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爆笑三姉妹〜陽翔・結音誕生から、燈真・灯乃、彩羽・悠翔誕生まで  作者: リンダ


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命令:寝ろ ― 倒れる前に手放す役目



第十七章


「命令:寝ろ ― 倒れる前に手放す役目」


——十一日目の未明。

熱は、夜のいちばん静かな時間に本気を出してきた。


最初に異変を訴えたのは優子だった。

毛布を二枚重ねているのに寒い。

歯が小さく鳴る。

それなのに額の奥だけが焼けるように熱い。

耳の奥では、遠いところで鍋がずっと煮立っているみたいな音がしていた。


「……さむ……」


かすれた声が漏れる。

隣で横になっていた光子が目を開ける。

自分も同じように体の節々が痛く、まぶたがひどく重い。

それでも、妹の声の調子がおかしいことだけはすぐに分かった。


「優子?」


返事が遅い。

いや、遅いというより、言葉が体のどこかで引っかかって出てこない感じだった。


光子が起き上がろうとした瞬間、視界がぐらりと傾いた。

詰所の天井が斜めになる。

心臓が一拍強く打ち、そのあと急に遠くなる。


「……え」


自分の体もおかしい。

起きたつもりなのに、体が起ききらない。

喉はからからで、背中は妙に汗ばんでいる。

なのに寒気が、内側から骨をこすってくる。


障子の向こうで見回りの足音がした。

その音に反応して、優子が小さくうめく。


「ごめ……うち……まだ、起きる……」


その“起きる”が、ほとんど寝言みたいに崩れていた。



看護師が呼ばれたのは、その数分後だった。


小さな懐中電灯の灯りの中で、額に手が当てられ、脈が取られ、呼吸の間隔が数えられる。

優子の熱は高い。

光子もそれに近い。

しかも二人とも、ただの寝不足だけでは説明のつかない熱の上がり方をしていた。


「三十九度超えとる」


看護師の声が低くなる。

「優子さん、かなり高い。光子さんも上がってきてる」


「いや……大丈夫です」

と光子が言いかける。


「寝言は寝て言って」

と看護師が即座に返した。


ふだんなら少し笑ってしまうやり取りだった。

でも今の光子には、笑うだけの力も残っていなかった。


上官もすぐに来た。

二人の顔を見た瞬間、表情が変わる。


「もう決まりだ。命令:寝ろ」


光子が荒い呼吸の合間に言う。

「でも、搬送の……朝の引き継ぎ……」


「終わってる。お前たちの担当分は、昨夜のうちに自治会長と看護師、サチさんたちに渡してある」


優子が毛布の中で首を振る。

「鍋……今日の鍋……」


「鍋も回る。見回り表も回る。搬送準備も回る」


上官は少しだけ声を強くした。


「お前たちは今、何も回さんでいい。

寝ろ。体を落とすな。

それが今日の任務だ」


“任務”という言葉にしないと、二人は従わない。

たぶん上官は、もうそこまで読んでいた。



夜明け前。

熱はさらに上がった。


優子は浅い眠りと目覚めの境目を行き来しながら、何度も同じ言葉をつぶやいていた。


「ゴク・ゴク……して……水……先に飲んで……」


避難所で毎日言っていた言葉が、そのままうわごとになっている。

看護師が濡れた布を額にのせるたび、優子は眉を寄せて、小さく首を振る。


「……先に、子ども……」


誰かに水を譲ろうとしているのだ。

夢の中でもまだ。


その隣で、光子もまた、落ち着かない呼吸でうなされていた。

体の節々が痛む。

背中の骨が一本ずつ熱を持っているようだった。

まぶたを閉じると、すぐに別の景色が始まる。


泥。

港。

傾いた電柱。

見つかった、と誰かが言う声。

それなのに次の瞬間には、避難所の広場で子どもたちが「トントン!くるり・くるり!」と笑っている。

笑い声と捜索の声が混ざる。

鍋の湯気が白い霧になり、その向こうに毛布をかけられた形が並ぶ。


光子はうっすら目を開けて、実際の詰所の天井を見た。

だが熱でにじんで、木目が波打っている。


「……あかん」


自分でそう言った声さえ、他人のものみたいに遠かった。



朝。

詰所の外はもう動き始めていた。


担架の確認。

水の配分。

感染スペースの見回り。

子ども向けの薄いスープの準備。

ホワイトボードの更新。

徒歩搬送の出発時刻の調整。


二人は寝たまま、その音だけを聞いていた。


そしてそのことが、かえって苦しかった。


自分たちが起きなくても、朝は来る。

自分たちが立たなくても、人は動く。

自分たちが声を出さなくても、場は回ろうとする。


それは本来、望んできたことのはずだった。

“二人がいないと回らない場”ではなく、

“二人がいたから回る場”を目指していたのだから。


それでも、いざ本当に自分が外れると、胸のどこかが取り残されたみたいに痛い。


光子がかすれた声で言う。


「……優子。外、動いとるね」


優子は目を閉じたまま、うっすら頷く。


「うん……。なんか……悔しい」


「うん」


「でも……ちょっと、安心もする」


その答えに、光子は熱の中で小さく笑う。

笑うと喉が痛くて、すぐ咳に変わる。


「……わかる」


その“わかる”が、今の二人にはいちばん正確な言葉だった。



しばらくして、サチさんが詰所をのぞきに来た。


手には、小さな湯のみが二つ。

薄い塩気のある温かい湯だった。

経口補水の代わりに、できる範囲で整えたものらしい。


「飲めるだけでよかよ。全部飲まんでよか」


ふだんは元気な声のサチさんが、今日は少しだけ低く話す。

病人に合わせたのか、あるいは単に、この部屋の熱の高さに声が吸われたのかもしれない。


優子が湯のみを受け取ろうとして、手がふらつく。

サチさんがすぐ支えた。


「おっと。ほら、今日は“受け取る勇気”の日やろ」


それは、以前自分たちが掲示板に書いた言葉だった。


優子が少しだけ顔をしかめる。

「……返されると痛いね、それ」


「そらそうよ。ええ言葉は、ちゃんと自分にも返ってくるけん」


光子にも湯のみが渡される。

湯気のにおいはほとんどない。

けれど口に含むと、体の奥にじんわり落ちていく。

それだけで、涙が出そうになるくらいありがたかった。


「鍋……どうなっとる?」

と光子。


サチさんは少し得意そうに胸を張る。


「回っとる。

あんたらがつくった表の通りに、野菜刻む人、火を見る人、感染スペースに運ぶ人、分けたけん。

今日は私が“遠慮をほどく係”もしとる」


優子が微熱で赤い顔のまま、少し笑った。


「似合う……」


「当たり前たい。

それから、子どもらが“おひさま係”と“ふとん係”覚えて、勝手に野菜の説明しよる」


それを聞いて、光子の目が少し緩む。

自分たちの何気ない言葉が、外でまだ動いている。

それは救いだった。


でも同時に、胸に小さな空洞もつくる。


“もう自分じゃなくてもいいのかもしれない”。


その寂しさは、たぶん間違いではない。

手放すことには、必ず少し喪失が混じる。



昼前。

熱はまだ高かった。


優子は何度も浅い夢に落ちた。

夢の中では、給水車の蛇口をひねっている。

透明な水が出るはずなのに、出てくるのは白い湯気ばかりだ。

紙コップを差し出す子どもたちの顔が見えない。

見えないのに、みんな「先生、早く」と言う。

走ろうとする。

けれど足が進まない。

足首が泥に埋まっている。

その泥の下に、誰かの手がある気がする。


「……ごめん」


優子は眠ったままそう漏らした。


看護師がそっと布を替える。

その声を聞いた光子が、半ば夢の中から答える。


「謝らんで……」


だがそれは、優子に向けた言葉なのか、自分に向けた言葉なのか、もはや分からなかった。


光子の夢はもっと散らばっていた。


ホワイトボードの字が読めない。

“最優先”の欄が滲み、“見つかった”という言葉だけが黒く残る。

鍋の底に、木片ではなく家の柱がそのまま入っている。

子どもが「坂本さん、きょうはトントンせんと?」と聞く。

答えようと口を開くのに、声が出ない。

代わりに高い熱だけが喉からこみ上げてくる。


「……まだ、切らんと……」


そのうわごとに、看護師とサチさんが顔を見合わせた。

大根を切る役目を、夢の中でもまだ手放せていないのだ。



午後。

詰所の障子が少しだけ開き、外の光が細く差し込んだ。


子どもが一人、手紙を持って立っている。

昨日も広場にいたあの少女だった。

看護師が「少しだけなら」と中に通す。


少女は二人の寝顔を見て、思ったよりひどい様子に驚いたのか、足を止めた。

元気いっぱいの先生たちが、こんなふうに毛布に沈んでいるのを見るのは初めてなのだろう。


それでも彼女は、紙を差し出した。


「これ……みんなで書いた」


サチさんが受け取り、二人の枕元に置く。

色鉛筆で描かれた絵だった。

大きな鍋。

湯気。

笑っている棒人間が何人もいて、その中に髪の長い二人もいる。

文字はたどたどしい。


『せんせい

きょうは やすんで いいです

おなべ まわってます

みずものんでます

トントンも しています

だから ねてください』


優子がそれを見たのは、少しあとだった。

熱で焦点の合いにくい目で、何度も何度も字を追う。

最後の一文で、目の端が濡れた。


「……“ねてください”やって」


光子も横目で見て、笑うような泣くような顔になる。


「命令されたね」


「うん……住民命令や」


その言葉が、二人の中で何かを静かに折った。

いや、折ったというより、張りつめすぎていた糸を、ようやく少し緩めた。



夕方。

上官が再び詰所に入ってくる。


「状態は」


看護師が答える。

「まだ高いです。ただ、朝より水分は入った。意識は保ててます」


上官はうなずき、二人のそばに立つ。


「搬送は、今夜は見送る。

明日の朝、熱が下がらなければ再検討だ」


優子がかすれ声で聞く。

「……外、ほんとに回っとる?」


「回ってる」


「無理してない?」


「無理はしてる。だが、潰れてない。そこが違う」


光子が目を閉じたまま聞く。

「……誰が、鍋仕切っとる?」


「サチさんと炊き出し班。

火加減は農家の息子。

感染スペースへの配分は看護助手の女性。

ホワイトボードは自治会長が書き換えた」


少し間を置いて、上官は続ける。


「お前たちが教えた通りに、な」


その一言は、褒め言葉でもあり、役目の終了宣告みたいでもあった。

二人はしばらく黙っていた。


やがて光子が、熱に浮かされたまま小さく言う。


「……よかった」


優子も続ける。


「……でも、くやしい」


「うん」と上官。


「それでいい。

役目を手放すときは、安心と悔しさが両方来る。

どっちかだけのほうが、不自然だ」


その理解の仕方は、意外なくらい優しかった。



夜。

熱はまだ下がらない。


詰所の中は暗く、時々ランタンの火が揺れる。

二人とも眠ったり起きたりを繰り返している。

汗で濡れた前髪が額に張りつき、呼吸は浅く速い。

関節は重く、喉は焼けるようで、体のどこにも楽な場所がない。


それでも昼間より少しだけ違うのは、

“外が止まっていない”と知っていることだった。


詰所の外からは、微かに声が聞こえる。


「トントン!くるり・くるり!」

子どもたちの声だ。

きっと誰かが、リトミックをほんの少しだけ続けているのだろう。

鍋の前か、広場の隅か。

あまり大きな声ではない。

でもちゃんと揃っている。


優子が半分眠りながら呟く。


「……つながっとる」


光子が、ほとんど夢の底から返す。


「うん……。今度は、うちらが……つないでもらっとる」


その言葉のあと、しばらく二人は何も言わなかった。

言葉が尽きたのではなく、やっと少し、手放せたのだと思う。



地の文:


——命令:寝ろ。

それは、怠けろという意味ではなかった。

役目を捨てろという意味でもなかった。

自分の体を、場の資源として守れ、という命令だった。


高い熱は、二人から容赦なく力を奪った。

鍋の湯気も、給水の列も、見回り表も、

うわごとの中で何度も繰り返されるほど、

二人の体には“やるべきこと”が染みついていた。


だがその日、詰所の外では、

二人がつくった仕組みを、別の手が動かしていた。

野菜を刻む手。

火を守る手。

声をかける手。

「ねてください」と書く小さな手。


支えることしか知らなかった二人が、

初めてはっきりと“支えられる側”に回る。

その悔しさは本物で、

その安心もまた、本物だった。


役目を手放すとは、消えることではない。

自分がいなくても続く形を、他人の手に渡すことだ。

そしてそれは、

倒れる前にしかできない大事な仕事でもある。


詰所の中で高熱にうなされながら、

光子と優子はようやく知り始めていた。

守る人を守るとは、

その人の体から役目をいったん剥がすことでもあるのだと。


明日の朝、二人に必要なのは、

気合いではない。

根性でもない。

まずは熱を下げ、水を飲み、眠ること。

そして、外でまだ続いている小さな生活の音を、

信じて任せることだった。





第十八章


「また来る ― 揺れ続ける地面と、止まる支援」


——十一日目の午後。

最初の揺れは、小さかった。


誰かが鍋のふたに手を置いたのかと思うくらいの、かすかな震え。

吊り下げたランタンの火が、ほんの少し横に流れる。

湯のみの表面に丸い波紋がひとつ、ふたつ広がる。


「あ……」


広場の誰かがそう漏らした。

その声には、もう“驚き”より“嫌な予感”が多く混じっていた。


次の瞬間、床の下から押し上げるような揺れが来る。


ガタッ。

ガガガッ。

棚の隅で金属がぶつかる。

ブルーシートの柱が細かく鳴る。

鍋の中の湯が揺れ、縁から跳ねた。


「余震! 身を低く!」


上官の声が飛ぶ。

その声を合図にするみたいに、広場の空気が一気に縮む。

子どもは抱き上げられ、座っていた高齢者は頭を守るように身を丸める。

感染スペースでは、寝ていた人の毛布が押さえられ、洗面器が倒れないよう誰かが手を伸ばす。


揺れは長くはなかった。

けれど、それで済んでもいなかった。


一度止まり、また来る。

数分後にまた小さく来る。

少し間を置いて、別の向きから来る。


地面そのものが、もう落ち着き方を忘れてしまったみたいだった。



詰所の中でも、二人はその揺れをまともに受けていた。


高熱で寝込んでいた優子は、最初の震えで目を開けた。

体が重い。

関節はまだ痛い。

それでも揺れだけは、熱の底まで届いてくる。


「……来た」


声がひどく掠れていた。


隣で横になっていた光子も、すぐに目を開ける。

だが起き上がろうとした瞬間、視界がぐらつく。

熱と揺れが重なって、世界がまっすぐ立ってくれない。


「外……!」


「寝とって!」


障子の向こうから看護師の声が飛ぶ。

その声も少し揺れている。

余震のたびに誰もが、自分の声の高さを保つのに力を使っていた。


優子は毛布をつかんだまま、浅い呼吸で耳を澄ます。

外の足音。

誰かが子どもの名前を呼ぶ声。

鍋のふたを押さえる音。

それから、小さな泣き声。


その全部が、“また始まるかもしれない”という恐怖を連れてくる。


津波。

避難。

走る音。

高台。

泣き声。

見失った手。


熱のせいだけではない。

体が先に思い出してしまうのだ。

頭で「注意報かもしれない」と考える前に、骨と皮膚が「あのとき」を呼び戻す。



三度目の大きめの揺れのあと、通信担当の隊員が広場へ駆け込んできた。

顔色がはっきり変わっている。


「津波注意報、発令!」


その一言で、場の空気は一気に別物になった。


本震のときとは違う。

あのときは何が起きているか分からないまま、ただ呑まれた人も多かった。

今は違う。

“分かっているからこそ怖い”。


誰もが知ってしまっている。

水が来たら、どうなるかを。

何が流されるかを。

人がどんなふうにいなくなるかを。


「海側作業班、即退避!」

「感染スペースの軽症者、歩ける人から上へ!」

「高齢者と子ども優先!」

「荷物は最小限!」


指示が飛ぶ。

だがその声の下に、見えない悲鳴が敷かれている。

前回の記憶が、みんなの足を速くし、同時に重くもしていた。


サチさんが鍋の火を落としながら叫ぶ。


「食べかけは置いてよか! 人から先!」


農家の息子が木材の山を蹴るように寄せ、倒れない位置に移す。

子どもたちは、前みたいに声を上げて泣く子もいれば、逆にぴたりと黙ってしまう子もいる。

黙るほうが、かえって怖かった。



詰所の戸が開き、看護師と自治会長が入ってきた。


「二人とも、動ける?」


返事の前に、光子が起き上がろうとする。

が、すぐに息が乱れ、額に汗がにじむ。

優子も毛布を剥ごうとして、腕の重さに顔をしかめる。


看護師が即座に判断した。


「担架は使わん。支えて歩かせる。

今ここに置いとくほうが危ない」


「……うちら、歩ける」

と光子。


「歩けるように支えるから、変な意地は捨てて」

と看護師。


優子は息を整えながら、小さく問う。


「また……来ると?」


誰もすぐには答えなかった。

その沈黙が、いちばん正直だった。


結局、看護師はこう言った。


「来ないかもしれん。

でも“来る前提”で動くしかない」


それが避難の現実だった。

空振りでも動く。

無駄でも上がる。

来なかったらそれでいい。

一度見た地獄のあとでは、それしか選べない。



外へ出ると、空気そのものがざわついていた。


風が強くなったわけではない。

だが、人の呼吸と恐怖が混ざると、空気は本当に硬くなる。

足元の土はまだ湿っていて、長靴が半歩遅れる。

遠くで犬が吠える。

海は見えない。

見えないのが、なおさら恐ろしい。


熱のある二人は、左右から支えられながら避難の列に入った。

自分で歩いている感覚が薄い。

足は前へ出ているのに、体がついてこない。

頭の中では何度も、「もっと他に優先の人が」と声がする。

だが今日は、その声を押し返す力すら、もう残っていなかった。


途中、優子がふいに立ち止まりそうになる。

視界の端に、ひびの入っていた古い商店の壁が映ったからだ。


本震でなんとか持ちこたえていた建物だった。

角が崩れ、窓は割れていたが、骨組みは立っていた。

地域の人たちはあれを見て、

「まだ残っとる」

「あとで片づけよう」

「目印にはなる」

と話していた。


その建物が、今、余震のたびにゆっくり軋んでいた。


ギ……ギギ……。


音がした。

次の瞬間、乾いた破断音。


バキンッ。


壁がまず外へふくらみ、

そのあと、力を失った膝みたいに内側へ崩れた。

屋根が斜めに沈み、土煙が吹き上がる。

誰かが叫ぶ。

子どもが泣く。

だが避難の列は止まれない。


本震で倒れなかったものが、

遅れて、いま、倒れる。


その理不尽さが、人の心をじわじわ折る。

「耐えた」と思ったものが、耐えていなかった。

「残った」と思ったものが、残り切れていなかった。

世界が、安心の形をひとつずつ剥がしてくる。


光子が土煙の向こうを見ながら、熱に浮かされた声で言う。


「……あれ、まだ立っとる思うとったのに」


優子も、荒い息の合間に答える。


「うん……人も、建物も……“まだ大丈夫”が、いちばん怖いね……」



高台への再避難は、前回より整っていた。

それは仕組みが機能していた証拠でもある。

子ども、高齢者、歩行困難者、感染スペースのうち歩ける人、看病者。

順番は混乱しながらも、完全には崩れない。


だが整っていることと、怖くないことは別だった。


高台に着いたころには、優子の頬は熱でますます赤くなり、光子も汗と寒気でまともに立っていられなかった。

毛布を肩にかけられ、二人並んで座らされる。

眼下の町は見えにくい。

低い雲と、あがった土埃と、人の動きの残像だけが混じっていた。


誰も大声ではしゃがない。

当然だ。

前回も、この“待ち時間”のあとにすべてが変わったのだから。


子どもの一人が、小さく聞く。


「また、おうち、なくなる?」


その問いに答えられる大人が、すぐにはいなかった。


サチさんがしゃがんで、その子の肩を抱く。

「なくならんでほしい。

やけん今、ここで待っとるとよ」


“絶対大丈夫”とは言わない。

言えない。

その代わり、嘘のない言葉で一緒に待つ。

それが今できる精一杯だった。



注意報の時間は、体感では何倍にも伸びた。


海が実際にどう動いているのか、

どれほどの波が来るのか、

正確な情報は乏しい。

無線は断続的。

外との通信も細い。

「少し上がったらしい」

「いや、まだ分からん」

「沖では変化あり」

そんな断片だけが行き来する。


やがて、津波そのものの大きな再襲来は確認されなかった。

少なくとも、この高台から見える範囲では。

それでも、誰もすぐには立ち上がらない。

“来なかった”ことを信じるまでに、前回の記憶が重すぎる。


上官が最終確認を取り、ようやく言う。


「……注意報、段階的解除。

だが下りても警戒は解くな。

建物には近づくな。二次倒壊の危険がある」


その言葉で、今度は別の疲労が広がった。

安堵では終われない。

戻っても、世界はまた少し壊れている。



避難所へ戻る途中で、その現実はすぐに見えた。


ひびだけで済んでいた塀が崩れている。

屋根瓦が新たに落ちている。

斜めのまま持ちこたえていた家が、半分沈んでいる。

電柱の根元も、さらに土がえぐられていた。


そして何より痛かったのは、

ようやく細くつながり始めていた支援の糸が、また一度、途切れたことだった。


徒歩連絡隊の戻りを待っていた追加搬送は中止。

山道の一部で新たな崩落。

細いルートも安全確認が必要になり、今日の往来は止めざるを得ない。

つまり、再び物資の流れが止まる。


「……また、止まった」

と自治会長が呟く。


その声に、誰もすぐには返せない。


解熱剤。

消毒液。

経口補水。

女性用衛生用品。

子ども用の食べやすいもの。

どれも“もうすぐ来るかもしれない”と思って踏ん張っていた。

その“もうすぐ”が、また遠のいた。


光子は、熱に潤んだ目でホワイトボードを見た。

書き換えなければならない。

搬送予定も、支援見込みも、全部。


でも今日は、自分では立っていられない。

それが悔しくて、目を閉じる。


優子が隣で、小さく息を吐いた。


「……ほんと、容赦なかね」


「うん」

と光子。


「立て直しかけたとこ、ちゃんと見計らって来る」


その物言いに、苦い笑いの気配だけがほんの少し生まれた。

災害を相手に“意地悪やね”とでも言いたくなるような、疲れ果てた苦笑いだった。



夜。

避難所は再編成を余儀なくされた。


倒壊リスクの高い建物から人をさらに移す。

感染スペースの配置も変える。

木材燃料の山も、安全な位置へ組み直す。

倒壊した商店の近くを通っていた導線は使えない。

鍋の位置、給水の列、仮設トイレへの道筋、全部をまた引き直す。


つまり、せっかく出来始めた“日常の仕組み”を、もう一度組み替えなければならない。


疲れた顔のまま、サチさんが言う。


「また最初からみたいやね」


上官が首を振る。


「いや。最初からじゃない。

前は何もなかった。今は、壊れても組み直せる人間がおる」


その言葉は大きかった。

道はまた切れた。

支援もまた止まった。

建物もまた倒れた。

だが、人の側には“次にどう組み替えるか”が少し残っている。


優子は毛布にくるまったまま、その会話を聞いていた。

高熱でぼんやりする頭の中に、その言葉だけが少しはっきり残る。


壊れても、組み直せる。

壊れないことは、もう願えない。

でも、壊れたあとにどう並べ直すかなら、人の手でできる。


その考え方は、熱の中でかろうじて掴める、小さな手すりみたいだった。



深夜。

余震はまだ続いていた。


大きくはない。

けれど途切れない。

眠りかけるたびに、床がかすかに震える。

吊り下げたものが揺れる。

誰かが息を止める。

その繰り返しが、心を削る。


優子はうとうとしながら、何度も目を開けた。

そのたびに、「今のは大きくない」「まだ大丈夫」と自分に言い聞かせる。

けれど、その“まだ大丈夫”という言葉が、今日は妙に頼りなかった。


光子も、汗ばんだ額で天井を見つめたまま言う。


「……眠れんね」


「うん……地面が、寝かせてくれん」


少しの沈黙。


「支援、また止まったね」

と優子。


「うん」


「しんどいね」


「うん」


そして光子は、熱のある声で、それでも静かに続ける。


「でも……今日は高台まで、ちゃんと上がれた。

倒れた建物も見た。

支援が止まるって分かった。

分かったうえで、また組み直すしかなか」


優子は、目を閉じたまま頷く。


「うん……怖いけど、“分からん怖さ”よりは、まだ動ける」


それは、前より強くなったという意味ではなかった。

ただ、恐怖の正体が少しずつ言葉になってきた、ということだった。



地の文:


——余震は、地面だけを揺らすのではない。

眠りを揺らし、判断を揺らし、

「もう大丈夫かもしれない」という心の細い足場を、何度でも崩しにくる。


再び出された津波注意報は、

人々の体に刻まれた恐怖を一斉に呼び戻した。

本震を耐えた建物は、遅れて倒れた。

ようやくつながり始めた支援の糸も、再び切れた。

“あと少しで届くはずだったもの”が、また遠のいていく。


それでも、人は高台へ上がった。

火を止め、子どもを抱き、熱のある体を支え、

壊れかけた日常の仕組みをもう一度畳んで、また広げ直した。


止まる支援。

揺れ続ける地面。

倒れる建物。

高熱にうなされる二人。

そのどれもが容赦なく、

「ここで生きのびることは簡単ではない」と突きつけてくる。


だが同時に、この日、はっきりしたこともあった。

この避難所は、もうただ壊されるだけの場所ではない。

壊れながら、組み直すことを覚え始めている。

それは希望というより、技術だった。

そして、技術は絶望より少しだけ長持ちする。


明日の朝、必要なのは勇ましい言葉ではない。

また余震が来ても、また支援が止まっても、

それでも朝の列をどう作るか、鍋をどこに置くか、

熱のある人をどこに寝かせるか。

その、地味で確かな“組み直し方”だった。




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