プロローグ
少女は走っていた。
肩まで伸びたセミロングの髪をたなびかせ、夜の街を全速力で走っていた。
「ううっ、どうしてあたしがこんな目に……!」
彼女の数メートル後方には、彼女と同じ年頃の少年。
すれ違う人々の目には、二人の若者による青春あふれる追いかけっこのように写るだろう。
しかし、彼女には少年の左腕が凶器にしか見えなかった。
人の腕とは明らかに違う造詣……そう、例えるなら少年の左腕は、大きなカニのハサミ。
刃渡りは少なく見積もって60センチ以上。肉厚で禍々しいその大鋏は、少女にしか観測するこが出来なかった。
そんな凶悪な左腕を見ていて、少女はふと手がハサミになった男が主人公のB級の恋愛映画を観たことを思い出す。
「も、もしかしたらあたしが心を開いて接すれば、仲良くなれるかも……」
なんて陳腐なことを考え、チラリと振り返ってみる。
「待ちやがれ! 俺にケンカ売ってタダで帰れると思ってんのかオラァ!!」
「だからケンカなんて売ってないってばっ!」
「売ってるじゃねーか!! その手の点火はなんだよッ!!」
「さっきから知らないって言ってるでしょ! 何回言えば分かるのよこのカニ男はっ!」
「かっ……ンだとテメーーーッ!! また俺のことカニって言いやがったな!!」
少年は怒髪天を衝いており、彼女の言葉になどまるで耳を傾けず大鋏を振り上げていた。
恋愛映画どころか、まるで安っぽいホラー映画のようなその姿を目の当たりにし、彼女が抱いていた淡い期待は一瞬にして砕け散った。