5
深いまどろみのなか、莉子はひとりの少女のことを考えていた。
剣さん……
魅力的な人だと思う。
できればもっと仲良くなりたい。
なりたいけど、正直言ってよく分からない。
いぢめてくるくせに、ちょっと拒否っただけで泣いちゃうし。
理由を聞いても教えてくれないどころか、あたしとちゃんと向き合ってもくれない。
家のしきたりとかを持ち出してきて、なにかを必死で隠そうとしてる。
そんなに信用ないのかな……あたしって。
「……くすっ、そんなことありませんよ?」
「ん……? 剣さん……?」
「はい、おはようございます。とはいっても、まだ夜明け前ですが」
「……え? あれ? あたし、確かサウナで……」
「ええ、サウナで気を失ったので、ここまで運ばせて頂きました」
莉子が目を覚ますとそこは薄暗い空間、傍らには亞璃紗がいた。
手のひらから伝わってくるぬくもりから、彼女が自分の手を握っていることが伺えた。
そして、背中からは心地のいい柔らかな感触。
この感触には覚えがある。
そう、それは少し前、耐え難い激痛を与えられた場所。
亞璃紗の部屋のベッドの上だった。
「むぅ……これは……」
「えっと……一之瀬さん?」
目の前にはやけにセクシーなナイトガウンの合間から見え隠れする、白い胸元。
魅惑的な放物線を描き、形成された生意気な谷間。
それは、持たざる者である莉子の嫉妬心を激しく煽り立てる。
「うわぁーずるいなぁ、剣さんずるい」
「な、なにがですか?」
「ずーるーいー!」
「だからなにがずるいんですの?」
ジト目で睨む莉子に、亞璃紗は困惑する。
持たざる者の気持ち。
それは財力、知力、魅力……そのすべてを持っている亞璃紗には、到底理解できない領域だった。
「もしかして、精神武装で攻撃したことを怒っていますの?」
「へ? いやいや、そんなの全然気にしてないっていうか、そんなのどーでもよくなるレベルでイラッとしたというか」
「ええっ!? わ、わたくしそこまで酷い粗相をしてましたのっ!?」
「まぁ粗相っていえば粗相だけどさ……」
「教えてくださいっ! わたくしの、どこがそんなにいけませんのっ!?」
「ちょっ!? 剣さんっ! の、乗ってるって、色々……」
「だって、一之瀬さんが……莉子がちゃんと教えてくれないからっ……!」
「お、教えるもなにも―――」
仰向けに寝そべっている莉子に馬乗りになって迫る亞璃紗。
莉子が不機嫌になった元凶である白く柔らかなふたつの丘が、莉子の貧相な胸とぶつかり合って、むにゅりと形を変える。
「ぐすっ、なんですのっ!? わたくしには全部好きになりたいとかっ、向き合えとか言ってたくせにっ、自分は秘密主義に徹するおつもりですのっ!? バカっ! ばかぁ!」
「えっ!? ちょっ、痛っ、痛ったぁあっ!? つ、剣さんっ!? ど、どうしちゃったの!? なんかいつもの剣さんじゃないよぉ!?」
亞璃紗は泣きべそをかきながら、マウントポジションから莉子に向かってぽかぽかと女の子パンチを連発してくる。
もちろん、莉子にそれを防ぐ術はない。
いつもの麗しくも強かな彼女とは全く違う、駄々っ子のような亞璃紗に、ただただ驚くばかりだった。
「当たり前ですっ……普段のわたくしはっ、泣き虫なところもっ、わがままなところもっ、ぜんぶ隠し通してますものっ……くすん」
「うーん、普段でもわがままなところは隠せてない気がするんだけど……」
「……なにか言いまして?」
「いひゃひゃっ! いひゃい、いひゃいよ……」
莉子の突っ込みにへそを曲げ、頬を膨らませながら頬をつねってくる亞璃紗。
当然の行動だ。
亞璃紗は自分のすべてを莉子にさらけ出すことを決めたのに、莉子ときたらそれに対していちいちびっくりしたり突っ込みを入れたり……
その態度のひとつひとつに、亞璃紗の心は激しく揺さぶられる。
たったひとりの人間の、なにげない言葉や仕草にここまで翻弄されるのは、亞璃紗にとって生まれて初めての経験だった。
「ほらほらっ! 貴方が言うべきなのはそんな憎まれ口じゃないですわよねぇ?」
「ふににっ……や、やめっ、ほ、ほっぺが、ひ、ひぎれるよぉ……」
「さ~あ懺悔なさい? わたくしのどこにイラッとしましたの?」
「ひょ、ひょれはっ……」
むぎゅう……!
「いひゃいいひゃいっ!! わ、わかっ……! 言うっ! 言うからぁ……」
「うふふっ……そうそうっ♪ 素直が一番ですわよっ♪」
痛みに耐えかね、たまらず降伏宣言をする莉子。
そんな莉子の泣き顔を見て、亞璃紗は目じりに涙を浮かべながら満足げに微笑んでいた。
◆
◆
◆
いくら頭の悪い莉子でも、この亞璃紗の豹変ぶりには困惑した。
少し前まで自分に対して壁を作っているような接し方をしていたのに、今では莉子にべったり状態。
聞いてもいないのに、子供の頃から友達が出来なくてずっと寂しかったーだの、気に入った子をいぢめないと欲求不満になるーだの、莉子の耳元で囁くように語りかけてくる。
まさにマシンガントーク。
今まで話し相手がいなかったことへの反動なのか、亞璃紗のおしゃべりはとどまるところを知らなかった。
「それでですね? わたくしがいつものように猫ちゃんに煮干しを……」
ちなみに今聞かされているのは、亞璃紗が猫好きになったいきさつについて。
しかも―――
「ちょっ、ちょっと待って剣さん……」
「むー……」
「ええっと……あ、亞璃紗?」
「はいっ♪ どうかしましたか? 莉子?」
「…………」
なぜか名前で呼び合うことを強制されていた。
いや、そんなことよりもっと重要で深刻な問題があった。
「な、なんであたしの胸を揉んでるの……?」
そう……亞璃紗は先ほどから、莉子の申し訳程度にしか存在しない胸の肉を、布越しに揉みしだいていた。
ベッドの上で、至近距離でおしゃべりしながら。
他人から見たら確実にアブナイ関係だと思われてしまうシチュエーション。
それでも莉子は、軽いスキンシップのようなものかと思ってスルーしていた。
……が、彼女の手つきが徐々に大胆になってきたのでそうもいかなくなったのだ。
「え? だって、莉子はこのちいさなおっぱいにコンプレックスを感じてらっしゃるんですよね?」
「うぐっ……そ、そうだけど……」
それは先ほど、亞璃紗に迫られて吐露してしまった莉子の秘密。
莉子は、自分のバストに自信が持てないことを、顔を真っ赤にして告白した。
そのときの恥ずかしさと惨めさが、心の中でフラッシュバックする。
「ですからわたくしが、こうして刺激を与えて莉子のおっぱいを育ててあげようと思いまして……」
「そんなところにまで気を回さなくていいってばっ!」
「ふふっ♪ そんなに照れなくてもいいですのにっ♪」
「いやいや! 照れとかじゃないからこれ!」
「えいっ♪」
「ひゃあっ!?」
亞璃紗はそう言って楽しそうに、とても楽しそうに、莉子の胸元をまさぐる。
莉子は、今まで感じたことのないムズムズとした妙な感覚に、身をよじる。
「わわっ、ちょっと……やめっ……」
「うふふっ……もう少しだけ♪」
「っ……もぉ……」
ぺろりと舌なめずりしながらもみもみする亞璃紗を目の当たりにしても、莉子は拒絶出来ずにいた。
亞璃紗は今まで友達がいなくてずっと寂しい思いをしてたんだし、しょうがないよね。
それに、好きな子をいぢめたくなる性分だって言ってたし。
きっと亞璃紗に悪気はないと思うし……多分。
そう自分に言い聞かせて……恥ずかしい気持ちを我慢して、亞璃紗のセクハラ攻撃に耐えていた。
「くすくすっ♪ じゃあ……そろそろ直に触ってあげますねっ♪」
「……って、ひとが必死に我慢してるってのに、調子に乗んなっ!!」
「いたっ!?」
服の中へ手を侵入させようとしたところで、ようやくキレる莉子。
亞璃紗のおでこに、突っ込み代わりのモンゴリアンチョップが炸裂する。
そのダメージでひるんだ隙に、莉子は彼女の魔の手を振りほどいた。
「はーっ、はーっ……あ、危なかった、いろんな意味で。ていうか、いくら友達になったからってこういうのは……って、え?」
「くすん……」
「あ、あれ?」
莉子の眼前には、顔を覆って泣き崩れるいたいけな少女の姿があった。
冷や汗がタラリと頬をつたう。
またしても亞璃紗を泣かせてしまった。
その罪悪感が、莉子の心を鷲掴みにする。
「わたくし、良かれと思ってマッサージして差し上げていただけなのにっ……ぐすっ」
「あ、ああっ! ちょっ、ちょっと剣さ……じゃなかった。亞璃紗っ、そんなことくらいで泣かないでよぉ」
「しくしく……莉子に嫌われちゃいましたわー……」
亞璃紗が素直に気持ちを打ち明けてくれるようになってくれたのは、嬉しい。
やっと心を許しあえる友達になれたとも思う。
だが、そこには妙な違和感のようなものがあった。
莉子が感じているその違和感は、双方の間に開いた決定的な格差のせいであった。
それを一言で表現するなら、友情と愛情の差。
「あーもー、そんなことくらいで嫌いになんてならないからっ!」
「……本当ですの?」
「ホントだって! だからお願い、もう泣かないで? ね?」
「じゃあ……わたくしが莉子の身体に触っても、怒らないでくださいますのね?」
「うんうん、怒らないから。だから……はっ!?」
莉子は気付いていしまった。
泣いているように見えた亞璃紗が、顔を覆った指の合間から、チラチラと莉子の顔色を伺っていることに。
それは紛れもなくうそ泣き。
すべては亞璃紗の演技だと知ったときには時すでに遅し。
「うふふふふっ……」
「あ、亞璃紗、さん……?」
「今、言いましたわね? 『怒らない』って……♪」
「っ……!?」
無邪気なはずなのに妙に禍々しい亞璃紗の笑顔を前に、莉子の背筋は凍りつく。
本能が警鐘を鳴らしていた。
『この女は危険だ!』と。
『今すぐ逃げろ!』と。
「あ、あたしっ! やっぱり帰―――」
「くすくすっ♪ 逃がしませんわよー?」
「うわっ!? ちょっ!?」
亞璃紗と距離を取ろうとする莉子。
しかし、その一瞬の挙動を亞璃紗は見逃さなかった。
まさに電光石火。
逃げようとする莉子の足首を瞬時に掴み、ベッドの中心部へズルズルと引きずり込んでいく。
まるで、タコが獲物を自分の住処へ持ち帰るように。
腰を抱き、足を絡め、身体を引き寄せ……
「ほーらっ♪ 捕まえたっ♪」
「ちょっ……亞璃紗っ、ち、近いって……」
「くすっ♪ 近くて当然じゃないですかっ♪ だってわたくしと貴方は―――」
パーソナル・スペースという言葉がある。
これは相手との関係によって決まる、心理的に落ち着ける距離感を示すものである。
例えば、見知らぬ人とすれ違う場合なら3.5メートル以上(公衆距離)。
学校や職場で、上司や教師などと事務的な会話をするなどの場合なら3.5メートルから1.2メートルの間(社会距離)。
友人との個人的な会話をする場合であるなら1.2メートルから45センチの間(固体距離)が適当と言われている。
しかし、今の莉子と亞璃紗にある距離は……0センチ。
これは恋人や家族にのみ立ち入ることが許される、いわゆる密接距離と呼ばれているものである。
莉子は亞璃紗のことを、今のところ『友達』と認識しているわけであるから、当然のことながらこの距離では落ち着かない。
だが、亞璃紗は違う。
亞璃紗にとって、莉子は自分を孤独から救ってくれた大切な人。
生涯にたったひとりの、大切な―――
「伴侶なのですからっ♪」
「は、はん、りょ……?」
伴侶。
その単語を知らないほど、莉子は無知ではない。
しかしなぜ……?
なぜその単語が、亞璃紗の口から?
今の莉子では、彼女の意図までは理解することが出来なかった。
だが、これだけは理解できた。
「あ、あたし、もしかして……とんでもない子を覚醒させちゃった……?」




