2
事の発端は、一本の電話だった。
つい最近まで、莉子が邪険にしていた少年・西山 拓也。
莉子はこともあろうに、その彼と連絡を取ろうとしていた。
その理由は実に、莉子らしいものであった。
『……もしもし』
「あ、え、えっと……西山?」
『ん? その声、一之瀬か?』
「うん、あたし。その、ひ、久しぶり……だねっ」
『あ、ああ……そ、そうだな……』
やや緊張した声色の莉子と拓也。
無理もない。
莉子は異性とこうやって電話でおしゃべりするのは初めてだし、拓也に至っては気になる異性からの突然のコールなのだ。
リラックスなどしていらない。
『…………』
「…………」
『で? なんだよ』
「えっ!? な、ななな、なにって?」
『いや、用事があって電話してきてるんだろ?』
「う、うん……そ、そうだけどっ……」
『なんだよ。サッサと言えよ』
「ちょ、ちょっと待ってよぉ! そんなに急かさなくったって……あーもうっ!!」
女の子には、心の準備というものがある。
女性の会話には、流れというものがある。
少なくとも莉子は、それを気にしながら話を進めようとしていた。
だが、拓也にとってはそんなことはどうでもいい。
男には男の思考というものがある。
論理的で独善的で、端的なものの考え方。
それに輪をかけて、拓也にとっては莉子がどんな用件で電話してきたのか気になって気になって仕方がなかったのだ。
「にっ、西山はさっ、あたしにして欲しいこと、ある?」
『………は?』
「だっ! だからっ! 雪の件であんたにはお世話になったからっ……その埋め合わせっていうか、なんていうか……」
莉子はあの一件の後、亞璃紗から聞いていた。
拓也が危険な囮役を自ら買って出たことを。
それを知った莉子は、不覚にも心を動かされた。
ぞんざいに殴り飛ばしてそれっきりだった少年が、自分のために身を挺して闘ってくれた。
たったそれだけのことであるが、莉子の心は瞬く間に柔和な気持ちでいっぱいになってしまった。
そして……その恩に報いなくてはいけないと思い立った。
故に、こんな嬉し恥ずかしい提案を持ちかけたのだ。
『し、して欲しいこと……』
「言っとくけど、えっちぃのは無しだかんね」
『ぶっ!? あ、あああ、当たり前だろ!? つーか俺そんなこと全然考えてねーから!!』
「ホントかしらねー。ま、無いなら無いでもう切るけど」
『ちょ! ま、待てっ! 切るな! あるッ! あるぞ一之瀬っ!!』
せっかく開いた夢の扉。
それがまさに目の前で閉まりそうになったのを察知し、拓也は慌ててその扉に片足をねじ込んだ。
『一之瀬、その……い、一日、一日だけでいい。お、俺のママになってくれ』
「…………」
『な、なんだその『まーた始まった』とでも言いたげな沈黙は!』
「へっ!? そ、そんなこと思ってないよっ!? ただ、ちょっと説明不足っていうか、理解出来ないっていうか……」
『別に難しいことじゃねぇよ。1日だけ俺のママのふりをして、晩飯でも作ってくれりゃあそれで大満足だよ』
「うぇえぇ!? なっ、で、で、でもそれって、あんたん家で……?」
『ん? ま、まぁ……そういうことになる……な』
「そ、それは、なんというか、不味いんじゃないかなぁ……色々と……」
莉子は逡巡する。
何故なら拓也には前科がある。
あの夜の出来事を忘れるほど、莉子はおバカではない。
それに莉子自身、男の子の家に上がるのは初めてのこと。
彼女の決断を鈍らせるのに、ふたつの不安要素は十分過ぎる効力を発揮していた。
そんな莉子の戸惑いをいち早く察した拓也が、先に仕掛けた。
『なんだ。埋め合わせがしたいってのは口だけだったのかよ』
「えっ? に、西山……?」
『はぁー……がっかりだぜ。俺はおまえの気風の良さ惚れ込んでたのによぉ……興醒めだな』
「ちょ、ちょっと待ってよっ! あたしまだなにも言ってないのに―――」
『へっ! 俺にとっちゃ拒否ってるのと一緒だぜ! あーもういいわ。どうせ一之瀬のしょぼくれた演技力じゃ、俺のママを表現するなんて土台無理な話だしな』
「なっ……! なんですって!? そんなことないわよっ!!」
吐き捨てるように放たれた、拓也の心無い一言。
それは莉子の、彼女の胸と同じくらい小さなプライドを刺激するのに十分過ぎる一言だった。
「あたしこう見えても演技にはちょっと自信あるんだから! 中1の文化祭、クラス対抗出し物大会で演った『シンデレランボー怒りのアフガン』のスタローン役とか、中2のときの『沈黙の白雪姫』のセガール役とか、中3のときに演った『ロミオとジュリエットVS.プレデター』のシュワルツネッガー役とか! みんなすっごく評判良くって、演劇部から何度も勧誘とかされたんだからっ!!」
『待て待て待て待て! なんだそのラインナップは!! おまえんとこのクラスはどうなってんだ!? 脚本書いた奴出て来い!! そもそもなんで役者を演じてるんだよ!! ランボーならランボー役でいいじゃねーか! 色々おかしいだろ!!』
「ちなみに、いっつもお姫様役は雪だったんだよね~」
『その題目のどこにお姫様なんて配役を突っ込むんだ!? 逆に見たいぞそれ! ああもういい却下却下っ! 俺のママまでヘンテコハリウッドにされちゃたまんねーぞ!』
「はぁ? そんな原作を冒涜するようなアレンジするわけないでしょ?」
『シンデレランボーとか言ってる奴からそんな言葉が飛び出すとは思わなかったぞ……』
「言っとくけど、あんたのママっていう“台本”ならとっくの昔に貰ってるし……何なら明日にでも演れるんだけど?」
『けっ! 言ったなぁ!? だったら明日、演じて貰おうか!? 俺のママをなぁ!!』
「望むところよ!! ただし、あたしの演技が完璧だったら、して貰うからね……誠心誠意の“土下座”をっ!!」
『ああいいぜぇ!? 土下座でもなんでもしてやらぁ!! テメェの演技が“大根”じゃなければの話だけどな!!』
その吐き捨てるような言葉の直後、電話は切れてしまった。
莉子は携帯端末を握ったまま、わなわなと震える。
悔しさと怒りに打ち震えているのだ。
しかし、それこそが彼女のやる気を奮い立たせる点火プラグ。
彼女のパフォーマンスを最大限に引き出す、ハイオクタンガソリン。
「ぃよーーーーっし! やったろーじゃないっ!! 完璧に演じ切ってあのマザコンに甲高い声で『ママーーーーっ!!』って言わせて跪かせてやる!!」
莉子は握りこぶしを振り上げながら、闘志を顕わにしていた。
もとより拓也の母親を演じる自信はあった。
初めて彼と遭遇した際に浴びせられた一撃……その時に流し込まれた洗脳クラスタには、拓也の母親への想いがぎっしり詰まっていた。
それを思い返せば、西山 優子の人物像を把握することなど造作もない。
まさに見えない“台本”と呼ぶに相応しいものを、莉子はとうの昔に貰い受けていたのだ。
「あとは見た目よね……? えっと、確か前に亞璃紗から貰った資料が……あったっ! ふむふむ……優子さんは髪長かったんだね。まぁこれはウィッグでいけるかな? 目の下のほくろは油性マジックで……」
以前、亞璃紗が調べ上げた西山 拓也に関する資料。
それに紛れて入っていた彼の母親の写真を手に取り、役作りをどうするかと考えを巡らせる莉子。
演技という名の決戦に対し、前向きに準備を進める莉子に対して、拓也はというと―――
「うっ……や、やっちまったぜ……」
携帯を片手に青くなっていた。
『もしかしたら乗ってくるかなー?』という軽いノリで挑発してみたら、莉子はアッサリと乗ってきてくれた。
そこまではいい、非常に嬉しい限りだ。
が…… 問題は嬉し過ぎることだった。
今ですら緩んだ顔が締まらずに困っている。
ニヤニヤが止まらない。
「つーか、いくらなんでもバカ過ぎるだろ一之瀬……こんなあからさまな釣りに引っかかって……」
もちろん、そんな純粋で真っ直ぐな莉子だからこそ、拓也も惹かれているのだが。
そんな気になる女の子が自分の家にやって来て、自分の為だけにマザコンプレイに興じてくれるなんて、世のマザコン系男子にとっては犯罪的なまでに魅力的なイベント。
テンションがうなぎのぼりになってしまうのも致し方ないことである。
しかし、こんなテンションで彼女に会ってしまったら自分がなにをしでかすか分からない。
己をちゃんと制御出来るか、自信がない。
いや、別に無理して抑える必要など無いのではないか?
理由はどうあれ、年頃の男の家に女が足を踏み入れるということは、それなりの好意があってのことではなかろうか?
であるなら、あわよくば押し倒して一気に―――
「って、なに考えてるんだ俺っ! いくらなんでも飢え過ぎだろ! ダメだダメだっ! 一之瀬は善意でこんな茶番に付き合ってくれるんだぞ? それなのに俺がこんな調子でどうすんだよ!」
頭を抱えて俯く拓也。
自分の獣染みた思考に自己嫌悪を覚える。
こんな調子では、本当に莉子に襲いかかってしまうかもしれない。
もしもそんな失態を犯してしまったら最後、今度こそ莉子に嫌われてしまう。
せっかく前回の闘いで株を上げたというのに。
せっかく電話をかけてきてくれるほど距離が縮まったというのに。
ここで獣に変身しまったらそれらがすべて水泡に帰してしまう。
「そ、そうだっ! 明日あいつが来たら色々と難癖つけて手早く追い返しちまおう……! 『演技がなってない!』とか『ママはそんなこと言わない!』とか言って! そうだそうしよう!」
その時の拓也は、それが名案だと思っていた。
もうそれしかないと思い込んでいた。
何故なら彼は、甘く見ていたから。
莉子の秘めたるポテンシャルに、気付いていなかったから。
◆
◆
◆
「あ……あれ? マ……じゃなくて、い、一之瀬……か?」
「……?」
翌日、彼が玄関で見た少女は、彼の知る一之瀬 莉子ではなかった。
その姿は、生前の彼女……まさに拓也の母・優子の生き写し。
しかも―――
「なぁにたっくん。ママの顔になにか付いてる?」
「えっ!? あ、い、いや、べ、別に……」
「そう? うん、それじゃ……はいこれ」
「へ?」
「『へ?』じゃないよぉ。こ・れ、台所まで運んで? ね?」
「え、あ。う、うん……」
人懐っこそうな喋り方。
少し危なっかしい足取り。
そして……春の陽射しのように柔らかな笑顔。
見た目だけではない、その一挙手一投足、雰囲気までも絶妙に模写して見せている。
息子である拓也が、思わず差し出された買い物バックを持ってしまうほどの完成度で、彼女は『西山 優子』という役を仕上げてきていたのだ!
「ねぇたっくん、今日はなに食べたい?」
「は? あ……いや、な、なんでもいい、けど……」
「そう? じゃあ、たっくんの大好きなオムライスでいい?」
「えっ!? な、なんで―――」
『なんで俺がオムライスが好きだってことが分かったんだ?』
拓也は振り向きながらそう訊こうとして、慌てて口を噤んだ。
危なかった。
これを訊いてしまったら、墓穴掘りも甚だしい。
母親なら、息子の好きな料理くらい把握していて当然。
それは言い換えれば、拓也の好物を把握している女性は、西山 優子以外に存在しないのだ。
拓也が迂闊な質問で暗にそれを肯定してしまえば、この『ママごっこ』の流れは確実に莉子が掌握することになっていた。
それだけは避けねばならない。
これ以上、拓也自身のテンションが上がるのを抑えるためにも。
「……悪いけどさぁ。俺、オムライスなんてガキ臭い食いモン、とっくの昔に卒業したんだよなー」
「…………」
思えば簡単なロジックである。
よくよく考えればオムライスなんてものは、とりわけ好き嫌いの少ない万人向けの料理ではないか。
好きか嫌いかで問われれば、誰だって好きと答えるような料理、ブラフとして使うなら最適なチョイス。
いいところ突いてきやがるぜ、一之瀬。
拓也は心の中でそう呟いてほくそ笑んだ。
「出来れば、もっとガッツリしたモン食いたいんだよな。育ち盛りだし―――」
、呟きながら、莉子のリアクションを確かめようと彼女のほうへ視線を移す。
その刹那―――
「あだっ!?」
唐突に額を襲う、軽い痛み。
デコピンである。
「なに言ってるの。ママから見たら、たっくんなんてまだまだお子様なんだから、変に大人ぶって生意気言わないの。分かった?」
「ってぇ……! な、なにしやがるんだよ!」
「もう。まーたそんな汚い言葉遣いして。誰に似たのかしらねー?」
「いでででっ! い、痛いっ! 痛い痛いっ!! み、耳がちぎれる! や、やめっ……!」
「ん~? 『ごめんなさい』が聞こえないよ~? たっくんは悪いことしても謝れないような悪い子なのかな~?」
「わ、分かった! 俺が悪かったっ! ご、ごめんなさいっ!!」
拓也は莉子によって引っ張られている自分の耳をかばうため、無理やり謝罪の言葉を搾り出される羽目になる。
もはや完璧に彼女のペースに嵌ってしまっていた。
「もうっ。最初からそうやって素直にしてれば可愛いのに」
「あっ……!」
莉子は拓也の手から買い物かばんをひったくると、目の前に見えていた台所に小走りで駆け込んでいった。
拓也はそこで初めて気付いた。
台所まで運べと言ってあの買い物かばんを渡したのには、ちゃんと理由があったのだ。
その理由とは、キッチンへの案内である。
主婦が自宅の台所の位置を把握していないなんて、不自然過ぎる。
しかし、莉子は拓也の家を訪れるのは初めてのこと。キッチンの場所など知る由もない。
ではどうする?
答えは簡単。
知っている人間に案内させれば良い。
そう……拓也はまんまと利用されたのだ。
彼女の演技を完璧なものにする為の、水先案内人として。
「くそっ……! まんまと一之瀬に乗せられちまった……!」
認めたくはないが、彼女の演技には既に口を挟む余地などない。
見た目や雰囲気だけではなく、母親と息子という“距離感”までも完璧に再現して見せていた。
あのデコピンや耳をつねる無遠慮なスキンシップこそ、親子の証。
悔しいが、認めざるを得なかった。
莉子の演技力を。
しかし、拓也はまだ負けを認めたわけではない。
勝負はまだ始まったばかりだ。
「たった1ラウンド取ったくらいでいい気になるなよ一之瀬……あの包丁で料理が出来るもんならやってみやがれってんだ! 第2ラウンドは、俺が貰うッ!」
拓也には勝算があった。
これから莉子は、台所で料理を始める。
そのとき必ず、あの包丁を手に取るはずだ。
自慢ではないが西山家の包丁は、酷い。
なにせ拓也の母・優子が死んでから一度も手入れらしい手入れもされず、缶切り代わりにされたり、レトルト容器を抉り切ったりと結構な無茶を強いられてきた。
そんなズタボロの包丁でなにが出来る?
あいにくだが彼のママは割と料理上手だ。
些細なミスすらも大げさに咎めて、今度こそ莉子の演技にケチをつける。
今の拓也の頭の中は、そのことでいっぱいだった。
◆
◆
◆
「んー……」
キッチンに立つ莉子はほんの少しだけ後悔していた。
西山家の台所事情を察して、食材から調味料まで一通り持参して来たまでは良かった。
案の定冷蔵庫は空っぽだったし、調味料に至っては長年放置されて硬化している有様。
拓也が普段どんな食生活を送っているかはゴミ箱を見れば一目瞭然だった。
コンビニ弁当、スーパーのパック寿司、半額惣菜、カップめん……
当然のことながら、そんな西山家の包丁は手入れなどされているわけもなく、錆びと刃こぼれが酷く切れ味が最悪である。
先ほどから食材が刃の上を滑って仕方がない。
こんなことなら、家から包丁も持って来れば良かったよ。
莉子は小さくそう呟こうとしたが、やめた。
何故なら今の彼女は西山 優子。
そんな台詞は似合わない。
気合で切り刻むしかない。
みじん切りだ包丁。
「た~まね~ぎ、目にしみて~も、なみ~だこらえ―――っ!?」
突如、指先に走る鋭い痛み。
切れ味の悪い包丁というものは、食材はろくに切れないくせに料理慣れしている人間の指は容易く傷つけるものである。
莉子のひとさし指も、その犠牲となった。
しかも、結構深く切ってしまった。
「っちゃあ……やっちゃったよ」
「おい一之瀬、どうした? ……!? お、おまえっ、指っ……!」
「あははっ、ちょっとドジっちゃった」
「笑ってる場合かよ! すぐ救急箱取ってくるから、傷口押さえとけよ!?」
まな板の白に広がる、朱。
とりあえず止血のために指を押さえてはみたが、血は静かに滴り続ける。
こうなってしまったら、お互いごっこ遊びなどしている場合ではない。
拓也も演技の粗探しなど忘れ、戸棚を引っ掻き回して救急箱を引っ張り出すのに躍起になっていた。
「よしっ! あったぞ! 一之瀬、傷口見せてみろ」
「えっ? だ、大丈夫だよっ、大した怪我じゃないし……舐めとけば治るって」
「いいから見せろ」
「もおっ、大袈裟だなぁ。そんなに怖い顔しなくても大丈夫だって」
「見せろ」
「…………」
「…………」
「……はい」
いつになく真剣な拓也に気圧されてか、莉子は恐る恐る血で汚れた指先を彼に差し出す。
拓也はその小さな手を、まるで雪虫を捕まえるかのように静かに触れ、引き寄せる。
「結構深く切ったな……」
「うん……ごめん」
「いいって。むしろあんなボロ包丁使って怪我しねーほうがおかしい」
「分かってるならちゃんと研ぎなさいよ」
「ん、まぁ……昔はママがよく研いでたんだけどな……」
「……そっか」
「…………」
「…………」
「……消毒液、少し染みるぞ」
「うん……」
傷口を洗うように流れる消毒液。
本当なら顔が歪むほどの痛みのはずだが、今の莉子にはそんなことはどうでも良かった。
拓也の、人間の……こんな悲しそうな表情を見たのは、初めてのことだった。
その、なんとも言えない後ろ暗い雰囲気に、吸い寄せられそうになる。
「……ごめんな一之瀬。こんな茶番に付き合わせた挙句に、怪我までさせちまって」
「なっ、なによそれ……あんたが素直だとなんか気持ち悪いし、そんな暗い顔で言われても全然嬉しくないわよ」
「あぁ……悪い。なんか俺っていっつも、一之瀬やママに迷惑かけてるなぁって思ったら、急にしょげちまってさ……」
「えっ……?」
莉子は、彼のその一言ですべてを察した。
拓也は今まさに、重ね合わせている。
指を切って血を滴らせている莉子と、自分をかばって命を落とした母親とを。
そして……落ち込んでいるのだ。
それは即ち、少年がまだ母の死というものに気持ちの整理がついていない証拠でもあった。
『そうだねー……もし理由があるとしたら、きっとあんたのお母さんと同じ理由だったのかもね』
あのときの莉子の言葉を、拓也は正しく理解してくれていなかったのかもしれない。
『一之瀬もママもお人好しだから、俺がドジっちまったから無我夢中でフォローしてくれたんだろ? だったら、俺が最初からしっかりしてりゃあ……』
きっと彼は、そんな理屈臭い結論に至ったに過ぎなかったのだろう。
男という生き物は大なり小なり、物事を論理的に整理したがる理屈屋である。
理屈屋だから、責任の所在を決めたがる。
そして拓也は、あのときの責を自ら背負い込み、延々と自分を責めて、無意識に自分を呪っている。
もうっ……
そんなの頭じゃなくて心で考えれば、間違いだってすぐ理解できるはずなのにっ……
なんて不器用なんだろう……
莉子はそんなことを思いながら、拓也の寂しげな瞳を見つめる。
彼はようやく血が止まった傷口に、丁寧に絆創膏を巻いていた。
優しい手つき。
それだけで、気負っていることが痛いほど伝わってくる。
なんとかしてあげたい。
諭してあげたい。
救ってあげたい。
癒してあげたい。
慈愛に満ちたそんな気持ちが、莉子の心を支配する。
そして、いてもたってもいられなくなり……衝動的に、手を伸ばす。
「……迷惑をかけてるのは、ママのほうだよ」
「え? う、うわっ―――」
次の瞬間、拓也は“なにか”に引っ張られてバランスを崩し、前のめりに倒れ込んでしまう。
そのうえ、状況がうまく飲み込めない。
視界が妙に薄暗いからだ。
ただ、いい匂いがする。
年頃の女の子独特の、甘い香り。
顔全体に感じるのは、確かに伝わってくる柔らかな感触と小さな胸の鼓動。
そして……じんわりと暖かなぬくもりを実感して、拓也はようやく気付く。
莉子に抱きすくめられている自分に。
「え? え???」
「たっくんは、本当に優しくて責任感の強い子だね。ママの自慢だよっ……♪」
「ちょ……っ!? い、いち……!?」
動けない。
顔が、頭が、莉子によってガッチリとホールドされている。
後頭部を優しく撫でながら、彼女はあやすように語りかけてきた。
「ごめんねたっくん……ママのせいで、たっくんにこんな悲しい思いをさせちゃって……ぐすっ、ごめんねっ」
「……お、おまえっ、泣いて―――」
ふいに拓也の頬に落ちる水滴。
それは、彼女の涙。
演技などではない。
莉子の心の震えが産み落とした、熱を帯びた涙。
彼女は、こう考えていた。
あたしが優子さんだったら、どう思うだろう?
命を投げ打ってでも助けたかった最愛の一人息子が、自分のせいでずっと苦しんでることを知ったら、彼女は……優子はどうするだろう?
その答えが、これであった。
抱きしめて、ただひたすら愛を囁く。
そんな母性的な愛情に、莉子は激しく共感出来た。
心が震えた。
目の前の坊やを、情熱的に抱きしめずにはいられなかった。
「本当は、もっとたくさん、たっくさん……たっくんの側に居たかったのに、居てあげたかったのに……。もっともっと、たっくんに愛してあげたかったのにっ……。ごめんねっ……わたしなんてっ、ママ失格、だよねっ……」
「……っ!」
彼女に謝られる度に、拓也の良心が痛む。
彼は未だに、母親の死をひきずっている。
自分のせいで母が死んだと解釈し、自分を責め、自分を呪っている。
しかし、泣きじゃくる莉子を目の当たりにして、気付いてしまった。
そんな後ろ向きでは、いつまで経ってもママが浮かばれないことを。
ママはおっちょこちょいでドジなくせに責任感だけは強い人だった。
そんなママが今のしょぼくれた俺を見たら、きっとこんな感じで自分を責めて泣き出すんだろうなぁ。
そう思いながら、拓也は莉子を抱きしめ返す。
今、彼の腕の中にいる彼女は、もはや西山 優子を演じている少女ではない。
言うなれば、彼女の代弁者。
故に拓也も伝えなくてはいけない。
応えなくてはいけない。
優し過ぎる彼女へ……
「バカだなママは。俺はあんたからとっくの昔に一生分の愛情を貰ってるんだ。……まぁ、一時期は気持ちの整理がつかなくて色々と暴走しちまったけど、もう大丈夫だ」
「……本当に?」
「ああ、本当だ」
「じゃあ……っ、もう自分を責めないでね? たっくんは悪くないんだからっ……ね? 約束だよ?」
「分かってる、分かってるよ。……今更だけど、分かったんだ」
後悔や悔恨は、決して悪いことではない。
しかし、いつまでも過去に縛られ、引きずりながら生きるべきではない。
過去は延々と引きずるものではない。
しっかりと向き合い、そして……乗り越えるべきものなのだ。
乗り越え、己が精神の糧とし、成長し、前を見据えて生きること。
きっと、それこそが亡き優子が拓也へ寄せた想いだったのだ。
かげがえのない愛すべき我が子の幸せと心の安泰を願うのは、母として当然である。
だが、莉子はどうだろう?
いくら単純で情にもろい性格とはいえ、他人のために涙を流してまで、こんな臭い演技が出来るものだろうか?
……いや、出来る。
彼女自身言葉には出さないし、自覚すらしていないが……莉子は惹かれつつあったのだから。
拓也の……不器用ながらも母親譲りの優しさを持ち合わせた、その人柄に。
◆
◆
◆
「どう? 美味しかった?」
「…………」
「ちょっと、美味しかったかどうか聞いてるんだけど?」
「……不味かったら『不味い』って言うだろ。つまりそういうことだよ、それくらい察しろよ」
ぶっきらぼうに言い放つ拓也。
莉子の手料理が美味しかったか如何かなど、ご飯粒ひとつ残されてない皿を見れば一目瞭然であろうに。
「むー、なによそれー。可愛くない」
「可愛くなくて結構。むしろいい歳の男が可愛く見えたら逆に不気味だろ」
「そんなことないわよ? 素直なたっくんはあんなに可愛かったもの」
「ぶっ!? も、もうそれは忘れてくれよ……」
「えー? なんで? ひょっとして照れてる?」
「ばっ……! ち、ちげーよバカ!」
拓也は少し前に晒した自分の醜態を思い返して赤面する。
いくら莉子の演技に感化されたからといっても、さすがにアレは恥ずかし過ぎた。
それに比べて、莉子のほうはあっけらかんとしている。
演技だからと割り切っていたのか羞恥心というものが存在しないのかは定かではないが、それだけで拓也はなんだか負けた気がした。
いや、実際のところ完敗なのかもしれない。
演技の粗を咎めるつもりが指の怪我を心配して慌てたり、彼女の涙に同調して我を忘れてペースに乗せられたり。
おそらく、惚れた弱みというやつも関係しているのだろう。
「さて、西山に一泡吹かせたことだし……そろそろお暇しようかなぁ。あんまり長居しても悪いしね」
「あ? まだそんな時間じゃないだろ? ゆっくりしていけよ」
時計の短針はすでに、9時を指そうとしていた。
恋仲でもない年頃の男女が一緒に過ごすべき時間ではない。
莉子の判断は正しい。
それに彼女はもう、やるべきことをやり遂げたのだ。
演技も完璧だったし拓也の心の棘を抜いてあげることも出来た。
なにか忘れているような気もするが気にしない。
今日はこの達成感を胸に抱いて眠ろう。
きっといい夢が見れる。
莉子はそう思っていた。
「なに言ってんの。そろそろ家族の人とか帰ってくるんじゃないの?」
「安心しろ。ウチの親父は勤め先で寝泊りしてばっかりだからほとんど帰らない。たぶん今夜も……」
「あはは。それ逆に安心出来ないんだけど」
「へぇ、一応俺のこと……男って意識してくれてるんだな」
「う。ま、まぁ、いちおう……」
会話の流れが妙な方向へ流れていく。
それに呼応するように、ゆっくりと莉子に近付く拓也。
莉子はその段階で、気付くべきだった。
彼が、莉子の退路を断つ立ち位置にさりげなく移動していたことに。
彼の眼が、獲物を狙う獣の眼になっていることに。
もっと早く、気付くべきだった。
「そうか……なら、まだ望みはあると思っていいんだな?」
「え? え? あ、あんたさっきから……なに言ってるの……?」
「ったく……おまえは変なところで頭が回るくせに、こっち方面はからっきしなんだな」
「えっと、ごめん西山。そのっ、ホントにもう帰らなくちゃいけないからっ……そこ、どいて欲しいんだけどっ……」
「そんなこと言われて、素直に退く男がいると思うか?」
「なっ!? ちょ、ちょっ―――! に、にしやまっ!?」
突然の抱擁。
先程とは逆。
拓也が莉子を、抱き寄せたのだ。
しかし、雰囲気は莉子がやってみせたような慈愛に満ちたものではない。
腰をきつく抱き寄せ、明らかに性愛の情に溢れた抱擁。
そんな情熱的なハグを前に、さすがの莉子も顔が熱くなる。
もちろん、この程度の拘束なら強化で容易く振り解ける。
数秒遅れでそれに気付いた莉子は、慌ててそれを試みようとする。
しかし、そんな彼女の内心を知ってか知らずか、拓也はその耳元で……決定的な一言を囁く。
「好きだ。一之瀬……俺と、結婚してくれ」
「……え?」
その瞬間、莉子の頭の中は真っ白になった。




