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異世界召喚されました。聖女がボクでいいのですか?

作者: あうまる
掲載日:2026/05/27

「聖女様!」


 光が消えた瞬間、石造りの広間に声が響いた。

 ボクは魔法陣の中央に座り込んだまま、何度か瞬きをする。高い天井。色ガラスの窓。白い法衣の人たち。腰に剣を下げた騎士たち。正面には泣きそうな顔でこちらを見ている金髪の少女。

 十秒前までボクは大学帰りにコンビニでプリンを買っていた。期間限定の濃厚ミルクプリンだ。ちゃんとスプーンももらった。なのに今手元にはプリンどころかレジ袋すらない。

 しかも周囲の人たちは全員ボクを見て頭を下げていた。


「よくぞ、よくぞおいでくださいました!」


 白い髭の神官らしき老人が床に額がつきそうな勢いで頭を下げる。周りの人たちも膝をついた。騎士まで片膝をついている。

 やめてほしい。

 ボクは水城結人。十八歳。大学一年生。身長は低いし、髪も肩に触れるくらいまで伸びている。顔は母親似で、声も高めだ。駅で「お嬢さん」と呼ばれるのは慣れているけど、異世界で「聖女様」はさすがに初めてだった。

「あ、あの」


 性別の誤解は早めに訂正したほうがいい。遅れるほど相手も自分も逃げ場がなくなる。中学の修学旅行で女子部屋に案内されかけたとき、担任が職員室で三十分謝り続ける事故になった。あれはもう二度とごめんだ。

「ボクは――」

「おお、なんと可憐な声……!」


 神官のおじいさんが両手を組んだ。

「予言の通りです。異界より白き光に包まれ、鈴のような声を持つ乙女が現れる!」

「乙女では――」

「聖女様!」


 金髪の少女が駆け寄ってきた。年はボクと同じくらいだろうか。上品なドレス姿なのに、目元が赤い。ずっと泣くのを我慢していた顔だった。

「私はエレノア。アルテリア王国第一王女です。お呼びしてしまったこと、まずはお詫びいたします」


 王女様はボクの前で深く頭を下げた。

 その姿を見た瞬間、用意していた言葉が引っ込んだ。王女様が頭を下げている。神官も騎士も息を止めたみたいに見守っている。どう見ても冗談の空気ではない。

「我が国は、北の瘴気により滅びかけています。神殿の古き召喚術に頼るしかありませんでした。勝手な願いだとは承知しています。どうか聖女様のお力をお貸しください」


 泣きそうな声だった。

 待ってほしい。そんな顔で頼まないでほしい。ボクは男です。それを言えば済む。たぶん済む。いや、済まないかもしれない。少なくとも目の前の王女様は膝から崩れそうだ。神官のおじいさんは倒れる。騎士たちは気まずそうに剣から手を離す。

 そこまで想像したところでボクの口は勝手に負けた。

「ボクはその……」

「はい」

「……聖女でいいんですか?」


 違う。そうじゃない。

 言い終えた瞬間、自分で自分の言葉に絶望した。だけど広間は明るくなった。

「おお! なんと謙虚な!」

「ご自身の尊さを疑われるとは!」

「まさしく聖女様だ!」

「予言は正しかった!」


 ボクの訂正の機会は召喚から三分で魔法陣の光と一緒に消えた。


     ◇


 客室に案内された。

 天蓋付きのベッド。花柄のカーテン。銀の水差し。果物の盛られた皿。壁には柔らかそうなタペストリー。どこを見ても高そうで、逆に落ち着かない。

 そしてベッドの上には白いドレスが広げられていた。

「お支度を始めますね、聖女様」


 にこにこと言ったのは世話役としてつけられた女官のリタさんだ。栗色の髪を後ろでまとめていて、目がきらきらしている。もう一人の女官、ミリアさんは落ち着いた人で、部屋の鍵や窓を確認していた。

 どちらも女性だった。

 当然だ。彼女たちはボクを聖女だと思っている。王女様も神官も騎士も全員そう思っている。だから女官さんが身の回りの世話をするのも、この世界では普通なのだろう。

 普通なのだろうけど。


「あの、着替えは自分でできます」


 ボクはドレスの前で固まったまま言った。

「まあ。聖女様はお強いのですね」

「強さの話ではなく」

「ですが、この装束は一人で着るには難しくて。背中の紐と腰飾りがございますので」


 リタさんがドレスを持ち上げる。白い布がふわりと広がった。薄いけれど上品で、胸元には銀糸の刺繍。袖は長く、裾には淡い青の飾り。見ただけでわかる。これ、ちゃんとした聖女衣装だ。

 そして完全に女性用だ。


「別の服はありませんか」

「聖女様用はこちらになります」

「もっとこう、神官っぽい服とか」

「神官服ですと男性神官のものになりますが」

「それで」


 言いかけて止まった。

 ミリアさんがこちらを見た。リタさんもこちらを見る。二人とも不思議そうな顔をしている。

 まずい。

 男物を選んだ理由を聞かれたらどうする。動きやすいから? いや、聖女装束に動きやすさを求めるのも変だ。似合わないから? この人たちは全力で「お似合いです」と言ってくる。肌を出したくないから? それは通りそうだけど、男だとは言えない。


「聖女様?」

「……今日は、召喚酔いがひどいので」


 ボクは額に手を当てた。

「締め付けのある服はちょっと」


 ミリアさんの表情が変わった。

「失礼しました。体調の確認が先でしたね」


 リタさんも慌ててドレスを畳む。

「申し訳ありません、聖女様。私、嬉しくて先走ってしまいました」

「いえ、こちらこそ」


 罪悪感がすごい。嘘をついた。しかも相手は本気で心配してくれている。

 ミリアさんはすぐに薄手の寝間着と羽織を用意してくれた。これなら自分で着られる。問題は彼女たちが手伝う気満々だったことだ。

「着替えも自分でできます」

「ですが」

「異界では、自分の身支度は自分でする習わしなんです」


 口から出まかせだった。

 リタさんは目を丸くした。


「まあ……聖女様のお国では、王族の方も?」

「王族は知りませんけど」

「では、聖女様だけの特別な戒律……?」

「話が大きくなってませんか」


 ミリアさんは少し考え込んだあと、うなずいた。

「異界の作法を尊重いたします。リタ、廊下で待機を」

「はい」


 二人は部屋の外に出てくれた。

 扉が閉まった瞬間、ボクは膝から崩れそうになった。異界の作法。便利すぎる。そして危険すぎる。


     ◇


 翌朝ボクは神殿の広間に連れていかれた。

 結局衣装は昨日のドレスではなく、白い長衣に銀の帯という形になった。ミリアさんが「聖女様は異界の作法を重んじる方」と神殿に伝えてくれたらしい。神官たちは最初こそざわついたが、すぐに「異界の神秘」として納得した。

 何でも異界で片づくの、かなり怖い。


「聖女様、こちらへ」


 エレノア王女が案内してくれたのは、神殿の奥にある泉だった。

 屋内に作られた丸い水盤。その中に澄んだ水が満ちていて、中央には黒い石が沈んでいる。石からは薄い煙のようなものが出ていた。

「これが瘴気です」


 王女の声が低くなる。

「北の森から流れ出したものを、神殿が封じています。ただ、もう封印がもちません」


 黒い煙は水面の上で揺れていた。

 ボクはそれを見て、変な感覚を覚えた。怖い。けれど気持ち悪いだけではない。黒い煙の中に、細かい汚れが絡まっているように見える。水に落ちた油汚れみたいな感じだ。

 指で触ったら取れそうだな、と一瞬思った。


「聖女様、無理はなさらないでください。今日はお力の確認だけです」

「あ、はい」


 神官長が杖を掲げた。

「聖女様、両手を泉の上へ。祈りの言葉は自然に浮かぶはずです」


 自然に浮かぶはず。そんな無茶な。

 ボクは両手を水盤の上に出した。祈りの言葉なんて知らない。神様にお願いしたことといえば、テスト前に単位くださいと思ったくらいだ。

 でも黒い煙は目の前にある。これが広がると、この国が滅ぶらしい。エレノア王女は昨日からずっと寝不足の顔をしている。神官たちも騎士たちも誰かを騙そうとしているようには見えない。

 性別のことはさておき、困っているのは本当だ。


「……きれいになってください」


 祈りというより、お願いだった。

 その瞬間、ボクの手のひらから淡い光がこぼれた。水盤の水が震える。黒い煙が細い糸みたいにほどけていく。絡まった汚れが水から離れて、光に触れたところから消えていった。

 広間が静まり返る。

 やがて黒い石は灰色になった。水はさっきより澄んでいる。


「浄化だ……」


 神官長が杖を落とした。

「聖女様が、瘴気を浄化なされた!」


 歓声が上がった。

 エレノア王女がボクの手を取る。


「ありがとうございます、聖女様!」


 その顔を見てボクは何も言えなくなった。

 浄化の力は本当にあった。

 なら人選ミスではないのかもしれない。ただ聖女が男でもいいのかという問題だけが残った。

 かなり大きめに残った。


     ◇


 それからの数日はひたすらすれ違った。

 神殿はボクを「異界の聖女様」として扱った。女官さんたちはボクを「繊細で控えめなお方」として扱った。騎士たちはボクを「お守りすべき姫君に等しい存在」として扱った。

 そしてボクはそのたびに訂正しようとして失敗した。

「聖女様は入浴もお一人で?」

「はい。異界の作法です」

「まあ、慎み深い……」


 違う。

「聖女様は男性神官との面会を避けられるのですね」

「え、いや、そういうわけでは」

「ご安心ください。今後は女性神官を中心にいたします」


 逆にややこしい。

「聖女様は胸元の開いた装束がお苦手なのですね」

「はい、それは本当に」

「なんと清らかな」


 そういう話ではない。

 誤解が増えるたび、ボクは机に額をぶつけたくなった。

 特にリタさんは善意が強すぎた。


「聖女様、こちらの髪飾りはいかがでしょう」

「髪飾りは別に」

「小さな銀花です。控えめなので、聖女様の清楚さを邪魔しません」

「清楚さを売りにしているわけでは」

「では、青いリボンにしますか?」

「選択肢が増えただけ」


 リタさんは本気で楽しそうだった。

 嫌な人ではない。むしろ良い人だ。朝は温かいお茶を用意してくれるし、部屋に入る前は必ず声をかけてくれる。ボクが一人で着替えたいと言ってからは、絶対に踏み込んでこない。

 だからこそ言いづらい。この人たちはボクを馬鹿にしているわけではない。騙しているわけでもない。ただ、ボクを女の子だと思って、大事にしてくれている。

 その大事にされ方が全方向に間違っているだけで。


     ◇


 転機が来たのは召喚から七日目だった。

 北門より、瘴気に侵された魔狼が市街へ接近しているという急報が入った。庭でエレノア王女とお茶を飲んでいたボクはその知らせを聞いて立ち上がった。

「行きます」

「聖女様、危険です」

「でも浄化ならできます」


 言ってから自分で自分の言葉に驚いた。

 怖いに決まっている。異世界に来て七日目の大学生が魔物退治に行きますなんて普通に考えればおかしい。でも王女の顔が青くなったのを見たら、座っていられなかった。

 性別のことはまた言えなかった。

 今度は誰かに遮られたわけじゃない。自分で後回しにした。

 街に魔物が来ているなら、それどころではない。そう思ってしまった。

 ボクは白い長衣の裾を持ち上げ、王女について走った。


     ◇


 北門前はひどい状況だった。

 石畳の上に黒い霧が広がり、その中で大きな狼がうなっている。普通の狼ではない。牛くらいある。目は赤く、体から黒い煙が出ている。

 騎士たちは盾を構えていた。けれど剣で斬っても黒い煙が傷を塞いでしまう。

「聖女様!」


 誰かが叫んだ。

 魔狼の一匹がこちらを向いた。

 まずい。

 そう思ったときには、魔狼が地面を蹴っていた。騎士が割って入る。盾が弾かれる。ボクは足がすくんだ。

 怖い。当たり前だ。こんなもの、怖くないわけがない。

 でも手のひらは熱かった。


 神殿の泉のときと同じだ。黒い煙が見える。絡まっている。汚れている。ほどける場所がある。

「来ないで!」


 ボクは両手を前に出した。

 光が広がる。

 魔狼の体から黒い煙が剥がれた。狼は空中で姿勢を崩し、地面に転がる。赤かった目が元の黄色に戻った。

 その狼はもう襲ってこなかった。


「浄化されたぞ!」

「聖女様を守れ!」

「いや、聖女様が守ってくださっている!」


 そんなことを言われても困る。

 ボクは必死で両手を伸ばした。黒い霧に光を当てる。魔狼から瘴気を剥がす。騎士たちがその隙に退路を作る。

 一匹、二匹、三匹。

 最後の一匹が倒れたとき、膝から力が抜けた。


「聖女様!」


 エレノア王女が駆け寄ってくる。

 ボクはその場に座り込んだ。息が荒い。手が震えている。服の裾は土で汚れ、髪も乱れていた。

 王女はボクの手を取った。


「ご無事ですか」

「はい、なんとか」

「本当に、ありがとうございます」


 王女の手がボクの手を包んでいた。

 その温度で言いかけていた言葉がまた遠ざかった。

 ボクは男です。

 それを言えばこの人はどういう顔をするだろう。騙されたと思うだろうか。神殿は混乱するだろうか。民衆は聖女が男だったと知って、浄化の力まで疑うだろうか。

 ボクはまだ、この国の常識を知らない。


 知らないまま、本当のことだけを投げるのが正しいのか、わからなかった。


     ◇


 その夜ボクの噂は王都中に広がった。

 異界より来た聖女が北門で魔狼を浄化した。白い光で瘴気を払い、騎士たちを救った。か弱く見えて、誰より勇敢だった。

 最後の一つはやめてほしい。か弱く見えているのは誤解だし、勇敢だったのではなく逃げ遅れたに近い。

 けれど王城の人たちはみんな喜んでいた。廊下を歩けば女官さんが頭を下げる。騎士は姿勢を正す。神官長は泣く。エレノア王女はボクを見るたび申し訳なさそうに、それでも嬉しそうに笑う。

 ボクは自室に戻って椅子に座った。


 リタさんが温かいお茶を置いてくれる。

「聖女様、今日は本当にお疲れさまでした」

「ありがとうございます」

「お召し物が汚れてしまいましたね。お着替えを」

「自分でやります」

「はい。異界の作法ですね」


 リタさんは慣れた様子でうなずいた。

 それがまた心に刺さった。

 彼女たちはもう、ボクの不自然さを「異界の作法」として受け入れている。着替えを一人でしたがることも、入浴に誰も入れないことも、胸元の開いた服を嫌がることも、男性神官服に近い長衣を選ぶことも。

 全部ボクのために解釈してくれている。


 リタさんが部屋を出たあと、ボクは扉に鍵をかけた。服を着替える前に、ベッドへ倒れ込む。

「……だから、ボクは男なんだって」


 誰にも聞こえない声で言った。

「聖女様とか、女の子扱いとか、どうすればいいんだよ……」


 天井を見上げた。

 そのとき、扉の向こうで足音が止まった。


「聖女様」


 エレノア王女の声だった。

 終わった。

 今度こそ終わった。


     ◇


 扉を開けると、エレノア王女が立っていた。

 手には小さな包みを持っている。たぶん北門で汚した手袋か何かを届けに来てくれたのだろう。護衛はいない。女官もいない。

 王女はボクの顔を見てから部屋の中へ目を向けた。

「今の言葉は」

「……聞こえましたか」

「はい」


 嘘だと言うべきだった。冗談です、と笑えばよかった。

 でももう無理だった。北門で魔狼を浄化したあとから、体も頭も限界に近い。これ以上、何もなかった顔をする自信がない。

 ボクは扉から手を離した。


「入ってください」

「よろしいのですか」

「はい。たぶん今逃げたら二度と言えないので」


 エレノア王女は部屋に入った。扉を閉める。二人きりになった瞬間、さっきまで広かった部屋が急に狭くなった。

 ボクは椅子に座る。王女は向かいに座らず、少し離れた場所に立ったままだった。

「確認しても、よろしいですか」

「はい」

「ユイト様は、男性なのですか」

「はい」


 言った。

 ようやく言った。

 広間でも神殿でも北門でも言えなかったことを、王女の前でだけ言った。

 王女はしばらく黙っていた。


 ボクは膝の上で手を握る。

「黙っていて、すみません。最初に言うつもりでした。でも王女様が頭を下げて、国が滅びそうだって聞いて、言い出せなくなって。そのあと浄化の力が本当に出て、みんなが喜んで、どんどん」

「責めていません」


 王女の声は思ったより落ち着いていた。

「驚いてはいます。ですが、責める気はありません」

「でもボクは皆さんを騙して」

「それを言うなら、私たちは貴方を勝手に呼びました。性別の確認もせず、聖女様だと決めつけたのもこちらです」

「でも」

「ユイト様」


 王女はそこで、初めてボクの正面に立った。

「北門で救われた騎士たちは、貴方が男性であっても女性であっても、救われたことに変わりはありません。泉の瘴気も、王都の井戸も貴方が浄化してくださいました」


 王女は考え込むように指を組んだ。

「ただ、今すぐ公表するのは危険です」

「危険、ですか」

「神殿は聖女召喚に国の希望を懸けています。民も聖女様が現れたことでようやく落ち着き始めました。そこへ突然、聖女様は男性でしたと発表すれば、浄化の力そのものを疑う者が出るかもしれません」

「じゃあ」

「しばらくは、今のままにしましょう」


 ボクは顔を上げた。

「つまり、女の子扱いのままですか」

「公には」

「公には」


 王女はうなずいた。

「私だけが知っています」


 その言い方が変に胸に残った。

 王女は机に包みを置き、ボクの椅子の横へ回った。北門で汚れた外套を確認し、袖口のほつれを指で押さえる。

「女官たちには、着替えや湯浴みについて、これまで以上に踏み込まないよう命じます。男性神官との面会も必要なら調整します」

「助かります」

「装束はもう少し動きやすいものにしましょう。表向きは聖女様が戦場で浄化を行うための改良とします」

「すごく助かります」

「ただし」


 王女はそこで、手を止めた。

「私が夜にお部屋を訪ねるのは、控えた方がよいかもしれません」

「え」

「貴方が男性であるなら、私も無遠慮にはできません。私は王女ですし、未婚ですし」

「あ、はい」


 なぜだろう。

 急に話の種類が変わった。

 さっきまで国の希望とか神殿の混乱とか、そういう話だったはずだ。なのに今、王女は袖口のほつれを見たまま、耳まで赤くしている。

「ですが、秘密を知っているのは私だけです。貴方が困ったとき、私がそばにいなければ」

「それは助かりますけど」

「そばにいる理由は必要ですね」

「理由」

「聖女様の相談役、ということにしましょう」

「それなら自然ですね」

「はい」


 王女はほっとしたように笑った。

 たぶん安心していい場面なのだと思う。

 でも王女がボクの袖口から手を離すまで、こっちは息の置き場に困っていた。

「ユイト様」

「はい」

「今後、人前では聖女様とお呼びします」

「はい」

「二人のときは、ユイト様と呼んでも?」

「それは、もちろん」

「ありがとうございます」


 王女は包みを差し出した。

「これは、北門で落とされたものです」


 受け取るとボクのコンビニのレシートだった。

 なぜこれだけ異世界に来ている。


「異界の文字は読めませんでしたが、大切なものかと」

「いや、これは別に」

「聖女様の秘密の品ですね」

「違います。プリンのレシートです」

「ぷりん」

「甘い食べ物です」

「いつか、私にも教えてください」


 王女はそう言って、ボクの返事を待った。

 ボクはレシートを握りしめたままうまく答えられなかった。


     ◇


 翌日から状況はさらにややこしくなった。

 表向きボクは変わらず「異界の聖女様」だった。

 神官長は「聖女様は北門でのお働きにより、より実戦的な装束を望まれた」と発表した。おかげで白い長衣は動きやすい短めの外套と細身のズボンに変わった。

 ズボンなのになぜか周囲は感動していた。


「聖女様が戦場に立つ覚悟を……」

「なんと凛々しいお姿」

「乙女でありながら騎士のような気高さも」


 違う。ただズボンを履けて安心しているだけだ。

 リタさんは残念そうだったがすぐに別方向で張り切り始めた。

「では、髪飾りは控えめにいたしましょう。戦場用ですから」

「髪飾りをなくす方向には?」

「聖女様の象徴ですので」

「象徴が頭に乗るの、邪魔じゃないですか」

「小さいものにします」


 負けた。

 ミリアさんは王女から何か言われているのか、着替えや入浴に関しては完全に距離を取ってくれるようになった。ありがたい。ただ理由は知らされていないらしく、リタさんにこう説明していた。

「聖女様の異界の作法は、王女殿下が直々に保護されることになりました」

「聖女様の作法、王家公認になったんですか?」

「そうです」


 嘘が国家事業になっている。

 そして一番変わったのはエレノア王女だった。

「聖女様、本日の浄化予定です」


 人前では王女はきちんと距離を取る。声も表情も王女としてのものだ。神官や騎士の前ではボクのことを聖女様と呼び、必要以上に近づかない。

 二人になると違う。


「ユイト様、お疲れではありませんか」

「大丈夫です」

「嘘ですね。昨日も同じ顔で倒れかけました」

「そんなにわかりやすいですか」

「はい」


 王女は遠慮なく椅子を引きボクの前に温かいお茶を置いた。

「今日はもう神殿に戻らなくて結構です。私が止めます」

「神官長が泣きませんか」

「泣かせておきます」

「強い」


 王女は笑った。

 その笑い方は人前のものよりだいぶ軽かった。

 最初はただ秘密を共有したから距離が近くなったのだと思った。でもそうではない気がしてきた。

 たとえばこういう会話が増えた。


「ユイト様は元の世界では」

「はい」

「その、どなたか親しい方がいらしたのですか」

「友達ですか?」

「友人も含みます」

「大学に何人かは」

「そうですか」


 王女はカップの取っ手を指でなぞった。

「婚約者などは」

「いません」

「……そうですか」


 カップが受け皿に戻る音がやけに丁寧だった。

 今、安心しなかったか。

 気のせいか。

 気のせいであってほしい。


     ◇


 それから数日後、神殿で新しい問題が発生した。

 神官長がボクの称号を増やそうとしたのだ。

「聖女様は北門の浄化により王都を救われました。よって、正式に『白き救国の乙女』の称号を」

「却下です」


 ボクより先にエレノア王女が言った。

 神官長は固まる。


「殿下?」

「長いです。呼びづらいです。あと本人の了承を取っていません」

「しかし聖女様の功績を称えるには」

「称えるなら、仕事を増やさないことです」


 王女はきっぱり言った。

 神官長がしゅんとした。周りの神官たちも巻物をしまう。

 ボクは王女を見た。

 助かった。


 そう思ったのだが、王女はボクの外套の留め具に気づき、近くの女官に替えの留め具を持ってこさせた。

「聖女様、金具が緩んでいます」

「あ、すみません」

「いえ。この形は使いにくいですね。次から別のものにしましょう」


 王女は人前の距離を保ったまま、金具だけを素早く留め直した。

 周囲の神官たちは「なんと聖女様思いの王女殿下」と感動していた。

 ボクだけが知っている。

 その金具が緩んだ理由はボクがまだこの服に慣れていないからだ。そして王女はたぶんそれもわかっている。

 男だと知られて安心したはずだった。少なくとも王女だけには本当のことを言えた。味方ができた。秘密を一人で抱えなくて済む。

 そのはずなのに別の問題が発生している。


 エレノア王女は最近、ボクの服装と体調と予定を把握しすぎている。


     ◇


 その日の夕方、王女に呼ばれて庭へ行った。

 人払いがされていた。護衛は遠くにいる。女官もいない。

 嫌な予感しかしない。


「ユイト様」

「はい」

「新しい装束の着心地はいかがですか」

「助かっています。動きやすいですし、着替えも一人でできます」

「それはよかった」


 王女は庭の花壇の前で立ち止まった。

 赤い花が咲いている。夕方の光で花びらの端が金色に見えた。王女はそこから一輪を選び、指先で触れた。

「リタが、髪飾りを作り直したそうです」

「まだ諦めてなかったんですか」

「はい。ですが、私が止めました」

「ありがとうございます」

「代わりに、こちらを」


 王女は赤い花を摘み、ボクに差し出した。

「髪ではなく、胸元に差すなら邪魔になりにくいかと」

「あ、はい」


 受け取るしかなかった。

 王女はボクの胸元の留め具にその花を差した。指が近い。距離も近い。王女の髪からほのかに甘い香りがした。

 ボクは息を止めた。

 王女は花の向きを直してから満足そうに一歩下がる。


「似合います」

「ありがとうございます」

「人前では、聖女様として」

「はい」

「でも私の前では無理をしないでください。ユイト様はユイト様ですから」


 言葉だけならありがたい。

 問題は王女がさっきからボクの反応を見て楽しんでいることだった。

「エレノア様」

「はい」

「その、ボクは男だって知ってから、態度が少し」

「変わりましたか」

「はい」


 王女は否定しなかった。

 むしろ困ったように笑った。


「変わったと思います」

「そこは否定してほしかったです」

「嘘をつくのは苦手です」

「今ボクの性別を国中に隠してますけど」

「それは必要な政治判断です」

「強い」


 王女は花を摘んだ指先を軽く払った。

「最初は聖女様として貴方を見ていました。国を救ってくださる方として。けれど今は違います」


 ボクの手に力が入った。花の茎が曲がりそうになって、慌てて緩める。

「ユイト様は怖がりながらも北門に立ちました。言えないことを抱えたまま、誰かを助けてくださいました。だから私は」

「待ってください」


 声が裏返った。

 王女が瞬きをする。


「待ってください。そこから先は今聞いたらたぶん倒れます」

「倒れたら支えます」

「そういう問題ではなく」


 王女は口元に手を当てた。

 笑っている。

 完全に笑っている。


「では、今日はここまでにしておきます」

「今日は?」

「はい。急ぐ話ではありませんから」


 急がないだけで続きはあるらしい。

 王女は半歩下がり、人前の顔に戻った。


「聖女様、そろそろお戻りになりましょう」

 遠くの護衛たちが姿勢を正す。

 ボクは胸元の赤い花を見た。周囲からは王女が聖女に花を贈った美しい場面に見えているのだろう。実際は王女だけがボクの秘密を知っていて、その王女が明らかに別の距離で踏み込んできている。

 どうする。


 どうすればいい。

 男だとバレたら終わると思っていた。

 違った。

 王女にだけバレた結果、もっとややこしいことになった。


「聖女様?」


 王女が首を傾げる。

 その声は公のものなのにさっき胸元に差された花がやけに熱い。

 ボクは花を押さえたまま王城へ向かって歩き出した。

 背後では護衛が「王女殿下と聖女様は本当に良いご関係だ」と話している。やめてほしい。合っているようで、何も合っていない。

 廊下に入る前、王女が隣に並んだ。


 周囲には聞こえない声で彼女は言った。

「ユイト様。明日、また相談の時間をいただいても?」

「……相談だけですよね」

「はい。今は」


 今は。

 ボクは足を止めかけたが後ろに騎士がいるので止まれなかった。

 聖女扱いだけでも大問題だったのに、王女様までこの調子で来るのは聞いていない。

 誰か異界の作法でこの状況をどうにかする方法を教えてほしい。


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