9
莉子と亞璃紗。
視線が交錯し合うふたりの間には、何人たりとも介入出来ない“壁”があった。
常人ならば圧し負けてしまいそうなほどの緊張感と殺意。
その渦中で、ふたりの戦士は獲物を構えたまま微動だにしない。
時間だけが……ゆっくりと過ぎる。
「あははっ! 亞璃紗っ? 来ないの? 来ないのっ!? ……だったらあたしからッ!!」
「ッ……!」
先に仕掛けたのは、莉子。
亞璃紗ほどではないが、加速による素早いフットワークで急接近。
間髪入れずに自分の身の丈ほどもある大剣を斜め左上に斬り上げるように、振り抜く!
まるで台風のように巻き起こる旋風。
薙ぎ倒される樹木。
その風圧は、距離を置いて様子を伺っていた雪と拓也にも襲いかかる。
「うわっ! す、すげぇ風だッ……! まるで嵐みてぇだ!!」
「っ……!? 待って……、剣 亞璃紗が……いない……!」
「なに!? くそっ! さっきの一撃でやられたのか!?」
……違う!
亞璃紗は回避していた。
莉子の一閃をかわし、誰もが予想だにしない場所へと退避していたのだ。
その場所とは―――
「ふふふっ♪ こちらですわよっ、莉子っ♪」
「ッ!?」
亞璃紗が軽やかに佇んでいたのは、なんと莉子が手にする……大剣!
攻撃がヒットするその瞬間、その刹那的一瞬に跳躍し、刃先へと飛び乗っていたのだ!
そんな曲芸まがいの神業をこなしたというのに、彼女の表情たるや如何だろう!
笑顔!
まるで高原のそよ風を愉しむ令嬢のような、涼しげな笑顔!
白銀のブレイドを月明かりに煌かせて微笑むその姿は、一枚の絵画のように麗しく、凛々しい!
「今一度、貴方にお見せ致しますわ……剣流剣術・暗殺剣! 『彼岸花』っ!!」
叫び、足蹴にしていた大剣を……蹴る!
放つのは空気を斬り裂く神速の突き!
その切っ先が狙うは無防備に晒された莉子の……頚動脈!
すれ違いざまに相手の首筋を突き裂くこの絶技、過去に二度受けた者はひとりたりとも存在しない。
なぜならこの技は、相手を確実に殺害たらしめる一撃必殺の暗殺剣なのだから。
「今回は手加減はしません……いいえ、貴方の強化を抜くには、手加減なんてしてられませんわっ!」
目視不可能な神速。
予想外の位置からの強襲。
誰もが勝負の決着を確信した。
「あはっ♪ あっそ♪」
しかし、それでも莉子は……亞璃紗の一撃を、ヒラリとかわした。
ほんの数センチだけの、僅かな体重移動。
だがそれは、繊細な一撃を凌ぐには十分過ぎる回避挙動であった。
「なっ……!?」
「あははははっ!! その技は一度見てるッ! あたしに二度目は通じないよッ! 亞璃紗ッ!!!」
そう……莉子は一度、この『彼岸花』を食らっている。
故に、身体が憶えていたのだ。
この技特有の癖、発動から攻撃までのタイムラグ、その残心さえも!
「やばい! カウンターが来るぞブレイド! 避けろ!!」
「っ!?」
「あはははははははっ!! 飛んじゃえっ!!」
莉子は亞璃紗の動作の限界点、足が止まったその瞬間を見極める。
そして……上体を捩るように横薙ぎの攻撃を、繰り出す!
「ぐッ!? あッ……!」
莉子の大剣と亞璃紗のブレイドが衝突し、削られた精神的断片が粉雪のように舞い散る。
咄嗟のガードが間に合ったおかげで、致命傷は免れた亞璃紗。
……だが、その身体は衝撃で舞い上がり、遥か後方へと吹き飛ばされる。
その終着点に待ち受けるのは、花崗岩造りの雪見灯篭。
強化を持たない亞璃紗がそんなものに激突などしたら、それことひとたまりもない。
しかし、すんでのところでそれを阻止したのは……精神エネルギーで縒られた鋼線によって形成された網。
それがクッションの役割を果たし、亞璃紗を包み込む。
「っ……! こ、これは……秘めたる鋼の片想い……?」
「……これで借りは返したわよ? 剣 亞璃紗……」
「あ、ありがとうございますっ……助かりましたわ」
「……ふんっ」
亞璃紗の安全を確認した雪が、小さく鼻を鳴らしてそっぽを向く。
彼女はこの吹き飛ばし攻撃を予見し、至る所にこのような網を張り巡らせていたのだ。
おかげで亞璃紗は、最小限のダメージを受けるに留まる。
「あはっ♪ 休んでる暇なんて無いよっ! 亞璃紗っ!」
しかし、狂戦士と化した今の莉子には、亞璃紗が体勢を立て直す時間を与える気など1ミクロンたりとも無い。
既に高速追撃の体勢に入り、亞璃紗めがけて駆け出していた。
「おおっと! 俺を忘れてもらっちゃ困るぜ一之瀬ッ!!」
「ちっ……! 西山ッ……!!」
だが、そう簡単に追撃が通るほど甘くはない。
何故ならこれは、タイマンではないのだから。
莉子の進行方向に立ち塞がったのはシザーハンズの西山 拓也。
展開した左腕の大鋏型精神武装で、彼女のチャージをなんとか受け切る。
「ちょっと西山ッ、……あたしの邪魔、しないくれるッ!?」
「ぐっ!? な、なんつーパワーだ……ッ! 押し返される……ッ!!」
だが、その馬力には絶望的なまでの差がある。
拓也は悔しかった。
腕力には自信があった筈なのに、こんな小柄な少女に力負けしている。
精神異能者としての資質の差……それをまざまざと見せ付けられているような気がした。
「あははっ♪ ほらほらぁ、あたし片手しか使ってないよ? ん? もうギブ? それでも男の子なの? くすっ、なっさけなーい♪」
「くッ……! ちきしょう……ッ! だったらこれでどうだッ!!!」
拓也は一喝すると、シザーハンズの爪を大きく展開。
怪物顔負けの蟹鋏が、莉子の携える大剣をガッチリと挟み込んだ!
そのまま莉子の精神武装を、ペンチでカッターの刃を折る要領で……抉り折ろうとしているのだ!
「一之瀬ッ! いい加減目ェ覚ましてくれ!!」
ありったけの力を込めて、左手を捻り込む拓也。
莉子と共闘したあの日以来、拓也のシザーハンズも精神的亢進を経てより一層武骨でたくましくなった。
そのシザーハンズが、急造精神武装に後れを取るわけがないと、どこかでタカをくくっていた。
このままもう少し捻ってしまえば、暴走の元凶である精神武装を破壊できる。
拓也はそう確信していた。
……だが。
「い・や・よ♪」
「ぐっ!? がッ!! そんな……ッ! お、折られたのは、お、俺のシザーハンズ……だと!?」
そう……叩き折られたのは、拓也の精神武装・シザーハンズ。
莉子の圧倒的な強化の前では、彼の精神武装は……あまりにも無力であった。
「あはっ♪ だってあたし、まだまだ暴れ足りないものッ!!」
「ぐあっ!!」
「っ!? あぐっ……!!」
子供のような無邪気で無慈悲な笑顔で、莉子は大剣を振り抜く。
その一撃は、拓也すらもゴム人形のようにぶっ飛ばし、その延長線上にいる雪へと彼をぶつける。
雪も咄嗟に自身の眼前に秘めたる鋼の片想いの網を展開して緩衝材とするも、拓也はそれを容易く突き破り正面衝突。
人と人がぶつかり合う鈍い音とともに、動かなくなるふたり。
「あーーーっはははははははははははははっ♪ すとらーいくっ!」
莉子はそれを見て、狂ったようにけらけらと笑う。
そんな狂気に満ちた彼女を、同じく狂気を孕んだ笑みで見据える……亞璃紗。
「くすくすっ、莉子……素敵っ、素敵ですわっ♪ 今の貴方なら……わたくしが本気でじゃれ付いても大丈夫そうですわねっ♪」
「へぇ……? あれで本気じゃなかったの? なにそれ? 出し惜しみ? そういうのムカつくんだけど」
「ご心配なく。これから貴方に見せるのは、正真正銘本気のわたくし……誰にも見せたことの無い神速の更に先、名付けて“韋駄天モード”ッ!! とくと味わいなさいっ!!」
「ッ!? ま、また消えた……!?」
いや、亞璃紗は消えたのではない。
動体視力の限界の更に先。
人間の知覚が及び届かない速度に達しただけだ。
そして、莉子の頬を撫でる一陣の風。
その風が過ぎ去った刹那、莉子は突然崩れ落ちる。
「なッ!? う、うそ……あたし……ッ! いつの間に斬られ―――」
「……莉子? わたくしも驚いていますのよ? まさか韋駄天モードを使う日が来るなんて、思いもしませんでしたから」
気付くと亞璃紗は、莉子の遥か後方に佇んでいた。
まさに一瞬の出来事。
人智を超えた超神速と化した亞璃紗は、すれ違いざまに莉子の身体を計22回に渡って斬りつけていた!
強化によって防御力が激増しているとはいえ、幾重にも浴びせられた斬撃は致命的なダメージとなっていた。
しかし……技を繰り出した亞璃紗も無事では済まない。
精神力の消耗はもとより、無理な機動による筋組織の断裂が著しかった。
「う……ぐ……ッ! ……あはっ♪ 亞璃紗ったら……こんな大技を隠してたなんて、ずるいじゃない……ッ!」
「……まだ、続けますの?」
「そんなの、あったり前じゃない。せっかく面白くなってきたってのに……さッ!!」
「えっ……?」
莉子は嬉しそうな口調と共に、姿を消す。
まるで先ほどの亞璃紗のように。
「う、そ……莉子、あ、貴方……ッ! まさか―――」
「今度はあたしの番ッッッ!!!」
「くっ!!」
気付いたら莉子は、風となっていた。
不完全で不安定ながらも、それはまさしく先ほど亞璃紗がお見舞いして見せた韋駄天モード!
加速の限界点まで加速させることによって初めて成せる亞璃紗独自の高速移動術。
盗まれた。
韋駄天モードを。
たった一度、見ただけで。
なんという観察眼。
なんというバトルセンス。
「あはははははははっ!! 加速はッ!! あんたの専売特許じゃないわよッ!!」
「ッ! ぐっ!! っ……! ふふっ、本当……産まれてくる時代と性別を間違えてましたわね。貴方も、わたくしも……ッ!」
まるで早送り再生のような不自然な素早さで大剣を縦横無尽に振り回す莉子。
その攻撃を丁寧に捌きながら、それでも亞璃紗は微笑んでいた。
莉子の太刀筋のひとつひとつが、死への特急券。
それをギリギリのタイミングで受け流す毎に、生への感謝と喜びが溢れ出し、亞璃紗の身体を駆け巡る。
分泌され続けるアドレナリンに、脳が溺れる。
楽しい。
ただただ楽しい。
ずっとこうしていたいとさえ思ってしまう。
何故なら彼女は今、満たされていた。
ろくな脅威が存在しない退屈な日々では体験できなかった、生と死の狭間で揺れ動く激闘。
それを全身で味わうことによって、彼女の祖先が連綿と受け継いできた戦闘狂のDNAが、歓喜のおたけびを上げてむせび泣いていたのだ。
「ローマは一日にして成らず! 貴方の付け焼刃の加速ではっ! わたくしの韋駄天には勝てませんわよっ!!」
「あはっ! だったら勝負してみる? 持てばいいけどね! あんたのそのボロボロの身体がッ!!」
「望むところですわっ!!!」
競り合うように、亞璃紗も韋駄天モードを発動。
猛烈な旋風が、吹き荒ぶ。
純粋なスピードにおいて莉子を圧倒する亞璃紗のブレイド。
対する莉子は、劣っている速度をパワーで補う加速と強化の複合型。
毛色の違うふたつの風が、弾けて混ざり、せめぎ合う!
刃と刃がぶつかる度に、白銀色の精神的断片が粉雪のように舞い散る。
その飛沫は、莉子の超硬質の大剣型精神武装に、亞璃紗のブレイドが削り取られている証拠だ。
亞璃紗も負けじと閃光のような斬撃を一太刀、また一太刀と莉子の肉体にヒットさせる。
まさに消耗戦。
莉子と亞璃紗は、お互いにお互いを削り合うことに熱を上げていた。
水のなかで氷塊が溶けていくように。
口のなかで飴玉が溶けていくように。
しかし、亞璃紗にとって血沸き肉踊る尊くも楽しいひとときが長続きするわけもなく……幕引きの時は突然訪れた。
「あはははははっ!! そらそらそらぁ!! ッ……!?」
「莉子っ……! さっきからその子ばっかりっ……! わたしだって―――」
それは、一瞬の出来事だった。
めまぐるしく躍動する莉子の背を狙って、飛び込んだのは……霧島 雪!
脚部が大きく欠損した精神武装・蜘蛛女を大きく広げ、獰猛に襲い掛かる!
圧倒的な力量差があるにも関わらず、彼女は莉子に迫る!
何故か!?
その理由は、至極単純にして歪であった!
先ほどまでの莉子と亞璃紗の闘い……それが雪の目には、莉子が亞璃紗ばかり構っているように映っていたのだ!
嫉妬心!
醜くもいじらしい、嫉妬心!
そのどす黒くも熱く燃え上がる嫉妬の炎は、正常な判断力さえも焦がし尽くしていたのだ!
「雪……ッ! いいところでしゃしゃり出てきて……あんたじゃ役不足なのよッ!!」
「きゃあっ!!」
突然の乱入者に対応しきれず、わずかに体勢を崩しながらかろうじて大剣の峰で雪を弾き飛ばす莉子。
そこに、隙が生まれた。
まばたきしていたら見逃してしまうほどの、一瞬の隙。
莉子の手元が。
大剣の柄を握っている莉子の手元が、僅かに緩んだ。
「見えたっ!! そこですっ!!!」
その一瞬のチャンスを、亞璃紗は逃さず掴んだ。
渾身の力を込め、今持ち得る限りの精神と肉体の限界を超えた、最強最速の一閃を……放つ!!
「剣流剣術・瞬殺剣ッ! 『白魔跳刃』ッッッ!!」
「ゃっ!? ッ……! ああああああアアアアッ!!」
全身のバネを駆使した強烈な斬り上げ。
瞬殺剣『白魔跳刃』。
本来この技は、相手の股下から脳天にかけて文字通り両断することによって瞬時に絶命たらしめる、惨忍無比な殺人剣である。
しかし、亞璃紗はこれを莉子の手元……大剣の柄部分を狙って放った。
剣術の修練を積み重ね、精神武装を研ぎ澄ませ、加速を極限まで練り上げた一撃。
その衝撃をモロに浴びた大剣型の精神武装は、彼女の手を離れて天高く舞い上がった。
莉子を暴走させていた禍々しき狂気の塊が……まるで呻くような風切り音をあげながら舞い上がった。
「う……ッ、あ、……あり、さ……? あ、あた……あたし……?」
莉子の目に、正気が戻る。
殺人衝動を放っていた精神武装を手放した莉子は、ようやくその呪縛から解放されたのだ。
しかし、心身共に消耗の激しいその身体は、立つことすらままならず力無く崩れ落ち―――
「ふふっ♪ 捕まえたっ♪」
―――そうになったところを、亞璃紗が抱き支える。
今まで悪鬼の如く暴れ回った莉子。
雪を、拓也を、亞璃紗を殺そうとしていた莉子。
そんな莉子の、抱き心地。
3日ぶりの感触。
ほんの少し離れていただけなのに、亞璃紗にはひどく久方ぶりに思えた。
その小柄で柔らかな感触。
その心地のいい触り心地。
亞璃紗の顔が……自然と緩む。
「ごめん亞璃紗っ……あたし、止められなかったっ! ぐすっ、止められなくてっ、みんなをっ……! 雪も西山も、亞璃紗も……っ! いっぱい、いっぱい傷つけちゃったっ……!」
「もう……莉子ったら、早合点しないでくださいな。霧島 雪も西山君も……もちろんわたくしも無事ですわよ? ……ほら」
「……えっ?」
「へっ! ナマ言ってんじゃねーぜ一之瀬! この俺があの程度で潰されるわけねーだろ! ほれっ! 蜘蛛女だってピンピンしてらぁ!」
「莉子っ……わ、わたしもっ、大丈夫だからっ……。……って、ちょ、ちょっとっ……! 男のくせにわたしに気安く触っ……痛ったた……」
亞璃紗が指す方向に目を向ける。
そこにはボロボロになりながらも親指を立ててはにかむ拓也と、彼に支えられてかろうじて立ち上がる雪の姿があった。
ふたりとも、精神崩壊は起こしていない。
見る限り、身体のほうも大丈夫そうだ。
「あ……っ、よ、良かっ―――」
それを視認した莉子は、安心感からか一気に脱力し……気を失った。
亞璃紗の腕のなかで。
まるで糸の切れた人形のように。
「まったく……本当に世話が焼けますわね。わたくしの大事な人は……ふふっ♪」
そして……それを確認した亞璃紗にも、どっと疲労が押し寄せてきた。
当然だろう。
雪との闘いで消耗していたうえに、この激闘である。
本来ならばとっくに倒れてもおかしくないほどの精神的・肉体的消耗。
亞璃紗はそれを、沸き起こる闘争本能とプライドで強引に抑制していた。
その反動が、今になってやってきたのである。
「でも、これで一安心……ですわねっ……」
そう呟くと亞璃紗もまた、その意識を―――深いまどろみの世界へ、沈ませていった。
あとに残ったのは度重なるサイコバトルで荒れ果てた和風庭園と、同じく満身創痍となった四人の少年少女。
そして……遠くから微かに聞こえるヤクザと警官隊が織り成す乱痴気騒ぎの狂想曲だけであった。




