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夜の闇に包まれた高層マンションの一室。
部屋と呼ぶには広過ぎるそのフロアの中央に置かれた、天蓋付きの大きなベッド。
微かにローズ系のコロンの香りがするそのベッドの上で……
小柄で貧相な少女と均衡のとれた身体つきの少女が絡み合っていた。
「お願い剣さん、それ、やめてっ……怖いっ、怖いよぉ……」
「うふふっ……そんなに怯えなくても大丈夫ですわよ♪ ちょっとチクッとするだけですから……ね?」
「あたしがやめてって言ったのは、剣さんのその表情のことなんだけど……」
亞璃紗はベッドに横たわらせた莉子の脚に指を這わせながら、彼女の耳元で静かに囁いた。
緩みきった笑顔。
爛々とぎらついた瞳。
まるで性犯罪者のような面持ちのまま、亞璃紗は手に持った“それ”を、莉子の柔肉へ導く。
そして、ゆっくりとした動作で……莉子を、刺し貫く。
「ぐっ……! っ……い、痛っ……痛いっ! 剣さんっ! 痛いっ……!」
「あらあら♪ これってそんなに痛いんですの? えいっ♪」
「いだっ! そ、そんな乱暴にしな―――いだだだだっ!! も、もうやだぁ~……」
「きゃー♪ 一之瀬さんったら泣いちゃいますの? いいですわよぉ♪ いっぱい泣いてくださいな♪」
「うぅ~……ひどいよ……」
莉子が痛みで泣き叫ぶ度に、亞璃紗は歓喜の悲鳴をあげる。
亞璃紗の指先、そのわずかな動きが莉子の敏感な神経を刺激し、それは激痛となって莉子を苦しめる。
落涙。
歪む顔。
熱い吐息。
珠のような汗。
シーツを掴む手。
そのひとつひとつが、亞璃紗のサディスティックな性癖を強く刺激し、脳内麻薬の分泌を促進させる。
「つ、剣さんっ、シーツが汚れちゃう……」
「ふふっ♪ こんなことをされてるのにシーツの心配ですの? 一之瀬さんは本当に能天気ですわね♪」
「こ、こんなことって、傷を縫わないとダメって言ったのは剣さんなのに……」
見ると、乱暴に扱われた莉子の傷口からひとすじの鮮血が流れ落ち、純白のシーツの朱色の染みを作っていた。
半ば無理やり亞璃紗のマンションに連れてこられた莉子はまず、脚の怪我を見咎められた。
切り傷は2センチ足らずではあったが、ぱっくりと開いた傷口は縫合する必要があった。
そして、その縫合を嬉々として買って出たのが他でもない、剣 亞璃紗だった。
「はい? ……あぁ、そういえば縫合するのが目的でしたわね」
「えっ!? それ以外にどんな目的があったの!?」
「うふふっ♪」
「『うふふっ♪』じゃないよっ!!」
もちろん、莉子をいじめて愉しむためである。
今の亞璃紗には、自分の身体の芯に溜まりに溜まったサディストとしての黒くドロドロとした欲望をぶつけることで頭がいっぱい。
当然のようにこれが医療行為であることなどすっかりぽっかり忘れてしまっていた。
「さぁ♪ あと何針か縫っちゃいますから、動かないでくださいね~♪」
「ひぃぃいっ!?」
「ああんもうっ♪ 動いたらダメですよ~? えいっ♪ えいっ♪」
「剣さん痛い痛いっ! そんなに引っ張ったら糸が擦れてあだだだっ!!」
肉と肉の間をナイロン糸が通過する。
その僅かな摩擦は、非常に不快な痛みを発生させる。
自分の体内を異物が通過するこの不快感と、針を刺される激痛……それにあと何回耐えればいいのか。
考えるだけで莉子は気が滅入りそうだった。
◆
◆
◆
「っはぁぁああぁ~~~~……♪ 堪っ♪ 能っ♪ しましたわぁ~♪」
「ぐすっ……い、痛かったよぉ……」
そんなこんなで、結局莉子は3針分の痛みを麻酔なしでたっぷりと体感させられる。
その傷口は綺麗に縫合されてはいたが、乱暴に扱われたせいで幾許かの血が莉子の右脚とシーツを汚していた。
施術者である亞璃紗はそんなこと気にも留めておらず、とても艶やかで晴れやかな笑顔を浮かべながらゴム手袋を脱ぎ捨てる。
乱雑にゴミ箱へ放り込まれるゴム手袋を見て、莉子は今の自分と似ていると思った。
まるで使い捨てのおもちゃのようなぞんざいな扱い……。
しかし、そんな扱いにも耐えなければいけない。
なぜなら莉子は、亞璃紗が提案した、金銭以外での返済条件を……呑んでしまったのだから。
『一之瀬さんには、わたくしのメイドとして2900万円分……たっぷりとご奉仕して頂きますわっ♪』
その条件……それは言葉にしてしまえば単純明快、『労働』である。
今も昔も、働かざるもの食うべからず。
攫われた女の子を助けるために貨物船でコキ使われた野生児然り、幻の天空城を見つけるために海賊船で下働きをした少年少女然り、両親がブタにされて仕方なく温泉宿で下働きをした少女然り。
その対価を支払う術が無ければ、身体を張るしかないのだ。
地道に下働くしかないのだ。
そして莉子もまた、先人達の積み上げてきた慣例に倣うかのように、Sっ気全開のセレブ少女の『専属メイド』として、その身を粉にして2900万円を返済していくことにした。
しかし、莉子にだって矜持がある。
プライドがある。
意思がある。
先ほどの仕打ちは、莉子にとってそれらを一気に蹂躙されたことに等しかった。
「一之瀬さん? どうかしまして?」
「……べつに」
「そうですの? なんだか不機嫌そうですけど……」
不機嫌……その表現は間違ってはいなかったが、正しくもなかった。
莉子が抱いていたのは、亞璃紗への不信感。
剣さんは、あたしの気持ちが分かってないの?
いくら治療とはいっても、あんなに痛めつけなくてもいいじゃん……
もしかして、あたしをいじめて楽しんでるだけなの?
剣さんって……そんな人だったの……?
信じてたのに……
ひどいよ……
枕を抱きながら亞璃紗を睨みつけている莉子の心のなかでは、そんな疑惑がぐるぐると渦巻いていた。
「…………」
「いっ、一之瀬さん? えっと……そのっ、もしよろしかったら、これからわたくしと裸のお付き合いを……」
「……? なに? よく聞こえないんだけど……」
「あ、あのっ! お風呂っ! 今日はたくさん汗をかきましたし……お、お風呂っ! 入りませんか?」
「え? お風呂……?」
先ほどとは打って変わって、なにやらもじもじした調子でそう呟く亞璃紗。
藪から棒なその提案に、莉子はきょとんとした。
「はいっ♪ 45階にわたくし専用の大浴場がございますのっ♪」
「…………」
お風呂……
その言葉を聞いて、莉子の脳裏にこの家のゲストルーム付属のユニットバスが頭に浮かんだ。
浴槽だけで莉子の部屋よりも大きな、バスルーム。
少なくとも、大浴場とやらはそれより遥かに大きな浴槽なのは明白。
大きくて気持ちのよさそうなお風呂……その誘惑に、莉子の心はぐらつく。
なにを隠そう、莉子はかなりのお風呂大好きっ子である。
スーパー銭湯とかに行くと無駄にテンションが上がっちゃうタイプで、温泉だったら倍率ドンだ。
しかし、莉子はこの短期間の間に、亞璃紗によって二度も辛酸を舐めさせられている。
一度目は地下のトレーニングルームでの件。
そして二度目は、先ほどの縫合。
二度も裏切られていれば、さすがの莉子も学習する。
きっとまたあたしをいじめるつもりなんだ……
そう考えながら、莉子は警戒心を強めていた。
「一之瀬さんもきっと気に入られると思いますよ? お湯は地下から汲み上げた天然温泉ですし、眺めも―――」
「帰る」
「……はい?」
頬を染めながらにこやかにお風呂の話を進めていた亞璃紗の笑顔が、莉子の一言で固まった。
そんな亞璃紗を無視するかのように、莉子はぶっきらぼうに続ける。
「もう家に帰るって言ったの。別にいいでしょ? 住み込みで剣さんちのメイドやるわけじゃないんだし」
「え……? で、ですけどっ、一之瀬さんのお部屋はもう用意させてありますし―――」
「あたしそんなこと頼んでないし。剣さんが勝手にやったことでしょ?」
「…………」
その言葉には、莉子が今まで亞璃紗に対して抱いていた不満や不信感がぎっしりと詰まっていた。
だが、はっきりとした拒絶ではない。
莉子にとって、自分と亞璃紗との間に急ごしらえの壁を作ったつもりだった。
しつこいキャッチセールスを断る時のように。
鬱陶しいナンパ男をあしらう時のように。
あとは亞璃紗を無視して颯爽と帰ってしまえばいい。
住み込みでなくても、白川町と舞橋市くらいの距離なら自転車で通えるし、なにも問題はない。
……はずだった。
「……っ!?」
そんな莉子の……まるで戦車のように硬い装甲で武装を施したはずの意思は、思わぬ一撃によって吹き飛ばされる。
まるで、足元でいきなり大爆発したIEDのような衝撃。
それは亞璃紗が見せた刹那の表情。
すぐに背を向けてしまったが、莉子の網膜にはその表情が焼き付いていた。
なにかに耐えるような儚げな笑顔と、目尻から零れ落ちたひと粒の……涙。
そのガラス細工のようにキラキラとして今にも壊れてしまいそうな泣き顔は、一瞬にして莉子の心を鷲掴みにした。
「そ、そうですわねっ……ふふっ、一之瀬さんのおっしゃる通りですわ……」
「えっ!? ま、待って剣さんっ! ど……どうして泣いて―――」
「っ……! すぐセバスチャンに送らせますっ!」
そう言い放つと、亞璃紗はまるで耐えかねてしまったかのように部屋を出て行ってしまった。
訪れる静寂……
広々とした部屋の大きなベッドの上に取り残された、ひとりの少女。
「な……なんで? なんで泣いちゃってるの!? え!? なんで!? だって剣さん、あんなにあたしをいじめて喜んでたじゃん! それなのにちょっとキツく言っただけで……ああもうっ!」
無人になった部屋で、莉子はひとり叫ぶ。
信じていたはずの人に弄ばれ、その腹いせに少し冷たい態度をとったら、泣かれてしまった。
その事実は、彼女の心にもやもやとした気持ちと妙な罪悪感だけを残した。
「これで帰ったらあたしが悪者みたいじゃん!」
少し前まで帰る気満々だった莉子はもうどこにもいない。
それどころか、今やタダでは帰るつもりなど毛頭無く、そんな気持ちなどすでに遥か彼方へ吹き飛んでしまっていた。




