5
一之瀬 莉子は、最近になってようやく気付いたことがある。
自分がなんだかんだで頼み事を断れない人間であるという事実。
剣 亞璃紗との友達以上恋人未満な関係も、西山 拓也との奇妙な間柄も、根本的には莉子自身のこの性分が引き寄せた縁故と言っても過言ではない。
そして今、幼い頃からつるんできた同性の幼馴染に誘惑され、またしても断れずにいた。
「莉子っ……」
「ちょ、ちょっと待ってよ雪っ……あ、あんた、キスしたことあるの?」
「そんなの、ないに決まってるじゃない……」
「うん、そう……だよね」
「……知ってるくせに」
雪の言う通り、莉子はそんなこと聞かなくても分かっていた。
男好きするルックスの雪は、異性に告白される機会こそ多いが、その悉くをスルーしてきた不沈戦艦である。
その程度のことは、ずっと一緒にいた莉子が一番良く知っていることだ。
しかし、これは雪自身に事実確認をして欲しいが為に投げかけた質問。
今からしようとしていることの大切さを少しでも理解して貰い、出来れば躊躇して欲しいという……莉子のささやかな願いであった。
「つ、つまりっ! これがあんたのファーストキスになっちゃうんでしょ!? そんなのダメだよっ! 初めては大事にしなきゃ! ね? ね?」
「嫌」
「なんで!?」
「だって……わたしのファーストキスは、今日……莉子にあげたいんだもの。……大事になんてしないよ?」
雪はその扇情的な瞳を潤ませながら、莉子の頭を抱き寄せ囁く。
情熱的なその抱擁は、雪の大きく柔らかな胸越しに彼女の鼓動と熱っぽい体温を生々しく伝えてくる。
「ゆ、雪っ? あんた、なんかすごいドキドキしてない?」
「……莉子、もしかして気付いてないの?」
「? なにが?」
「わたしの鼓動も大きいけど、莉子のも負けないくらい大きくなってる……」
「なっ!? う、うそっ!?」
その指摘に驚き、莉子は慌てて自分の胸に手を当てる。
……確かに雪の指摘どおり、莉子の心臓は早鐘の如く鳴動していた。
うそ……
そんな……
どうして……?
莉子は自分の身に起こっているこの事象が信じられなかった。
何故なら、なにもしていないのに心臓の鼓動が早くなっているということは即ち、莉子自身が興奮を覚えているからである。
同性相手に。
しかも親友の雪相手に。
キスをねだられて興奮してしまっている。
おかしい。
ありえない。
女の子相手に性的興奮を覚えるなんて。
そんなインモラルな情動が、自分の心の中に沸き起こってしまうなんて。
狼狽する莉子の気持ちを察したのか、雪は小さく微笑む。
「莉子? 大丈夫だよ……? 女の子同士でドキドキしても、全然変じゃないよ?」
「えっ? ほ、ホント?」
「うんっ……莉子は知らないだろうけど、女の子同士でキスなんてみんな隠れて普通にしてることだし……わたし達くらいの年頃の女の子なら珍しくないことだもの。だから、そんなに不安がらないで……?」
「そ、そうなんだっ……知らなかった……。女の子同士でも、いいんだ……へぇー……」
「うふふふふふふふふふっ……」
雪は莉子を体よく丸め込むために耳障りのいい嘘を吹聴する。
『みんなやってる』『普通のこと』『珍しくない』
ウィスパーボイスで囁かれるその言葉が、莉子から倫理観という名の抵抗力を奪っていく。
ゆっくりと。
じわじわと。
確実に。
そして……獲物に毒を注入し終えた蜘蛛は、舌なめずりをして微笑む。
「それじゃあ……キス、してくれる?」
「っ……! い、いいけどっ、ホントにあたしでいいの? あたし、キス下手かもしんないよ? マジでぶちゅーってしちゃうよ?」
「うんっ、して? わっ、わたしね? ちょっと強引なほうが、好きなの……。だからっ、乱暴に奪って? わたしのっ、ファーストキスっ……強奪して? お願いっ、莉子っ……」
「うっ……」
腕を絡めながらそう誘ってくる雪に、莉子は不覚にも目を奪われてしまう。
彼女の全身から発せられる濃厚なマゾヒストのオーラに、中てられてしまう。
雪にここまで恥をかかせておいて、なにもしないのは失礼じゃないのか? そんな風にすら思ってしまう。
しかし、それでも莉子は踏み込めずにいた。
理由は、よく分からない。
ただ漠然と、雪と口付けをしてしまうことで……なにか、大切ななにかを失ってしまうような気がしていた。
板挟み。
親友からのおねだりと、自分のなかにある微かな抵抗感。
「っ……!」
莉子は意を決して、“あること”をする。
もはや、酒の勢いを借りるのと同義の行為……
そして……その結果、莉子の心に沸き起こった衝動。
それは、雪との約束を守るという義務感ではない。
今、目の前で組み敷かれている無抵抗な少女の唇を……雪の唇を、奪いたい。
それも、出来るだけ下品に。
ファーストキスの思い出が台無しになるほど、下品に、乱暴に。
莉子が亞璃紗にされたような……いや、それ以上に酷いキスを……してやりたい。
そんなインモラルな欲望。
抱いてはいけない欲望。
ひとりよがりな欲望。
一度芽吹いたどす黒い欲望は、もう止まらない。
大好きな親友にそんな酷いこと出来ない。
雪の大切なファーストキスを、そんな風に奪うなんて。
亞璃紗にされて、その辛さはよく分かってるはずなのに。
そうやって抑えようとすればするほど、その偽善心を糧にグングンと成長していく欲望。
もはや止める術などなかった。
「あははっ……♪ じゃあ、今からあんたのファーストキスを、最低な思い出にしてあげるねっ……♪」
「えっ……? さ、最低? なっ、ど、どうして……? わたし、強引にしてとは言ったけどっ、最低にしてなんて一言も―――」
「はむっ♪」
「んんっ!?」
雪が喋っている間に割り込む唇。
不意討ちのキス。
ふたつの柔らかな唇が、重なり合う。
「んっ……んちゅっ、ちゅっ……。ほらっ、もっと舌出してよ雪っ」
「あんっ、やっ……だめっ、そんなっ……ファーストキスらのに……舌っ、吸わらいでっ……」
「えへへー♪ だーめっ♪ んちゅぅううっ……」
「んっ、んんぅ……あっ……」
かろうじて舌を引っ込めて抵抗しようとする雪。
しかし莉子はそれを許さなかった。
無理やり吸引して雪の絹のようになめらかな舌を引きずり出し、莉子の口内へと誘う。
更にその舌が逃げないように歯で緩めにホールドし、舌を絡めて嬲りまくる。
自分の舌が、他人の口腔内で味見されるその感覚。
熱を帯びたぬるぬるとした感触。
舌全体に広がる莉子の味。
莉子の匂い。
初めて体感する粘膜同士の濃厚な接触がもたらす、苛烈な刺激。
雪は脳内麻薬で溺死するのではないかとさえ思ってしまった。
莉子が、舌を絡めてくれている。
わたしの唾液を、受け入れてくれている。
わたしの味を、匂いを……感じてくれている。
雪はそれを再確認してしまうだけで、身体が小さく身震いしてしまう。
まるで電気ショックで痙攣する虜囚のように。
何度も何度も、その魅力的な身体をくねらせ、強張らせる。
「やっ……っぷ、ぷぁ……っ、やらぁ……。りこっ、やめっ……おねがいっ、もうやめてぇ……」
「んちゅっ……ちゅっ、ちゅっ♪ ……ん? どーしてやめて欲しいの? あんなに必死でおねだりしてきたキスなのに」
「だ、だってぇ……これっ、刺激っ、つ、強過ぎるよっ……も、戻れなくなっちゃうっ……」
「へぇ~♪ 雪ってば、今更怖くなっちゃったんだぁ!」
「うんっ……だ、だからぁ……」
雪は涙目になって哀願する。
キスがこんなにも刺激的なものだとは思わなかったからだ。
あまりにも刺激的過ぎて、脳が焼けてしまいそうになる。
クセになってしまう。
戻れなくなってしまう。
莉子なしでは生きていけなくなってしまう。
そんな危険水域ともいえる一線を越えてしまうことが、怖くなってしまったのだ。
ほんの少し、扉の向こうにいる小生意気な中2娘に、莉子とのイチャイチャっぷりを見せ付けて悔しがらせるだけのつもりだったのに。
甘くソフトにファーストキスを莉子に捧げるだけのつもりだったのに。
「はぁ? なに甘ったれたこと言ってんの?」
「え……? り、莉子……?」
莉子の乱暴で野生的な言動に、雪はひどい違和感と既視感を覚える。
その危うくも鋭い眼差し。
挑発的な口元。
間違いない。
それは、“あの夜の”莉子だった。
完全覚醒し、精神武装を手に、雪を辛辣に詰ったサディスティックで容赦のない……あのときの、莉子。
……そう。
莉子が行った“あること”とは、精神武装の力を借りることであった。
彼女の右手にあるのは、精神武装。
自分の欲望に素直になれる精神武装。
より大胆に、より攻撃的になれる精神武装。
自分が自分でなくなるような、もうひとりの自分に身体を乗っ取られるような……精神武装。
もちろん、雪の中途半端な申し出を、覚醒した莉子が許すわけがない。
なにせ莉子はすでにスイッチが入ってしまったのだ。
親友である雪の柔らかで心地のいい抱き心地を知ってしまった。
男を知らないその身体から分泌される唾液の味を。
亞璃紗とは違うそのしっとりとしたぬくもりを。
もっと知りたい。
もっと貪りたい。
もっと蹂躪したい。
間違ったキスの仕方を教え込まれ、それを親友に求められ、あまつさえ不安定な精神武装を携えて攻撃的になった莉子はもはや、ブレーキの壊れた重戦車に等しい。
欲望の限り、進み続ける以外にないのだ。
「あんたの初めてを最低な思い出にするって言ったでしょ? この程度で終われるわけないじゃない、あはっ♪」
「り、莉子っ……! あ、あなたっ、精神武装っ……!」
「ん? あぁ、これ? んふふふっ……雪も大好きでしょ? 精神武装っ……」
「っ……! そっ、そんなことっ、あるわけないでしょ……っ! それ持ってる莉子は、いじめっ子みたいで……嫌いだもんっ」
「うそつき」
「えっ!?」
「あたし、知ってるんだから。雪、あんた……あたしにいじめられて、ホントは嬉しかったんでしょ?」
「!! ち、ちがっ……! 違うもんっ!」
「どう違うの? なにが違うの?」
「うっ……そ、それはっ……! だってっ、莉子にいじめられるの、辛いし苦しいし……っ!」
「けど嬉しい。そうでしょ?」
「だからちが―――っ!?」
莉子は今一度、雪の唇を塞ぐ。
くちゅくちゅと品のない水音を鳴らしながら、彼女の口腔内を陵辱する。
その口付けには愛情も思いやりもない。
強情な幼馴染への過激なおしおき。
制裁のキス。
「っ……んぷっ! ……っ! ぷぁっ……! り、莉子っ……?」
「あんた……あたしが何年あんたのダチやってる思ってるのさ」
「っ……!」
それは、いつもの莉子が見せるような笑顔。
身を切るような冬の寒空に、ほんの少し差し込んだ陽射しのような笑顔。
雪がよく知っている、大好きな莉子の……笑顔。
その微笑みに、すべてを見透かされているような感覚を覚える雪。
……いや、実際に莉子は看破していた。
雪の……彼女の本質を。
「確かに少しは心を痛めてたみたいだけど、それとは裏腹に……あたしに本気で構って貰えて、嬉しかったんでしょ?」
「なっ……!!」
図星……いや、違う。
雪自身も、あのとき莉子に罵られながら感じた高揚感がなんなのか理解出来ていなかった。
そう。
雪は今まさに、莉子に咎められて初めて自分の気持ちを理解した。
あのとき、確かに莉子の罵倒で傷ついてはいたが、それ以上に莉子が面と向かって叱ってくれていることに喜びを感じていた。
自分のダメなところ、間違っているところを、莉子がちゃんと分かってくれていることが嬉しくて仕方がなかった。
そのときめきの根幹……
気付いてしまうとなんとも恥ずかしい理由である。
まるで飼い主に媚びへつらう犬のような思考パターンである。
雪自身も、己自身のあまりにも情けない本質を知り、羞恥で顔を耳まで真っ赤にする。
「あははっ♪ 雪ってばホントどうしようもない寂しがり屋の構ってちゃんだよね~♪ そんなにあたしに相手して欲しかったの? くすっ、飢え過ぎ~」
「ちっ、ちちち、違うもんっ!」
雪は素っ頓狂な声で否定するも、その動揺っぷりはもはや莉子の言葉を肯定しているのと同義であった。
「しかもさぁ……『強引にして』とか『乱暴なほうが好き』だなんて……普通の構ってちゃんの発言じゃないよね? ん~?」
「っ……、り、莉子っ、お願いっ……もういじめないでっ……わたし、そんな子じゃないよっ……」
「はぁ? 違うでしょ」
「……えっ?」
「あたし……素直な雪が好きなんだけどなー」
「うっ……」
悪戯っぽく微笑みながらそう囁く莉子。
聡い雪は、彼女がなにを求めているのかをいち早く察した。
莉子は……剥ぎ取りたいのだ。
雪が今、必死で守り通している鍍金を。
物静かで理知的、頼りがいのある素敵な幼馴染という、鍍金。
それを剥がして、丸裸にするつもりなのだ。
「ほらぁ、今の雪を的確に表現できる言葉が、あるじゃない? ねぇ?」
「違うっ! 絶対違うもんっ! わたしっ、わたしは―――」
「あーあ……。素直に自己紹介出来たら、雪のして欲しいこと……ぜ~んぶしてあげようと思ったのになぁ~」
「はぅ……そんなこと言うの、卑怯だよぉ……」
雪の慎ましやかな乙女心など一瞬で吹き飛びそうになるほどの、強烈な誘惑。
して欲しいことなら山ほどある。
まずは恋人みたいに指を絡め合いながら手を繋いでのフレンチキス。
それから、色々な部分を触って欲しい。
胸やふともも、言えない部分……
もちろん、莉子の身体も触ってみたい。
しかし、そのご褒美を得るには……曝け出さなければいけない。
己の……惨めな本性を。
雪はそれを恥じ、躊躇っていた。
「雪っ、素直になることを怖がらないで。……ね?」
「で、でもっ……、やっぱり恥ずかしいよっ……」
「恥ずかしがることなんてないじゃない。言ったでしょ? あたしは、どんなことがあっても雪を嫌いになんてならないんだから……」
「莉子っ……やっぱり優し―――」
「たとえ雪が、レズでストーカーな構ってちゃんでしかも、……なド変態でも、あたしが全力で受け止めてあげるからっ♪」
「……くない。全然優しくないっ……! 莉子のバカっ、いじわるっ……嫌いっ」
莉子のおおらかでデリカシーのない一言に、雪はそっぽを向いてふてくされる。
しかし、顔はまだ赤いままだ。
……言葉や態度とは裏腹に、雪は嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
もし彼女に犬のような尻尾が生えていたら、ちぎれんばかりに振っていたことだろう。
なにせ莉子は、おおっぴらに自分の恥部を受け止めると申し出ているのだ。
この発言に、雪が喜ばないわけがない。
「で、でもっ……り、莉子がそんなにわたしのっ、恥ずかしがる姿が見たいならっ……わ、わたしはっ、……、……なのっ……」
「ん~? 聞こえないなぁ~?」
「だ、だからっ! わっ、わたしはっ! ごにょごにょ……」
「ほらぁ♪ 大きな声で言わなきゃ聞こえないぞ~? あははっ♪」
「もぉぉ~……こっちは死ぬほど恥ずかしいのにっ……ぐすっ」
この態度は、果たして本当に莉子の本意なのだろうか。
雪はおぼろげにそう思った。
しかし、彼女がそう考えるのも無理はない。
普段は絶対に見せることがないこんな小悪魔のような笑顔を見れば、誰だってそう思わざるを得ない。
だが、今の彼女も紛れもなく一之瀬 莉子なのだ。
(自分の欲望に)素直で、(行き過ぎではあるが)友達想いの、一之瀬 莉子なのだ。
そして……彼女の雪に対する度重なるこの暴君的所業も、雪の一言ですべて帳消しになってしまう。
雪の『ある』一言で、莉子が放ってきた暴言の数々が、コインの裏をひっくり返すかのようにスウィートに成り代わる。
その一言とは……
「わっ、わたしっ……! えっ、“えむ”なのっ!」
「…………」
「はぁっ……はぁっ……」
言った。
雪はついに言ってしまった。
雪自身ですら今まで気付かなかった……いや、気付かないフリをして頑なに認めようとしなかった性癖。
それを、愛しの莉子に暴露してしまった。
羞恥を我慢して、勇気を出して、告白した。
……だが。
「え~? “えむ”ってなぁに~? あたし、雪みたいな変態じゃないから、“えむ”が何なのか全然分かんないんですけど~」
「なっっっ!?」
挑発的に舌なめずりをする彼女はそうとぼけながら、更なる恥辱を雪に求めてきた。
「あ、あぅ……り、莉子っ、酷いよぉ……」
「なんで酷いの~? あたしはただ、雪の口から“えむ”っていうのがどういうものなのか説明して欲しいだけなんだけどなぁ~」
「莉子のバカっ……悪趣味っ」
口ではそう悪態を吐きながらも、雪は滾っていた。
快感に身を震わせていた。
莉子にいじめられればいじめられるほど、興奮している自分がいる。
喜んでいる自分がいる。
「あのねっ? わっ、わたしはっ、莉子にいじめられるとっ……胸が苦しくて、辛くなるのっ……」
「うんうん。けど、それだけじゃないよね?」
「……うんっ」
「あははっ……♪ いいよっ、続けて?」
「っ……! でもねっ、でもねっ……? それ以上にっ、お腹の奥が……熱く、なるのっ……」
「へぇ~……お腹の奥が、熱くなっちゃうんだぁ~♪」
「うんっ……♪」
雪はもはや吹っ切れたのか顔を真っ赤にして瞳を潤ませつつも、笑顔で莉子を見つめながら、恥ずかしい質問に答えていく。
「お腹の奥って……この辺かな~?」
「あっ……♪ ち、違うよぉ、もっと下だよぉ……」
莉子がいきなりへその上を撫で回してきたので、雪は一瞬だけ驚く。
が、それがスキンシップであると分かると、安心したようにだらしない笑顔でそう呟きながら、腹部を撫でる莉子の手に、自分の手を重ねる。
「え~? じゃあここかなぁ?」
「うふふふふっ……もう少し下かな?」
「もっと下? この辺?」
「やんっ♪ し、下過ぎだよぉ! 莉子のエッチ……♪」
「あはは……ごめんごめん。なら、ここ?」
「んっ……そう、そこ。そこなの……莉子っ、もっと撫でて……?」
雪が指し示した部位は、下腹部。
女性にとって最も大切な器官がある場所。
彼女はそこで感じていた。
莉子に辛辣に罵られる度に、じんわりと燃え上がるような熱を。
「素直な雪、とっても可愛いよっ……♪ あたし達……これからも、ずーっと友達でいようね?」
「ホント……? 莉子っ、約束だよ……? 絶対の、絶対だよ……?」
「うん、約束っ。絶対の約束っ♪」
「キスも、いっぱいしてね……?」
「うんいいよ。友達だもの」
「乱暴なことも……してくれる……?」
「うん。雪が素直にそれを求めるなら、いっぱいいじめてあげるよ♪」
「あとね……? ツキイチでいいから……デートもしたいの……」
「うん、どこへでも連れて行ってあげる」
「……っ、それと……あの子と、縁を切って欲しいの……」
「う……うん?」
「あの子と、縁を、切って欲しいの……ね? いいでしょ? 莉子っ……うふふふふふっ♪」
人間は、強欲な生き物である。
砂漠を彷徨う旅人は、水を一口貰えば二口目が欲しくなる。
二口目をねだってそれが叶えば、今度は水筒ごと欲しくなる。
……今の雪は、図に乗っている。
求めれば無尽蔵に与えられる莉子の愛を、独り占めしようとしているのだ。
「そっ……それは―――」
そんな雪の無理難題に、莉子が返答しようとしたその刹那。
保健室の扉が小さな音を立てて揺れ動いた。
静かな室内でなければ聞き逃してしまうほどの、わずかな音。
「? ……な、なに? 誰かいるの?」
「うふふふっ……♪」
音の主が誰か知っている雪は、楽しそうに微笑む。
この状況を見聞きしている“彼女”の狼狽ぶりが手に取るように分かるからだ。
その状況がもたらす圧倒的な優越感に身を震わせる雪とは対照的に、莉子の心には不安の霧が広がる。
そして……彼女は直感的に、扉の向こうに誰がいるのかを察知する。
「……亞璃紗?」
◆
◆
◆
「っ……!!」
愛しの人に名を呼ばれた少女は、びくんと身体を震わせる。
こんな形で呼ばれたくなかった。
普段の自分なら、上品に微笑んで返事をするのに。
流麗な物腰で、莉子のもとへ馳せ参じるのに。
今の亞璃紗にはそれが出来なかった。
不本意なこととはいえ、覗きなどという下劣で下卑た行為をしてしまった。
その後ろめたさもある。
雪と莉子の間で深まる友情を見て、自分の不甲斐なさも痛感した。
幼い頃から莉子と連れ添った雪に対して、自分はどうだろうか。
強引な手管で莉子に擦り寄り、無茶苦茶な道理で莉子を縛り付け、わがままばかり言って莉子を困らせ、あまつさえやっと自分を理解してくれる人と巡り会えたテンションに任せて同性なのに伴侶認定……
亞璃紗はそんな自分を客観的に評価してみた。
結果は……
「なんですのこれ……ただの横暴なキチガイ女じゃありませんの……」
もっと早くに気付くことではないのかというツッコミはさておき、亞璃紗は愕然とした。
金持ちであること以外に莉子を繋ぎ止めておくほどの魅力も価値もない自分に、絶望した。
おとなしく献身的に莉子の傍に居続けた雪とはまるで格が違う。
少なくとも、ふたりの間には長年に渡り育ててきた絆がある。
歴史がある。
確かな友情がある。
しかし亞璃紗にはそれがない。
なにも持ち合わせていない。
こんな劣等感を覚えるのは、生まれて初めてのことだった。
莉子に出会うまでの亞璃紗の人生のなかで、恋愛や恋慕などという単語は微塵も存在しなかった。
強いて挙げるとすれば、剣家の娘というだけで擦り寄ってくる顔だけ小綺麗なだけの面白みの無いカスみたいな男共が吐き散らす歯の浮くような台詞に、爪の垢程度に登場するくらい。
亞璃紗はそんな男共を、星の数ほど鼻で笑って振ってきた。
いつだって彼女は選ぶ側の人間だった。
しかし、今は違う。
今は……選ばれる立場。
雪という強力な恋のライバルと、競り合う立場に置かれている。
まぁ西山 拓也も恋敵かもしれないが、亞璃紗的には大した脅威ではない。
しかし雪は違う。
彼女は別格だ。
彼女には、亞璃紗にはない儚さがある。
なんともいえない弱々しさが、病弱なお姫様のような雰囲気を醸し出している。
世話焼き体質の莉子が構いたくなるのも道理だ。
正直言って亞璃紗でさえ不本意ながらも、お似合いのふたりだと思ってしまう。
そんな仲睦まじいふたりの間に割って入ってくる、金持ちの馬鹿娘。
もしこれが創作話であるなら、このような登場人物をなんと言うであろうか。
「……ただの悪役っ、お邪魔虫ですわっ」
亞璃紗は悔しそうに、そう吐き捨てる。
しかし、ただの悪役ならまだいい。
今の亞璃紗はその程度の陳腐な言葉では、とてもではないが形容しきれない。
なぜなら彼女はふたりの情事を見て……催してしまった。
身を切り裂かれるような心の痛みを覚えながらも……身体が火照ってしまった。
こんなはしたない姿を……見られたくない。
莉子にだけは……見られたくない。
「っ……!」
亞璃紗は衣服の乱れをそそくさと直すと、一目散に駆け出した。
とにかくこの場から遠ざかりたかった。
背後で、ドアの開く音がする。
その直後、誰かの視線がこちらを向く。
おそらく莉子だろうが、確認は出来ない。
確認したくない。
とにかく逃げる。
惨めに逃げる。
逃げ遂せる。
そんな彼女の頬を濡らす、熱を帯びた雫。
「ふふっ……もうっ、なんですの? 近頃、本当に涙腺が弱くなってしまいましたわっ……ぐすっ」
少女は小さく呟くと、誰もいない廊下の角で静かに泣いた。
涙を拭う彼女の手首に巻かれた小さな腕時計の針は、もうすぐ授業が終わる時間帯を指し示していた。




