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「だぁ~……し、しんどい……」
教室の片隅で、莉子はぐったりと机に突っ伏していた。
そんな彼女の姿は、学校ではさして珍しいものではない。
体育の授業の後や5時限目辺りになれば、どの教室でも見受けられる。
しかし、朝のホームルーム前の教室で電池切れを起こしている生徒となると、そうはいない。
別に、メイドとしてこなすべき朝の業務内容は大した労働ではない。
しかし、莉子は亞璃紗専属メイドである。
なにかしようとする度に、亞璃紗が猫のようにじゃれついてくる。
挙句の果てには「学校なんて行かないで」などと言って引き止めてくる始末。
正直、潤んだ瞳で見つめられて決意が揺らぎそうになった。
遅刻ギリギリまで、亞璃紗の頭を撫で続けた。
しかし、最後は心を鬼にして亞璃紗の手を振り払い、なんとか猛ダッシュで学校までの道のりを駆け抜け、現在に至る。
「莉子……大丈夫? なんだか疲れてるみたいだけど……」
「あー雪、おはよ……」
溶けたスライムのようになってる莉子を心配そうに見下ろす雪。
そんな雪に対して、莉子は右手をぷらぷらと振って挨拶をする。
「……なにか、あったの?」
「いやね、ちょっとアルバイト的なのを始めたんだけどこれが結構大変でさー。毎日こんなんじゃ、身が持たないよ……」
「……アルバイト?」
「そ。まぁウチの学校はバイトには寛容っぽいし、社会勉強にいいかなーって」
「そっか……バイトだったんだ。ならしょうがないよね。メール、全然返してくれなくても……」
「え……? ……あ゛っ!?」
しょんぼりする雪を見て、慌てて携帯を鞄から取り出す。
履歴を見ると、そこには雪からのメールがびっしりと記録されていた。
『いまなにしてるの?』
『莉子?』
『りーこー』
『返事まだ?』
『まーだー?』
『へんじはよ』
『おい』
『はよしろカス』
『紀伊店のか』
『貧乳』
『洗濯板』
『寝てるの?』
『ねぇ』
『返事くださいお願いします』
「あのー……雪さん?」
「……わたし、悪くないもん」
莉子は怒りを必死にひた隠しながら、雪のほうを見る。
雪はふてくされたようにそっぽを向きながらぶっきらぼうにそう呟いた。
「ま、まぁ確かに、返事返せなかったあたしが悪いんだけどさ」
「そうだよ……無二の親友が心配してメールしてるってのに、酷いよ……」
「ううっ、ごめん……」
雪がメールラッシュをかけてきたその時間……
莉子はちょうど、亞璃紗とサウナルームで大立ち回りを演じていたのだ。
悠長にメールなど返していられる状況ではなかった。
とはいえ、2日連続で雪からのメッセージを無視してしまったのは事実。
その事実は、莉子の心に小さな罪悪感を生む。
「まぁ、反省してるならいいけど……あれ? ……?」
「ゆ、雪?」
言葉の途中、雪はなにを思ったのか不意に莉子のほうへ顔を近づける。
何事かと動揺する莉子。
だが、そんな彼女のことなど気にも留めず、雪はまるで犬のように莉子の首筋にすり寄る。
「くんくん……莉子、なんだか変な匂いがする」
「え? あたし、そんなに汗臭い?」
「ううん、汗の匂いは別にいいの……それに混じって、なんだか莉子っぽくない匂いが……」
「あ、あたしっぽくない匂いって、なに……?」
「ん……なんだろこれ。薔薇? ローズヒップかな?」
「ローズヒップ? なんであたしからそんな小洒落た匂いが……っ!?」
莉子は改めて自らの身体に付いた匂いを嗅いで硬直した。
その芳香は紛れもなく、“彼女”の匂い。
「……莉子?」
「あ、あははっ! な、ななな、なんの匂いだろうねーこれー!」
なんの匂い?
決まっている。
それは、紛れもなく彼女……剣 亞璃紗の匂いだ。
幾度となくすり寄られ、莉子の身体にはすっかり彼女の匂いがマーキングされていたのだ。
「なんか、猫飼ってる人の気持ちがちょっとだけ分かった気がする……」
「猫……?」
「あはは……こっちの話」
愛想笑いをしながら、莉子はごまかすようにぱたぱたと手を振った。
自分の与り知らないところで猫呼ばわりされているとは、当人である亞璃紗は知る由もないだろう。
「莉子っち~、雪嬢~、おはよ~」
「あ、悠馬。おはよ」
「……おはよう、八字原さん」
「そんなことより莉子っち、大変だよ~」
「大変?」
「……八字原さん、一体なにが大変なの……?」
ちょうど話題をはぐらかしたいと思っていた時にタイミング良く現れたのは、噂話大好きなクラスメイト・八字原 悠馬。
その口調のせいでちっとも大変そうに見えないこともあってか、莉子と雪は困惑の色を隠せない。
「えっとね~、えっとね~」
「転校生だよ! てんこーせー! 転校生がウチのクラスに来る系なんだよ!」
「……転校生?」
悠馬を押し退けてまくし立ててきたのは彼女の双子の兄・龍馬。
一方、自分の言葉を遮られた悠馬は不機嫌そうに龍馬を睨み付ける。
「兄貴うっざ~。キモイからあっち行っててよ~」
「はぁ!? 俺が掴んだネタをひけらかしてるおまえのほうがよっぽどウザイ系じゃね!?」
「掴んだ? 職員室の前で偶然立ち聞きしただけでしょ~?」
「ちょっとタンマタンマっ! 仲良しなのは分かったから兄妹喧嘩はよそでやってよっ!」
「仲良くないし~!」
「仲良くないっつーの!」
仲良しじゃん。
莉子はそう思いながら、『転校生』というフレーズに嫌な予感をビシビシと感じ取っていた。
どうしてこの時期に転校生が?
ベッドタウンでもないこんな寂れた地方都市の学校に?
莉子の脳裏を真っ先によぎったのは、“彼女”の顔。
……いやいや、いくらなんでもそれはないでしょ。
だって、あの子はまだ中2だし、いくらセレブお嬢様だからってそんな無茶な真似は―――
◆
◆
◆
「剣 亞璃紗と申します。皆様、よろしくお願いしますっ♪」
した。
真新しいセーラー服に身を包み、涼しい笑顔でさらりとやってのけた。
そして、人当たりの良さそうなお上品な笑みを振りまいている。
「ミンナ ナカヨクスルヨウニネ」
よく見ると、担任の竹岡先生が死んだ魚のような目になっていた。
当然だろう。
わけのわからないうちに、政財界を席巻する大財閥のご令嬢が自分の教え子になったのだから。
ストレスとプレッシャーと恐怖で心が折れてしまったのだ。
かたや、クラスの男子共はといえば気楽なものだ。
「うおおおーーーーっ! きたきたきたぁーーーーーっ! 美少女転校生っ!!」
「神様ありがとうございますっ……! ありがとうございますっ……!!」
「この学校で! このクラスで良かったーーーーっ!!」
「ほーっ! ほあああーーーーっ!!」
あちこちで指笛と奇声が乱れ飛ぶ。
なかには机の上でブレイクダンスを始める奴まで現れる始末。
その混沌の渦中でもなお、亞璃紗の視線はひとりの少女にのみ向けられていた。
亞璃紗の見下すようなその視線、嗜虐的なその笑顔……
粘着質な欲望に満たされた彼女と目を合わせて、莉子は初めて悟った。
『この子……! あたしの反応を見て楽しもうとしてる……!』
莉子の背筋に悪寒が走る。
その目は、莉子が再三に渡って見てきたドSお嬢様の目そのもの。
『ほらほらっ、驚きましたでしょう? もっと無様に困惑してくださいな♪』
そう呟く彼女の心の声が聞こえるようだった。
もちろん、彼女の嗜虐心を満たしてやる義理などない。
口をへの字に結んで、莉子は亞璃紗をジッと睨みつける。
莉子の険しい視線に、亞璃紗は若干動揺する。
が、すぐさまニヤリと悪戯っぽく微笑み返してきた。
それは間違いなく、なにかろくでもないことを思いついた時の表情。
莉子がそれに気付くよりも速く、亞璃紗が動いた。
教壇を降り、席を縫って、莉子のほうへと接近する。
そして―――
「先生? この席……空いてますわよね?」
そう言って亞璃紗が指差したのは、莉子の隣にあたる席。
しかしそこは明らかに空席ではなった。
「ええっ!? いや、えっと……こ、ここ、僕の席なんだけど?」
「カトウ ツルギニ セキヲ ユズッテアゲナサイ」
「はぁ!? なんで!? いくら転校生だからってそりゃないよ先生~~~~!!」
よしいいぞ加藤。
そのままゴネろ。
ゴネて亞璃紗を寄せ付けるな。
莉子は加藤を横目で見やりながら、心の中でそうエールを送った。
「お願いします加藤さん……わたくしにその席、譲ってくださいっ♪」
「おふぅ!? ど、どどど、どうぞどうぞ! い、椅子が冷めないように暖めておきましたから! ささっ! どーぞ!!」
「うふふっ♪ ありがとうございますっ♪」
保護欲をそそられる亞璃紗のおねだり攻撃に、あっけなく轟沈する加藤。
かくして莉子の右隣の席は、亞璃紗領と化した。
加藤、弱っ!!
バカかアンタは!!
そんなあからさまな猫なで声に陥落してんじゃないわよ!!
もっと根性見せなさいよ!!
アンタのせいで亞璃紗があたしの隣にうわあああすっごい笑顔だしこの子!!
めっちゃツヤツヤしてるし!!
どんだけあたしの隣に座りたかったのさ!!
心の中で、莉子はしこたま絶叫した。
「ど、どういうつもりよ亞璃紗っ……! 学校にまで押しかけてくるなんてっ……!」
「……ダメ、でしたか?」
「うっ……! だ、ダメ……じゃ、ない……けどさっ……」
「くすくすっ♪ そう言って頂けると確信してましたわっ♪」
まるで雨に濡れた子猫のような瞳で見つめられ、ついつい語気が緩んでしまう莉子。
なんと言っていいやら困り果てている莉子を見つめながら、亞璃紗はとても楽しそうに微笑んできた。
「学校でもずーっと一緒ですからねっ♪ 莉子っ♪」
「ううっ……もう好きにして……」
もはや勝てる気がしなかった。
微かに鼻腔をくすぐる薔薇の香りに。
なりふり構わないパワフルさに。
小悪魔的なその魅惑の笑顔に。
時折見せる反則的な儚さに。
おそらくこの子とは長い付き合いになるだろう。
莉子はそんなことを考えながら、彼女の深く青い瞳を見つめていた。




