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爆笑三姉妹〜陽翔・結音誕生から、燈真・灯乃、彩羽・悠翔誕生まで  作者: リンダ


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135/153

空いた椅子の朝 ― 助かったのに、届かなかった命


——八日目の朝。

広場には、昨日と同じように朝が来ていた。


ブルーシートの端で風が小さく鳴る。

仮設浴槽のまわりには、昨夜の湯気の名残みたいな白い湿り気が残り、給水用のポリタンクは朝の冷たさをそのまま抱えて並んでいる。

遠くでは発電機の唸る音。近くでは、誰かが紙コップを重ねる乾いた音。


いつもと同じ。

——のはずだった。


けれど、広場の空気は、なぜか一枚薄い布をかけられたみたいに静かだった。

笑い声はある。咳もある。足音もある。

でも、それらの間に落ちる“間”だけが、妙に深い。


光子はホワイトボードを立てながら、ふと眉を寄せた。


「……なんか、今朝、静かやね」


優子は返事をしなかった。

返事の代わりに、広場の端を見た。


椅子が一脚、空いていた。


古い折りたたみ椅子。背もたれの布が少したるんでいて、昨日まではそこに、坂本さんが腰かけていた。

給水のあと、息を整えながら座って、みんなが“ドン・ドン・グルグル”をするのを、照れくさそうに足先だけで真似していたおじいさん。

「若いもんがよう考える」と笑って、でもちゃんと最後まで見ていた人。


その椅子の上に、今日は誰もいない。


そこへ自治会長がやって来た。

帽子を胸の前で持ち、足音まで遠慮するみたいに近づいてくる。


「……おはようございます」


声が、朝の空気に少しだけ沈んだ。


光子が顔を上げる。

「おはようございます。どうしたと?」


自治会長は一度、空いた椅子を見た。

それから、二人を見た。


「……坂本さんが、夜中に」


その先を急がない言い方だった。

でも、その短さのほうが、かえって分かってしまう。


優子の喉が、からりと鳴った。


昨日の午後。

給水の列で、坂本さんは紙コップを受け取りながら笑っていた。

『嬢ちゃん、わしはまだ平気たい。もっと大変な人に回してやって』

優子は「平気やなかです。半分でも飲んで」と返して、坂本さんは「ほんなら、嬢ちゃんの言うことだけ聞いとくか」と照れた顔で一口飲んだ。

その皺の寄り方まで、急にはっきり思い出される。


光子が静かに尋ねた。

「……苦しまれましたか」


自治会長は首を横に振った。


「眠るように、やったそうです。夜中に見回った看護師さんが気づいて……心臓が、もともと悪かったみたいで」


誰も悪くない。

けれど、誰の胸にも小さく刺さる言い方だった。


助かったはずだった。

津波も、倒壊も、あの夜も越えて、ここまで来た。

なのに命は、別のところから、静かにほどけていく。


しばらく、三人とも黙った。


やがて光子が、低い声で言った。


「……今日のリトミック、変えよう」


優子はやっと声を出した。

「うん。今日は……元気出していこう、の日やなかね」


自治会長が、ほっとしたようにうなずく。

「ありがとうございます。みんなも、たぶん……どう始めていいか分からんでおるけん」


光子はホワイトボードの予定表を消し、書き直した。


【朝の会】

・座ったままの呼吸

・水分確認

・夜の見回り共有


いつもの「あしポンプのうた」は書かなかった。



広場に人が集まり始める。

高齢者、母親たち、抱っこされた乳児、眠そうな子ども、毛布を肩にかけた若者。

みんな、どこかで空いた椅子に気づいている。

でも、誰もそこを見続けない。見たら何かが決まってしまう気がするからだ。


優子はシェーカーを持ったまま、いつもの出だしの言葉を飲み込んだ。


「はい、今日も元気に——」


そこまで言いかけて止まる。

代わりに胸の前で両手を重ね、小さく息を吸った。


「……今日は、座ったままでよかです。息だけ、みんなで合わせましょう」


光子が鍵盤ハーモニカを膝に置き、音を鳴らさずに言葉だけでリズムを取る。


「吸って……二、三、四、五、六」


広場のあちこちで、肩が少し持ち上がる。


「止めて……一、二」


そして優子が、昨日よりもっと柔らかい声で続ける。


「吐いて……二、三、四、五、六、七、八」


長く、長く、息が出ていく。

冷えた朝の空気の中に、人の体のぬくもりが白く溶けていくみたいだった。


三回目の呼吸のあと、光子が空いた椅子のほうを見て言った。


「今日は……坂本さんのぶんまで、ゆっくり息を吐こう」


その瞬間、広場のどこかで鼻をすする音がした。


子どもが一人、母親の袖を引く。


「ねえ、坂本さん、きょうはトントンせんと?」


母親は困ったように唇を噛む。

答えられないでいると、優子がしゃがんで目線を合わせた。


「うん。今日はね、坂本さん、お休みの日なんよ」


「じゃあ、また来る?」


子どもの問いは、残酷なくらいまっすぐだった。

優子は一瞬だけまぶたを閉じた。


「……ここには来れんかもしれん。でもね、坂本さんがしてくれた“ゆっくりでよかよ”は、今日もここにある」


子どもは少し考えてから、小さくうなずいた。

完全には分かっていない顔だった。

でも、それでよかった。分かりすぎるには早すぎた。



朝の会が終わったあと、看護ボランティアの女性が記録用紙を持って駆け寄ってきた。


「光子さん、優子さん、ちょっと見てもらえますか」


簡易テーブルに広げられた紙には、避難所の高齢者の水分摂取量と入浴状況が書かれていた。

数字は、思っていたより低かった。


「……こんなに少なかったと?」光子が言う。


看護師はうなずく。

「とくにお年寄りが。“若い人が先でいい”“トイレが近くなるけん飲まん”って遠慮して、減っとるんです」


優子の表情が固くなる。

「お風呂も……」


「“もっと汚れた人が入ればいい”って。譲り合いが、逆に体を削っとる」


それは責めようのない現実だった。

優しさや遠慮が、そのまま命を細くしてしまう。


光子が、思わず机に手をついた。


「……私たち、導線ばっかり考えとった。ちゃんと回るように、詰まらんようにって。でも、“譲りすぎる人”のことまで拾い切れてなかった」


優子はしばらく黙っていたが、ぽつりと言った。


「昨日、坂本さんに、もう一杯どうですかって聞いたとよ。そしたら“平気”って笑って……うち、その“平気”を、二回は聞かんかった」


看護師は首を横に振った。


「違います。優子さんが声をかけたけん、飲めた分もあったはずです。

でもね、災害のあとって、“大丈夫です”って言う人ほど危ないことがあるんです」


そこへ上官が入ってきた。

話の空気を見て、すぐに察したようだった。


「……坂本さんのこと、聞いた」


光子は振り向かずに言う。

「上官。私たち、足りんかったです」


「違う」


言葉は短く、まっすぐだった。


上官はテーブルの端に立ち、記録用紙を見下ろした。


「お前たちがいたから、今日まで持ちこたえた人もおる。

だが、それでも落ちる命はある。災害は、そういう理不尽まで連れてくる。

“助かった”と“救われた”は、同じじゃない」


誰もすぐには返せなかった。


上官は続けた。


「だから必要なのは、自分を責めることじゃない。拾い方を変えることだ」


光子が顔を上げる。

その目には、悔しさと、まだ消えていない火が同時にあった。


「……拾い方」


「そうだ。“大丈夫”を一回で信じるな。遠慮して後ろに下がる人間ほど、先に見ろ。

目立つ苦しさだけじゃない。静かな危なさを拾え」


優子が小さく息を吸う。

その言葉は、責めるためではなく、これからの手順として落ちてきた。



午後。

掲示板の紙が新しく貼り替えられた。


太いマジックで、最初にこう書かれている。


遠慮は、命を削ることがあります


その下に、五つの項目。


1. のどが渇く前に飲む

2. 持病は“迷惑”ではなく“情報”

3. しんどさは小さいうちに言う

4. 夜も見回る

5. 「大丈夫」は一回では信じない


人が足を止め、文字を読む。

笑う人はいない。

でも、みんなちゃんと読む。

その静けさは、無視ではなく受け止める静けさだった。


さらにその横に、優子が小さな字で付け足した。


「譲るやさしさ」と「受け取る勇気」は、どっちも大事です


それを見たサチさんが、濡れた手ぬぐいを肩にかけたまま言う。


「受け取る勇気ねえ……ほんなら今日、お風呂、一番に入ってよか?」


光子がすぐに笑った。

「もちろん。今日は“遠慮せん選手権”の優勝候補です」


サチさんも少しだけ笑う。

その笑いは小さい。

でも、昨日までの笑いと違って、ちゃんと喪失を知ったあとの笑いだった。



夕方前。

光子と優子は、見回り表を作り直していた。


【夜間見回り】

・一人暮らし高齢者

・持病あり

・食事量少なめ

・水分少なめ

・“平気”が多い人

・家族と離れている人


優子がペンを止める。


「“平気”が多い人って、項目にすると刺さるね」


光子は苦く笑った。

「でも、一番見落としたらいかん人やけん」


少し間が空く。


優子がぽつりとこぼす。

「……うち、まだ、坂本さんの笑い方が頭から離れん」


「うん」


「昨日あんな近くにおったのに。手、届くところにおったのに」


光子はしばらく黙っていた。

それから、ペンを置いて言う。


「うちも思うよ。

でもね、優子。届かんかったことを忘れんでおることも、大事やと思う。

忘れんけん、次は二回聞ける。三回でも聞ける」


優子はうつむいたまま、小さく笑った。


「しつこいって嫌われるかも」


「命の前では、ちょっと嫌われるくらいがちょうどよか」


その言い方に、優子の肩がほんの少し緩む。



夜。

炊き出しの味噌汁の湯気が、詰所の灯りの中で細くのぼっていた。

二人は無言のまま汁をすすった。

味噌と出汁の温かさが、喉から胸へ、ゆっくり降りていく。


外では、子どもの声がする。

昨日までみたいな無邪気な調子ではない。

でも、それでも聞こえる。


「トントン……くるり・くるり……」


誰かが小さく真似し、誰かが笑い、また誰かが続ける。


光子と優子は顔を見合わせた。


「……つながっとるね」と優子。


「うん」と光子。


「でも今日は、ちょっと違うね」


「うん。今日のリズムは、“忘れん”リズムやね」


その言葉のあと、しばらく二人は何も言わなかった。


詰所の隅には、昼に子どもが置いていった折り紙がある。

鶴ではなく、少し歪んだコップの形だった。

そこに鉛筆で、たどたどしい字が書いてある。


『みず のんでね』


優子がそれを見つめて、ふっと笑った。

そして、その笑いのまま、少しだけ涙を落とした。



その夜、広場の見回りは一人増えた。

「休む人を見張る係」に加えて、今日から新しく

“遠慮をほどく係”

ができた。


声をかける。

座ってもらう。

もう一杯、飲んでもらう。

「先でいいです」を、そのまま通さない。


それは劇的な奇跡ではない。

けれど、静かな死を減らすための、確かな技術だった。


地の文:


——地震と津波を越えても、命はなお、静かに削られていく。

助かったのに、助けきれなかった命。

その現実は、広場の空気を一段深くした。


それでも人は、そこで立ち止まるだけでは終われない。

空いた椅子を覚えたまま、

次に座る誰かのために、毛布を整え、水をつぎ、声をかける。


「大丈夫」は、一回では信じない。

「遠慮」は、美徳の顔をした危険かもしれない。

そして——

命を守るとは、派手な救助だけではなく、

小さな我慢を見逃さないことでもある。


明日の広場で、光子と優子が最初に教えるのは、

足首回しでも、呼吸法でもない。


「しんどいと言ってよか」

その一言を、みんなの口に戻すことだった。








第十四章「見えない敵、土の匂い ― 咳の波と春の名残」


——九日目の朝。

広場の空気は、昨日までとは違う張りつめ方をしていた。


寒さでも、沈黙でもない。

耳をすませば、あちこちから細い咳が立つ。

ひとつ、ふたつ、みっつ。

誰かが咳きこみ、それにつられるように別の場所でも咳が出る。

吐き気をこらえるような息づかい。

鼻をすする音。

毛布の中で丸くなった子どもの額に置かれる手のひら。


見えない敵が、避難所の中を歩いていた。


優子は入口の消毒用アルコールの残りを見て、眉をしかめた。

透明な液は、もう底のほうで揺れているだけだった。


「……少な」


光子も横からのぞき込む。

「昨日の夕方で補充なかったもんね」


看護ボランティアが、疲れた目で近づいてくる。

マスクの紐が少し耳に食い込んでいた。


「夜のうちに、発熱が一気に増えました。子どもと高齢者が中心です。

下痢と嘔吐も出とる。インフルか、ノロか、両方か……まだ切り分けも追いつかんです」


その言葉は、地震速報みたいに鋭くはない。

けれど、聞いた人の足元を静かに冷やした。


「隔離スペースは?」と光子。


「もういっぱいです。毛布も足りない。手袋も少ない。

点滴も解熱剤も、全部節約しながら使うしかないです」


優子が小さく唇を噛む。

昨日は“遠慮”が命を削っていた。

今日は“接触”そのものが、命を脅かし始めている。



午前。

避難所の一角に、急ごしらえの感染対応スペースが作られた。


ブルーシートを垂らし、段ボールで仕切りをつくる。

入口には手書きで大きく書かれる。


発熱・咳・嘔吐・下痢のある方はこちら


だが、文字を書けば済む話ではなかった。

看病する家族は行き来する。

トイレは限られている。

水は貴重。

石けんも少ない。

着替えも足りない。


人が人を支える場所が、同時に人から人へ病を渡す場所にもなってしまう。


小さな男の子が母親の膝にぐったりともたれ、

「気持ち悪い……」と囁く。

別の隅では、おばあさんが何度も咳をして、

咳のたびに胸の奥の力まで削られていくようだった。


光子はマスク越しに声を張る。


「今日から導線、また変えます。

発熱の人、嘔吐のある人、元気な人、できるだけ分ける。

お世話する人も固定できるなら固定しましょう」


優子もホワイトボードに追記していく。


【新しい約束】

・症状がある人は遠慮せず申告

・看病の人はできるだけ少人数

・食前・排泄後は手洗い優先

・吐物処理は必ず声かけ

・水分は一口ずつでも続ける


書いている途中で、マジックのインクがかすれる。

それすら、資源が尽きていく感じに似ていた。



昼前。

炊き出しの鍋の前で、ため息が漏れる。


米はもう潤沢ではない。

缶詰も偏りが出始めている。

消化にいいもの、温かくて刺激の少ないものを出したくても、

材料がない。

おかゆを増やしたくても、塩も燃料も限られる。


「食べんと弱る。けど食べたら吐く。どうしたらよかと……」


炊き出し担当の女性が、しゃもじを握ったままつぶやく。

その声には、料理の悩みというより、

“目の前の人を生かしたいのに手が足りない”苦しさがにじんでいた。


優子は鍋をのぞき込みながら言う。


「今は“食べる”より、“入る”を優先しよう。

ひと口でも飲める汁、ひと匙でも口に入る柔らかさ。そこからでよか」


「でも、その“汁”に入れるもんがなかよ……」


そのときだった。


外から、ざわめきが近づいてきた。


車の音。

軽トラックのエンジン。

土を揺らすような低い音。


誰かが入口から顔を出して叫ぶ。


「野菜や! 野菜が来た!」



広場の空気が、一瞬だけ動いた。


避難所の前に、泥のついた軽トラックが二台、止まっていた。

荷台にはコンテナ。

その中に、土のついた大根、白菜、ねぎ、にんじん、ほうれん草。

形は不揃いで、葉は少し傷んだものもある。

けれど、それはたしかに“畑のもの”だった。


運転席から降りてきたのは、近隣集落の農家の夫婦と若い息子だった。

顔に疲れはある。

服の裾には乾いた泥。

でも、その目には妙な強さがあった。


「うちの畑、海から少し高かったけん、津波は免れたんです」

年配の男性が帽子を取って言う。

「全部は守れんかったばってん、掘れた分だけでも持って来ました」


誰かが息をのむ。


野菜は、ただの食材ではなかった。

それは“まだ土が生きている”という報せだった。

海にのまれ、家が壊れ、人が倒れ、病が広がる中でも、

どこかの土はちゃんと根を抱いていた。


優子が荷台に近づき、思わず白菜に触れる。

ひんやりして、重くて、葉の間に少しだけ土が残っている。


「……生きとる匂いやね」


光子も大根を持ち上げて、目を丸くした。

「重た。すごい。ちゃんと“重さ”がある」


農家の奥さんが少し照れたように笑う。


「見た目は悪かです。でも味はちゃんとしとるけん」


「見た目が悪いとか、今いちばんどうでもよかです」

光子が言うと、周りに小さな笑いが起きた。


久しぶりに出た、食べものを前にした笑いだった。



その場で、急きょ“野菜会議”が始まった。


炊き出し担当、看護師、自治会長、光子、優子、自衛隊の上官。

みんなでコンテナを見下ろしながら、

何をどう使うかを詰めていく。


「発熱の人には、脂っこいのは無理」

「吐き気がある人には、やわらかく煮た汁」

「下痢の人には、刺激なし」

「元気な人向けも少し要る。看病する側が倒れたら終わる」

「刻む人手は?」

「子どもらでも、ねぎちぎるくらいはできる」


上官が言う。


「燃料は節約したい。だが、今日は優先して鍋を回そう。

野菜を煮る。塩は薄くていい。温かい汁に意味がある」


農家の息子が、少し前に出た。

高校生くらいだろうか。手の甲に土が入り込んでいる。


「大根葉も食えます。捨てんでください。刻んで入れたら栄養あります」


その一言に、炊き出し担当の女性の目が潤んだ。


「ありがとね……ありがと。もう“捨てんでいい”って言葉だけでありがたい」



午後。

避難所じゅうに、包丁の音が響き始めた。


トントン。

ザク、ザク。

白菜の芯が割れる音。

ねぎの青い匂い。

大根の皮をむく手元。

土を落とす水音。


感染の広がる避難所にあって、

その時間だけは、場に別のリズムが戻ってきた。

咳の波とは違う、生きるための音だった。


子どもたちも、できることを探して動く。


「ねぎ、ちぎる!」

「にんじん洗う!」

「葉っぱ、わける!」


もちろん全員ではない。

熱で寝込む子もいる。

嘔吐で顔色の悪い子もいる。

けれど動ける子は、自分の小さな手を使って、

“役に立つ”という感覚を取り戻していく。


優子は手を洗ったあと、子どもたちに向かって言った。


「今日はリトミックは短めにして、代わりに“きざむテンポ”でいこうか」


光子がすぐに乗る。


「トン・トン・トン、包丁は大人。

ちぎ・ちぎ・ちぎ、子どもチーム。

せーので、“いただきます”までつなぐよ」


歌うみたいに言うと、

張りつめていた場に少しだけ空気が通った。



鍋が煮え始める。


最初に立ち上るのは、大根の甘い匂い。

次に白菜。

ねぎの青い香り。

少し遅れて、にんじんの土っぽい甘さ。

それらが湯気の中で混ざり合い、

避難所の空気にひさしぶりの“家庭”を戻してくる。


「……野菜の匂いって、こんなに安心するんやね」

優子がつぶやく。


光子は鍋を見つめたままうなずいた。


「土の匂いって、“明日も作れる”って匂いかもしれん」


最初の一杯は、感染対応スペースへ運ばれた。

熱のある子ども。

喉の痛い高齢者。

吐き気で食べられなかった人。

ひと口、ふた口。

ほんの少しでも、あたたかい汁が喉を通る。


午前中、ぐったりしていた男の子が、

スプーンを口に運ばれて、

小さく言った。


「……あまい」


大根の甘さだった。

砂糖ではない、畑の甘さ。


その一言に、母親が泣きそうな顔で笑う。


「よかった……よかった、食べれた」



夕方。

感染は収まっていない。

むしろこれからが本番かもしれない。

薬も足りない。

手袋も少ない。

食料もまだ不十分。

夜になればまた熱が上がる人も出るだろう。


現実は、少しも甘くなっていない。


それでも、広場の真ん中に置かれた鍋から立ちのぼる湯気は、

たしかに何かを変えていた。


それは“全部大丈夫になる希望”ではない。

もっと小さい。

でも、確かな希望だ。


今日を越えるための湯気。

今夜をしのぐための汁。

明日も口に入れられるかもしれない、という感覚。


光子は紙コップに薄い野菜スープを注ぎながら言った。


「今日は、“勝つ”日やなか。

倒れきらん日やね」


優子が隣でうなずく。


「うん。“ゼロにせん日”。

食欲ゼロにせん、気力ゼロにせん、つながりゼロにせん」


サチさんが、その会話を聞いて笑う。


「相変わらず、言い方が現実的やねえ」


「現実が相手やけんです」

優子が返すと、また少し笑いが起きた。


弱った場に必要なのは、

大きすぎる希望ではなかった。

こういう、小さくて手渡せる言葉だった。



夜。

見回りの人数が増やされる。

感染スペースの前には洗面器と希釈した消毒液。

手洗いの順番。

嘔吐時の対応。

水分補給の時間。

子どもの体温記録。

高齢者の尿量確認。

看病する側の休憩。


ホワイトボードの余白に、光子が新しく書いた。


今夜の目標:一人で抱えない


その下に優子が付け足す。


しんどい・吐いた・熱い・寒い

小さくても、言う


前章で覚えた「しんどいと言ってよか」が、

ここで別の重さを持ち始める。


咳も、嘔吐も、熱も、

隠したら美徳ではなく危険になる。



地の文:


——見えない敵は、瓦礫より静かに人を追い詰める。

咳の波。吐き気の波。

手を洗いたくても水が足りず、休みたくても寝床が足りず、

食べたくても食べられない。


それでもその日、

津波を免れた畑から届いた野菜は、

“生きのびる”という言葉に、もう一度具体的な形を与えた。


大根の重さ。

白菜の白。

ねぎの匂い。

にんじんの橙。

土のついたまま運ばれてきたそれらは、

世界がまだ完全には壊れていない証拠だった。


病は消えない。

悲しみも消えない。

物資不足も、医療不足も、すぐには埋まらない。


けれど人は、

鍋を囲み、湯気を分け合い、

ひと口の甘さに「まだいける」と思い直すことがある。


その夜、避難所に満ちていたのは、

薬品の匂いと、疲労と、咳と、

そして少しだけ——

土の匂いのする希望だった。




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