火災だったので、私は曖昧な事しか言えなかった。ただ、その日の夕ごはんは天婦羅だったという事もあり、母親が油の処理を忘れた事が第一の要因で、私が父親はよく台所で煙草を吹かすのだと説明すると、警察はそれを第二の要因として納得していた。結局、父母の不注意ということで、この大きな火災は片付けれたのだが、妹のユウだけは、家を燃やしたのは自分なのだと、事情聴取をした警察官の男に言っていたらしい。後からその男から訊いたのだが、どうやらユウは、その日、小学校の通学路で、綺麗な彼岸花を見付け、余りに美しいものだったから、それを根元から摘んで家の台所の窓脇に、瓶に挿して活けたのである。私は、その時初めて、誰が窓に彼岸花を活けたのかを知った。ユウは、小学校の級友から 〔彼岸花を建物の中に活けると火事になる〕 という迷信を教えて貰ったらしく、何を思ったのか、それを試したくなかったらしい。ユウは、級友の嘘を証明してやろうと企んでいたのだ。
「私のせいなの」
ユウは、事情聴取の最中、ずっとそんなことを、繰り返し、繰り返し、言っていた。
しかし、ユウの戯言は、訊き入れられることもなく、事件は解決に至った。父母のいない私と、ユウは、その後、母方の祖父母が住んでいるというG市の実家に預けられるようになった。父方の祖父母はとうの昔に他界していたために、その二人しか、私達の身寄りは無かったのだ。G市は、金剛山と葛城山の麓にある小さな町である。
祖母は、タエさんと言って、七十手前を迎えているが、白髪染めをしているせいか、容貌は年齢より随分と若く見えた。彼女は、いつも若々しい黒髪を後ろで束ねていて、左方に流している。祖父のゲンさんもタエさんと同じぐらいの年齢らしいが、正確な歳は訊いたことがない。ゲンさんは、いつも、柔和な面持ちをしていて、額に深い皺があり、頬は弛んでいるが、その若々しい表情は、何故か少年を彷彿とさせた。ゲンさんは、夏の終わりぐらいになるとシャツと泥が染みついた作業ズボンを履いて、家の近くにある田畑へ出かけていた。タエさんに、彼がどこに行くのかと訊ねると、彼女は、「稲の様子を見に行くの」 と教えてくれた。母方の実家は先祖代々、農家を勤しんでいるらしく、米の収穫を控えた秋が迫ってくると大層忙しいのだと言う。タエさんも、そんな農業に精を出すゲンさんの弁当作りなどで、いつも忙しそうにしていた。
タエさんも若い頃は、彼の農業を手伝っていたらしいが、過労が原因か、足を悪くしてしまい、すっかり彼のサポート役になってしまったらしい。
私達が世話になっている小さな木造家屋の周りには灰暗色の石垣があって、玄関を抜けた先には細い道路がある。道路の向こうには川底が明瞭と見えるほどに浅い河川があって、河川敷きの土手の上には、二人が懸命に守り続けてきた田畑が広がっていた。私とユウはよく家の庭から、ゆたかに実った黄金色の稲の海をトラクターで泳ぐゲンさんの姿をよく見ていた。涼風で稲同士が擦れ合う、さらさらという音が毎年豊作を知らせてくれる。ゲンさんは、そんな太陽の下でサラサラと笑いつづける稲達を見ていつも微笑んでいた。まるで失った私達の母親の死を忘れているかのように。
〔3〕
「お兄ちゃん、また彼岸花、いっぱいだね」
ある秋の日、ユウは、土手で咲いている紅色の花を指差しながら言った。
私は、虚ろに頷き、ユウを連れて土手の方へと近づいて行った。土手の上には雑草が生い茂り、その中で彼岸花が群を成して咲いている。細長い棒のような茎に、赤い花弁が舞い踊るかのように不自然に花弁の中心部に向って反り返っている。空に向って跳ね上がる糸の様な雄蕊は、万歳をしているようにも見えた。真赤な線香花火を連想させるような不気味な美しさを兼ね備えた花は、秋になると、その土手にたくさん生えるのである。私達は秋が来て、その満開の彼岸花を見る度に、憂鬱で壮絶な過去を思い出すのだ。
「――私のせい……」
「ユウ。あれは事故だ」
私が、毅然として言い放つと、ユウは頭を項垂れて哀しい表情を作った。私は、この花が嫌いだ。私達の記憶の扉をノックもせずに土足で踏み入ろうとしてくるこの花が嫌いなのだ。それでも秋は必ず訪れるのだから、私達は、生涯、あの忌まわしい過去の呪縛から逃れられる事は出来ぬ。
私達は、タエさん達の世話の元で、すくすくと成長していった。だが、寂しい想いも幾度となく味うことになる。父母が死んでからというもの、私達が通っているN小学校での運動会や授業参観、校内音楽会などの行事に、私の身内が足を運ぶことは無くなったのである。ゲンさんは、農業で忙しい身で、タエさんも足が悪かったので、ほとんど学校の行事に参加することは無かった。しかし、家庭訪問など、教師が家に来てくれる時は、タエさんも親身になって教師の話を聞いてくれたので、私が、無理に二人に 行事に参加して などとわがままを言うことは無かった。ユウは寂しがっていたが、私は彼女に 「無理言うんじゃない。世話してもらってるだけでもありがたく思えと」 諭し言い聞かせると、彼女は、渋々納得していた。肉親が死んでからというもの、私には何一つとして良い想い出などなかった。参観日で、母親と一緒に帰っていく他の生徒達の背中を、ユウと二人して哀しげに見つめるばかりだった。だが、祖父母は熱心に私達の面倒を見てくれているのだから、我慢する他なかった。
「いつか、私達、幸せになれるのかな?」
ユウは、いつだったか、私にそう訊ねた。
「――さぁな。多分、なれないと思う」
私は、素気なく答えた。
何故、私はあの時、「なれるさ」 と妹に優しい言葉を言ってやれなかったのだろう。どうして前向きになる様な慰めの言葉の一つも言えなかったのだろう。
その理由を知っているのは、私だけだ。
私には、私達が永久に幸福になれないだけの罪があるのだ。決して許される事のない悪行は、私の生涯に渡って、私の心を苦しめるだけの鎖となる。
ユウや祖父母には決して知られてはならぬ秘密を、私は抱えているのだ。
〔4〕
高校を卒業した私は、二人の農家を手伝いながら、近所の工場に勤める事になった。小喧しい機械音ばかり聴きながら、仕事ばかりしていると、時折頭が狂しくなってしまい、パイプや、ゴム製品の検品や納品の仕事の最中、ふと私は、自分の右腕に残った傷痕に気を取られる事があった。汚らしい作業着の袖から伸びた私の右腕には、点の様な火傷の痕が何十個とある。――それは、あの秋の夜に火事になった日に負った、永遠に消えない傷痕なのだ。
――いや、違うか。
違う。
私は、自分に嘘を吐いている。
この傷は、この火傷は、あの火災で負ったものではない。
この傷は、私の父親が付けた傷なのだ。私は、思い出す。あの日の夜に何が遭ったのかを。再び記憶の扉を開ける。
十年前――
私は、虐待されていた。仕事が上手くいってなかったのか、父親は、毎晩のように、私に体罰を与え、躾だと称し、私の躰を殴ったり蹴ったりして痛めつけていた。身に覚えのない事を言いかがりにして父は、私を酷く叱りつけていた。八当たりは止せと、最初、母親は父を止めようとしていたが、時間が過ぎるに連れ、何も言わなくなっていった。父の暴力は、次第に母にまで及び、母は父の暴虐を恐れ、私への虐待を無視し始める事になる。
私は、父を恐れていた。酒が入った父は、何をするか、どのような仕打ちを私に施すのか、幼少期の私には到底想像することすら出来ぬ。父は悪魔だった。
だが、私にはもっと畏れるべき事があった。それは、いつか父が、妹にまで手を出すのではないか? と言う漠然とした不安だった。 父のいない日、私はユウに、こう訊ねた。
「お父さんに何か酷い事をされていないか?」
「え? ううん」
ユウが不思議そうに小首を傾げたのを見て私は、安堵した。が、何時までもこの状況が続くかも分らない、私は、漠然とした恐怖心を拭うことが出来なかった。
そして、父は、ついに壊れてしまった。
会社を解雇された日から、父の様子は変になり、母親への暴力は激しくなり、私への虐待も酷くなった。
あの日の夜、父は、私を台所へ呼び出した。父はテレビを見ながら、酒を呑み、煙草をふかしていた。生気の無い眼で、じっと私の顔を睨みつけて、 こっちに来い と抑揚のない声を発しながら、私を手招きした。母親は、すでに仕事疲れか、二階の寝室で眠っていた。父は、テレビの音量を少しだけ上げて、私の小さな躰を掴み、二の腕に向って、煙草の先端部を――擦りつけた。瞬間、私は、現状を理解する事が出来ず、ただただ二の腕に電流が流れたが如き感覚に、驚愕し鈍い声を上げた。父は私の口元を塞ぎ、躰を抱きかかえる様に固定していたために、私は抗う術もなく、誰も私の上げた叫び声に気づくことはなかった。私は込み上げる涙を抑える事が出来ずに、泣き声を黙殺し、吻を固く結んで、腕に走る痛みを堪えた。父は、般若の様な笑みを浮かべ、焼けた私の腕を睨んでいた。私は、誰にも愛されない。誰にも愛して貰えない。自分を産んだ両親でさえも、私を痛めつけようとする。私は胸の内で、獣のような叫び声を上げた。
酒が躰に回ったのだろうか、父はしばらくして、私を突き放して、二階へと上がっていった。残された私は焼けた茶褐色の皮膚を流し場の水で必死に冷やしていた。痛い、痛い、痛い、と幾度となく呟きながら――痛いのは火傷を負った腕だけではなかった。心臓が、破裂してしまいそうに痛かった。
その時だった。
私があれを見たのは。
台所の窓脇で、誰が活けたのかも分らぬ美しい深紅の花が一輪。私は、時間を忘れ、その光景に見惚れていたのだ。今度は、父では無く私が狂う番であった。深い、深い紅色の花弁が、私の眼には燃え盛る炎の様に映った。
父は、煙草の火を消し忘れたのだろうか。テーブルのガラス灰皿の中では、煙草の先端部からもくもくと白煙が上がっていた。
私は、恐る恐るそれを手に取った。私の腕の皮膚を焼いた忌わしい火種は、まだ焼き足りないのか、消える気配はない。私は、紅い花に見入れらたのだ。
私は焜炉の上にある黒鉄製の鍋に目をやる。鍋の中には天粕で混濁した油が並並と注がれていた。私は、狂わしいほどに、その情景に囚われ、気がついた時には、目の前に真赤な炎の花が咲いていたのだ。
――あぁぁ あぁぁ あぁぁ あぁあ あぁぁ
言葉にもなっていない悄然とした声を洩らし、私は、その場で尻もちをつく。――怖じ気付いたのだ。私は何をした? 私は何をしたのだ?
私は錯乱状態に陥り、すっかり理性を失い、ただただ焜炉の上に拡がる炎に見入っていた。漸く、我に返った時には、炎は燃え拡がり、焜炉の上部にある換気扇を焼き溶かしてしまっていた。私は二階に上がり、そして、ユウを起こした。母も父も何度か躰を揺すった。が、反応は無い。――その時、私の頭蓋内に突如として悪魔が宿ったのである。私は、母と父を起こす事を辞めた。ユウだけを起こした私は、駄々を捏ねる妹を無理やり引き連れて、燃え盛る家を飛び出したのである。
――死ねばいい。私を愛してくれなかったあいつ等なんて死んでしまえばいいのだ。
私は、走った。妹の手を力強く握り、走った。――走った。
妹を守るために。
「お兄ちゃん! まだ、まだパパとママが!」
私は、赤い火に包まれる家を見据えながらこう言った。
――死にたいのか?