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現在、一之瀬 莉子には2つの選択肢があった。
ひとつ、タイムリミットまでなにもせず、西山に流し込まれたマザコン要素てんこ盛りの精神的断片をただ黙って受け入れ、彼のママとして残りの人生を過ごすか。
ふたつ、3日以内に西山 拓也を倒すか。
剣 亞璃紗が言うには、重大な洗脳や埋め込まれた精神的断片を除去するには、加害者を叩きのめすのが最も手っとり早い。
……らしい。
「それで? どうされるおつもりですの?」
「冗談じゃないわよっ! 誰があんなマザコン男の妄想なんて受け入れるかってーの! あのバカをどつき倒しに行くに決まってるでしょ!」
それを聞いた莉子はこう即答し、拳を高く振り上げた。
亜璃紗にとって、これは予想通りの反応だった。
「あら、でしたら3日以内に彼を見つけ出さなくてはいけませんね」
「うっ……ま、まぁそうなんだけど……」
「一之瀬さんは、西山くんがどこにいらっしゃるのかご存知ですの?」
「そ、それは……」
「そもそも、点火しか出来ない新参者の一之瀬さんが勝てる相手ですの?」
「やれば出来るわよっ! この燃え上がる右手であいつの頭をこう、パコーンと!!」
「あらあら……随分と無計画ですのね」
亞璃紗はブンブンと右手を振り回す莉子を見て、くすくすと微笑む。
「ううっ……剣さん、なんだか楽しそうじゃない?」
「ええ、所詮は他人事ですし」
「…………」
「今、わたくしのことを『冷たい人だ』って思いました?」
「……少し。でも、剣さんの言ってることは正しいよ。確かに剣さんにとっては他人事だし、あたしもこれ以上甘えたくない」
「甘えるだなんて……なんでしたらわたくしが全部―――」
「ううん、いいの。これはあたしの問題だから」
不安と決意が混在した表情で、莉子は亜璃紗の言葉を遮った。
しかし、亞璃紗にしてみればそれは想定外だった。
もっとなりふり構わず自分に助けを求めてくると思ったのに、目の前の少女はそんなこと匂わせもしなかったからである。
そんないじらしい莉子に対し、さらに好奇心が膨らむ亞璃紗。
このまま彼女があの少年の玩具として終わるのは、面白くない。
故に亜璃紗が間に入ってこの問題を解決し、恩義という鎖で莉子を縛りつける算段でいたのだが、肝心の莉子は自分で決着をつけたがっている。
亞璃紗はそれならばとすぐさま次の手を考えつき、にこやかに微笑んで人差し指を立てた。
「ではこうしましょう。1日は西山くんの探索で潰れると仮定して、今日を含めた土・日の2日間をわたくしにださいな」
「え? 剣さん、なにかいい考えがあるの?」
「はい。その2日の間に、わたくしが精神武装に頼らない戦い方を一之瀬さんにレクチャーします」
「精神武装に頼らない戦い……? でも、西山は精神武装が出せなければ勝てないって……」
「ふふっ、確かに精神武装は強力ですが、その根源は点火にあります……言動からして、おそらく彼は点火から派生する加速をご存知ないと思われます」
「加速?」
「点火で集めた精神エネルギーで肉体の瞬発力を一時的に上げる異常技能のことですわ。こんな風に」
亞璃紗がそう呟いて即座に右手を点火したかと思ったら、その姿は一陣の風と共に消えた。
「え? あ、あれ? 剣さん?」
「ふふっ、こちらですわ」
「なっ……! えっ!? しゅ、瞬間移動っ!?」
莉子が声がした方を振り返ると、そこには何事もなかったように亞璃紗が佇んでいた。
まるで先ほどまでそこにいたかのような涼やかな面持ちで。
対する莉子はというと、開いた口が塞がらずに目を白黒させて驚いていた。
「瞬間移動ではありませんわ。言うなれば高速移動……これが加速ですわ。どうです? これを使いこなせれば精神武装が無くてもいい勝負が出来ると思うのですが……」
「……ごい」
「はい……?」
「す、すごいっ! すごいよ剣さんっ! 加速っ! かっこいい! これ、あたしにも出来る!?」
「え、ええまぁ……ですが、たった2日で会得するにはかなり辛い修練が必要ですし―――」
「するっ! あたし努力とか特訓とかそういうスポ根系なノリ、結構イケるクチだからっ!」
「……ふむ。こういう切り口のほうが食い付きが良さそうですわね……」
「え? なにか言った?」
「おほほ……なんでもございませんわ。それでは早速、この書面にサインして頂けます?」
「へ? サイン?」
亜璃紗がどこからか取り出してきた数枚の上質紙。
そこには英語の文章が延々と羅列してあり、頭の悪い莉子には解読不能だった。
「えと……なに? これ……」
「簡単な保険契約書ですわ。もし特訓中にケガをしても、最低一千万円の保障付きですわっ♪」
「で、でもこれ、英語……」
「ええ、英国の契約書ですから。わたくしの母がイギリス生まれなもので、向こうの保険会社に顔が効きますの♪」
「へぇー、これが外国の契約書なんだぁ……サインでいいんだよね?」
「はいっ♪」
すかさず莉子の手元に差し出される万年筆。
莉子はそれを受け取ると、使い慣れないペン先の感触を楽しむかのように筆を走らせ始めた。
「えっと、いちのせ……りこ……っと」
「あ、もう一枚のほうにもサインを」
「はいはーい」
疑いもなく言われるがまま2枚の契約書に自分の名を書き連ねる莉子。
ぎこちなくペンを使う莉子の姿を、亜璃紗はまるでまぶしいものを見るかような、そんな笑顔で見つめている。
署名……それは内容がどうであれ、明記された文言に同意し、それに拘束される意思を示すものである。
そんな大切な行為を文言もろくに読まずに行使している莉子が、亜璃紗にとってはたまらなく面白かったのだ。
「あはは……これ以上甘えちゃいけないと思ってたのに、剣さんにはお世話になりっぱなしだね。あたしって……」
「いえいえ、お気になさらないでくださいまし♪ 一之瀬さんのお役に立てて、わたくしも嬉しいのですからっ♪」
「剣さん、なにからなにまで本当にありが……っ!?」
「ふふっ……その科白は、西山くんを倒した後にお聞きしますわ♪」
感謝の言葉を述べようとした莉子の唇を、亜璃紗の白魚のように細く白い指が遮る。
莉子は先ほど、彼女のことをほんの少しでも『冷たい人』だと思ったことを後悔した。
こんな幸せそうな笑顔を浮かべて他人に優しくできる人のどこが『冷たい人』なのだろう、と。
「それでは、わたくしは先にトレーニングルームへ行って準備をしておきますわ」
「トレーニングっ!? やっぱり精神異能者の修行も友情・努力・勝利っ!! みたいなノリなのっ!?」
「くすくすっ、それは始まってからのお楽しみです♪」
「うわっ! そう言われると余計気になるっ……」
亜璃紗は人差し指を立てながらそう呟いて、はやる気持ちを抑えきれない様子の莉子を制止しつつ、煽り立てる。
「後でセバスチャンにスポーツウェアを届けさせますので、着替え終わりましたらいらしてください。では、また後ほど……」
そう告げると、腰まで伸びたプラチナブロンドをなびかせながら亞璃紗は莉子がいるゲストルームを後にした。
溢れそうな笑いを必死に堪えながら。
そして、亜璃紗の背中でドアが閉まる音がした直後、彼女は小さく肩を震わせながら笑い始めた。
「ふふっ、うふふっ……。本当に無防備な子ですわねっ♪」
呟く亞璃紗の手には、先ほどの契約書がしっかりと握られている。
その表情は、まるで新しい玩具を手に入れた子供のように無邪気だった。
一方、部屋に残された莉子は……。
「せ、セバスチャン……! や、やっぱりお金持ちのお嬢様といえばセバスチャンなんだ……。どんな人なんだろう……っ」
暢気にテンションを上げながら、ドキドキワクワクでセバスチャンの到来を今か今かと待ち焦がれていた。
この後に待っているトレーニングが、どんなものかも知らずに……