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【ママ】
日本語、中国語、スペイン語、ロシア語、英語などの言語において母親を呼ぶときの言葉である。
ちなみに、英語圏ではあまり用いられない呼び名だったりする。
「嫌ぁ~~~っ!! ケダモノっ!! 最低っ!! 変質者~~~!!」
「ばっ! ちょ、待てよ! なに勘違いしてんだよ!」
「勘違いもなにも『ママになってもらう』ってそういう意味でしょ!? スケベっ! 痴漢っ! 一瞬でも気を許したあたしがバカだったわっ!!」
「落ち着けって! 俺が言ってるのはそういう意味じゃねぇんだよ!!」
「じゃあどういう意味だってのよ!!」
拓也から離れ、頬を赤らめて非難の声をあげる莉子。
色恋沙汰や性的なイベントとは無縁の莉子だが、男女の営みのいろは程度の知識なら弁えている。
彼女の脳内ではそんな非道徳的な妄想が駆け巡っており、今にも熱暴走寸前であった。
しかし、拓也にしてみれば莉子の主張は寝耳に水であり、ふしだらなことを口走る莉子に対し、言葉の意味を説明しはじめる。
「俺はただ……おまえを言いなりにして、その、エロいこと抜きで純粋に甘えさせてくれる……ママみたいな存在にしたいってだけなんだよ」
「あ、なーんだ。そういうことか。なら納得―――するわけないでしょ!? なにそれ!? マザコン!? そんな悪そうな見た目してマザコンなわけ!?」
「み、見た目は関係ねーだろ!? お、男は誰だって、ママが好きなんだよ……」
「いやいやいやいや! なに照れながら開き直ってるの!? そんなにママが好きならあたしじゃなくてあんたのママに甘えてきなさいよ!!」
「俺のママは……死んだよ。俺がガキの頃に……」
「あっ、ご、ごめん……」
拓也のアンニュイな表情を見て、莉子はハッとして口をつぐむ。
いくらマザコン男に対してとはいえ、母親の死というショッキングな領域に足を踏み入れてしまったことに、なんともいえない窮屈な感情が沸き起こってしまった。
そしてしばしの沈黙。
ふたりの間を夜風がふわりと通り過ぎた頃、拓也がその沈黙を破る。
「一之瀬、おまえさっき……この力に目覚めてから長いのかって聞いたよな?」
「え? あ、うん……」
「俺は小学生のとき……ママが死んだ後に覚醒したんだ」
「うっ……な、なにお涙ちょうだい的な話してんのよっ! 確かにあたしそういう話に弱いけど、なんであたしにママを求めるわけ!?」
「最初会ったときは暗くてよく分からなかったけど、近くで見て気付いたんだよ」
「き、気付いたって……?」
拓也はそう言うと、どこか嬉しそうな表情で莉子に歩み寄る。
そして、その歩調に合わせて莉子は後ずさる。
「似ている。そっくりだ。死んだママに。目元、口元、はにかんだときの表情、ちょっとおっちょこちょいでドジなところ、すぐ他人を信用する人懐っこいところ……見れば見るほどよく似ている。一之瀬、おまえは俺のママになる為に産まれてきたんだな」
「違うわよバカっ! 勝手にあんたのママとダブらせないでよっ!!」
「いいや違わない。一之瀬……おまえは今夜、生まれ変わるんだ。一之瀬 莉子から、西山 優子に……」
「やっ、ちょっ……そ、それ以上近寄らないでっ!!」
薄笑いを浮かべて近寄る拓也にこれ以上ない恐怖をおぼえ、莉子はたまらず点火し、牽制する。
それが無駄な抵抗だということは重々承知だった。
しかし、抵抗の意思をなにか目に見えるもので訴えたかった。
そんな莉子の焦りを手に取るように感じ取った拓也のほうは、冷静そのもの。
冷静な、狩人の目。
「やめとけ。精神武装も出せないおまえじゃ、俺には勝てない。もう逃げる体力だって残っちゃいないだろ?」
「くっ……! そ、そんなこと……!」
「そう怯えるなよ。次に目が覚めたときには、おまえは俺のことを自分の息子だと信じて疑わなくなる。そしてこの俺をいっぱい愛してくれる素敵なママになる……」
不敵に微笑みながら蟹鋏をカチン、カチンと鳴らせる拓也。
「ううっ……あたしも精神武装さえ出せれば……! えいっ! えいっ! なんか出ろっ!!」
莉子はやけくそになって炎を湛えた右手を振り回す。
そんな彼女を見て拓也は目を細めてニヤつく。
「ママもゴキブリが出たときそんな風にしてたな。本当にそっくりだぜ……」
「い、いちいち嬉しそうにしないでよこのマザコンカニ男っ!!」
「今からそのマザコン野郎の母親になるんだ……」
「ならないってば! 近寄らないでよっ!」
莉子は慌てて後ろに下がろうとしたが、足がもつれて尻餅をついてしまう。
長時間の全力疾走で、足腰に疲労が溜まっていたのだ。
「いっ……つぅ……!」
「もう諦めろ一之瀬。素直に俺のママになれ」
「あ、あんたね……こんなことしたってあんたのママは戻らないし、あたしをママ代わりにしても虚しいだけよっ!? そんなことも分かんないの!?」
「ママは戻るさ。今夜、ここにな!」
莉子による必死の説得も、馬の耳に念仏。
聞く耳持たずに不気味に微笑みながらにじり寄る拓也。
ふたりの距離は縮まっていく、刻一刻と。
気が付くと、その距離はもはや間合いの内といっても差し支えないほどの近距離だった。
莉子は拓也の動向から目を離さないよう、静かに立ち上がる。
「あんた……狂ってる……っ!」
「狂ってる? そうさ。それが精神異能者なんだからなァ!!」
莉子が立ち上がりきった瞬間を狙って振り下ろされる凶刃。
狙いは首筋、太刀筋は鋭い鋭角。
「っ……!」
その刃を、燃え上がる右手で振り払う。
思いもよらない応戦に、拓也はバランスを崩して次の行動が遅れる。
莉子はその隙にバックステップ、構えて距離を取る。
「点火で立ち向かってくるなんて健気じゃねぇか。そういえば俺のママも健気な人だったぞ」
「へぇ……だったらこういうのはどう!?」
そう叫んで莉子が振った拳。
その手の中には先ほど尻餅をついたときにひそかに握り込んでいた砂があった。
砂は放射状に飛び散り、そのなかの数粒が拓也の目に飛び込み、視界を奪う。
「ぐッ……目がっ……!」
「イエスっ! ざまーみろこのマザコンカニ野郎っ! あんたのママはこんな下品なことしなかったでしょ!? バーカバーカっ!」
そう吐き捨ててきびすを返した莉子。
これでこの変態ともオサラバ……そう思った矢先、足の異変に気付く。力が入らない。
そのまま地面に倒れた直後、鋭く熱い痛みが走る。
「っ! ぐっ……足がっ……! な、なに、これっ……!」
「へへ……それが精神武装で攻撃されたときの痛みだ。面白いだろ? 外傷はないのに痛みだけは感じられるんだぜ?」
拓也は目をやられた後、とっさに莉子に向かってハサミを振っていた。
その一閃が不運にも莉子の足首を薙ぎ、耐え難い苦痛を与えて這いつくばらせたのだ。
しかし、拓也による陵辱はこれからだった。
「さて……はじめるか」
「は、はじめるって、な―――ぐ……っ! ああああああッ!!」
「ほら、力を抜けって。抵抗しても痛いだけだぞ?」
容赦なく肩口を貫く大鋏。
焼けるような痛みとともに、拓也の精神エネルギーが流し込まれる。
一之瀬 莉子としての人格を内部から蹂躙し、かわりに拓也が渇望してやまない西山 優子の人格で塗りつぶそうとしているのだ。
圧倒的な情報量に押しつぶされそうになりながら、気をしっかり保って必死の抵抗を試みる莉子。
「嫌っ……あ、あんたの母親になんて……なりたくないっ……!」
「違う! 俺のママはそんな呼び方しない! さぁ、いつもみたいに呼ぶんだ……」
「い、いつモ、ミタイに……?」
荒波のように押し寄せる苦痛と、それを和らげるような麻薬のように甘美な拓也の精神情報。
彼のことをどう呼べばいいか苦慮していると、精神武装を介して拓也の意志が流れ込んでくる。
「た……たっくん……」
「そう、そうだ! いい! いいぞ!! じゃあ今度は自分の名前を言って! さあ!」
「ウ……ううっ……あ、あたしは……りこ……、い、いちのせ……りこ……」
「違うだろ!? 一之瀬は出てくんじゃねえッ!!」
「あぐ……! い、痛いっ……たっくん、や、やめて……っ!」
「あっ、ご、ごめんママ……」
肩を貫く鋏から伝わってくる痛みに耐えかねて、涙を浮かべて許しを乞う莉子。
その表情が愛してやまなかった母・優子にうりふたつだったこともあり、慌てて左手の力を緩める拓也。
それは彼の精神攻撃によって、徐々に西山 優子の人格が莉子の心に芽生えてきた証拠だった。
「よし……も、もう少しで俺のママが……! さあ名前だ! 名前を言うんだ!!」
「あっ……っ、くぅん……あたし……あたシは……っ」
断続的に流し込まれる苦痛と快楽に悶える莉子の姿が、大好きだった母親に近付きつつあることに拓也は興奮していた。
もう少しで大好きなママが完成する。
あとほんの少し、ほんの少しだった。
本当にもう少しのところで、拓也の精神武装は叩き折られる。
何者かの攻撃によって。
「ぐあッ!? お、俺のっ……お、おおお、俺の精神武装がああああああッ!」
拓也の顔が苦痛に歪む。
精神武装を破壊されることは、甚大な精神的苦痛を意味する。
折れた大鋏を振り回し、目を血走らせて攻撃してきた相手を捜す拓也。
「だ、誰だッ! クソ野郎!! ぶ、ぶっ殺してやる!!」
「あら、貴方にわたくしが殺せまして?」
夜空に硝子のように透き通った声が響く。
知らないものが聞けばとても可愛らしい女の子の声に聞こえるだろうが、拓也にはさながら悪魔か妖怪のそれのように思えた。
それもそのはず。
今まで数多くの精神異能者と渡り合い、何度も修羅場を掻い潜った彼ですら目視出来なかった神速の一撃を放った主の声である。
ゆっくりと声がした方向を振り返る拓也。
相手も視線に気付き、漆黒の闇を割って姿を現す。
そこには純白のワンピースに身を包み、長いプラチナブロンドをなびかせる美少女がいた。
その容姿はどこか浮世離れした雰囲気を醸し出し、手には白金色の刀のような精神武装を携えていた。物怖じもせずに拓也に相対し、澄ました笑みを浮かべながら。
「て、テメェは……! ブレイド……!」
「まぁ、わたくしをご存じでしたの? 光栄ですわ」
「けっ! この界隈で金髪碧眼、刀型の精神武装っていやぁテメェしかいねぇだろうが! んなことより、なんのつもりだァ!? 返答次第じゃただじゃおかねぇぞ!?」
「なんのつもり? ふふっ……それはわたくしの科白ですわ」
『ブレイド』と呼ばれた少女は笑顔を崩さなかったが、目は笑っていなかった。
「わたくしのテリトリーで、随分と好き勝手にされたようですわね?」
「チッ……この辺りはテメェの縄張りだったか……!」
いつの世も、どの文化でも縄張り意識というものが存在する。
それは、精神異能者の世界でも同じである。
『ブレイド』と呼ばれた少女は、自分の縄張りで起きた諍いに、武力介入してきたのだ。
「とりあえず、その子はわたくしが保護します。貴方は……そうですわね。今回は特別に見逃して差し上げます。とっととしっぽを巻いてお逃げなさいな」
「テっ……テメェ! この俺をバカにしてんのか!? せっかく見つけた俺のママを『はいそうですか』って引き渡せるか! その首かっ捌いて川に捨ててや―――」
「加速」
少女が小さく呟いたその刹那、拓也は意識を失った。
圧倒的な力量差。それさえ感じさせる暇も与えずに、少女は拓也を軽くあしらった。
「ふぅ……さて、あとはこの子ですわね」
乱れた髪を軽く整えながら少女は振り返る。
そこには精神攻撃によって気絶した莉子がいた。
「見たところ覚醒したての新参者みたいですが……ふふっ、これは面白い拾いものかもしれませんわ♪」
楽しそうに呟いて携帯電話を取り出す少女。
手慣れた手つきでとある人物に電話をかける。
「セバスチャン? わたくしよ。……ええ、ひとを一人、運んで欲しいの。……そうよ。よろしくお願いしますわ」
それからほどなくして一台のリムジンが到着し、莉子と少女を乗せていずこかへ走り去っていった。
静まりかえった公園には、無様に気を失って倒れ伏すマザコン男・拓也だけが残った。




