人間なのか、犬なのか。
私はごく普通のサラリーマンだ。名は犬山武史。中肉中背、細い銀のフレームの眼鏡をかけ、毎日スーツを着て出社している。
だが、いくらそう主張しても、世間は私をそう見てはくれない。頭部が犬、首から下は人間。私の身体構造はそうなっている。学生時代のあだ名は「犬頭」だった。
頭部は、ビーグル犬だ。お分かりだろうか、あの世界一有名なビーグル犬、閉所恐怖症で犬小屋に入らずに屋根の上でタイプライターを叩いている、あの彼によく似た頭部である。
施設育ちで、親の身元は分からない。故に、自分が犬頭である理由がまるで分からない。
「あっ、いたいた犬山さん!ちょうどよかった、会えたら言おうと思ってて」
午前中の仕事を終え、昼食に向かう途中、不意に後ろから声を掛けられた。私は犬の頭部を後ろへと巡らせ、声の方へと顔を向けた。
「佐伯さん。私に何か」
佐伯さんは、総務の女子社員だ。彼女はとても仕事熱心で、社員のほぼすべての情報がその可憐な頭部に収められていると言っても過言ではない。もちろん頭部は犬ではない。
「犬山さん、今年まだ健康診断受けてませんよね?ダメですよ、去年も体調不良とかですっぽかしたでしょ。今年こそちゃんと受けてくださいね」
めっ、というように、大きな丸い目でこちらを睨む。
かわいい。茶色く染めた細い髪がふわっと肩の辺りに広がって、まるでポメラニアン。
いや、それはともかく、健康診断……私はそっとため息をついた。
「やっぱり受けないといけませんか。苦手なんですが」
「分かりますけど、でもぶっちゃけ、健康診断大好きっ!って人なんかいませんよ。私だって、毎年歯を食いしばって体重計に乗ってるんですからね。……あ、もしアレだったら、人間ドックでもいいんですよ、もちろん!」
そう言ってにっこり笑う佐伯さん。アレってなんだ。
だが、不覚にも、彼女の言葉に心がざわめく。人間ドック……
まだ子供の頃、「犬頭は人間じゃない」と同級生にいじめられたことを思い出す。悲しく、悔しい思い出だ。あの頃は、大人になって人間ドックというものを受ければ、自分が人間なのか犬なのかがはっきりすると思っていた。
いや、もう大人だし、分かっているつもりだ。人間ドックは、そういうものじゃない。そもそもそれだと、「人間?orドッグ?」だろう。それでも、どうしても「人間ドック」と聞くと、あの頃のざわめきを思い出してしまう。
「人間ドック、ですか……」
「あ、そっちにします?お金かかりますけどね。でも健康診断よりちゃんと調べてくれるし、補助も出るからそこまでバカ高いってわけじゃないですよ。胃カメラデビュー、しちゃいます?」
「はあ……」
「まぁどっちでもいいので、早めに申し込みしてくださいねー」
軽く手を振って、佐伯さんはパタパタと社員食堂の方へ走っていった。私はぼんやりとその後ろ姿を眺めながら、人間ドックについて思いを巡らせていた。
健康診断より、ちゃんと調べてくれる?本当だろうか。何について?犬の頭部について?
もしかすると「その頭部について、一度しっかり調べておきましょう」と言われるかもしれない。それならまだしも「あなたは犬ですよ。え、もしかして今まで人間だと思ってたんですか、図々しい」などと言われるかもしれない。その場合、いったいどうやって立ち直ればいいのか。
やはり、健康診断にしておくべきかもしれない。去年はすっぽかしたが、毎年かかりつけの医院で受けている、無難な健康診断。
だがあの医師には、会うたびに「犬神さん」と間違えた名前で呼ばれる。わざとではないのかもしれないが、呪いでもかけられそうで、あまり気持ちのいいものではない。
(うーん……悩むなぁ)
どちらにしても気が進まないなら、思い切って人間ドックを受けてみるか。本来の目的どおり、健康診断では気付かなかった病気の発見につながるかもしれないし。
それに、もしかすると、ほんとうにもしかするとだけど、先生から「あなたは人間ですよ。大丈夫、私が保証します」というありがたいお墨付きがいただけるかもしれない。まぁ……そんなことは、ないと思うけれど。
気は進まなかったが、佐伯さんにも言われたことだし、私はその日のうちに予約をして、人間ドックを受けることにした。
* * *
そして、その当日。私は指定された時間に人間ドックの会場に入った。朝早くからたくさんの人が、お揃いの薄いグレーの検査着でうろうろしている。私も初めての検査会場にそわそわしながら、彼らと同じ検査着に着替えた。
私の犬の頭部を見てギョッとする人もいたが、ほとんどの人は今しがた計ったばかりの自分の腹囲や体重、血圧などに気を取られ、それどころではない様子だった。
かくいう私も、血圧測定では、
「うーん、ちょっと高いですね。今日ちょっと寒いですからね、もう一度測りますか」
と首を傾げられ、何度も測り直しをされた。今までの健康診断では、特に問題点を指摘されることはなかったが、年齢を重ね、そろそろそういうお年頃ということだろうか。
視力も、右目だけ、ちょっと悪くなっていた。
「眼鏡、作り直した方がいいかもしれないです。でもその眼鏡、すごくかっこいいですね!」
「あ、そうでしょうか……特注なんです」
「でしょうね。ほら、お顔の形が特徴的だから。でも、とても眼鏡の似合うお顔立ちですよね」
そうなんだろうか。初めて言われた。
それにしてもなんだか、思ったよりも対応が普通過ぎて、逆に怖い。なんだろう、自分が知らない間に、犬頭はこんなにも世間に認知されていたのだろうか。
ひとつひとつ順番に検査項目を終え、辛く苦しい胃カメラも何とか乗り越えた。ついに医師から検査結果についての説明を受ける時間がやってきた。
「確認のため、お名前お伺いしていいですか」
「……犬山、武史です」
医師はチラリと私の方を見て、一瞬固まった。だがすぐに、何事もなかったかのように検査結果について説明を始めた。
「えーとね、ちょっと血圧高いですね。運動とかされてます?」
「いえ……できれば何かやりたいと思ってはいるんですけど、あまり時間もなくて」
「まあお忙しいとは思いますがね、昼休みとかにちょこっと体を動かすだけでも違いますよ。あとは、通勤の時に少し先のバス停まで歩いてみるとか」
「はぁ……そうですね、努力します」
私がそう答えると、医師は満足したように大きく二度ほど頷き、
「それ以外はまぁ、コレステロールちょっと高いですが、これくらいなら問題ないでしょう。ほかに、何か聞いておきたいこととかありますか?」
そういって私の方を見た。私は思わず「特にありません」と答えそうになり、慌てて表情を引き締めた。
今回、何のために人間ドックを受けたのか。この質問をするためだろう。自分自身にそう言い聞かせ、私は医師に向けて厳かに口を開いた。
「……あの、先生。私は今まで、ずっと分からなくて」
人のよさそうな丸顔に丸い眼鏡をかけた医師は、首を傾げた。
「ん?何がです?」
「その……私は、人間でしょうか。それとも、……犬なのでしょうか」
二人の間に、沈黙が落ちた。
私は早くも後悔していた。やはり聞くべきではなかった。こんなことにずっと心を煩わされている自分は、人間だとしても犬だとしても、あまり上等な生き物とは言えないだろう。医師の視線に耐え切れず、彼から目を反らして下を向いた。
「そうですねぇ……なかなか難しい質問ですねぇ」
―――――床を見つめる私の耳に、思いのほか朗らかな医師の声が届いた。
「少なくとも、犬ではないでしょうね。犬はあなたみたいなすてきな眼鏡をかけたりしませんよ。かといって、人間かというと、それもまた悩ましい。となると」
「……と、なると?」
優しい響きを持った医師の言葉に励まされるようにして、私は思わず顔を上げた。彼は丸顔に笑みを浮かべ、私にこう告げた。
「ジンガイ、じゃないでしょうか」
「え、ジンガイ?」
「そう、人外。鬼とか天狗とか、いるでしょ?ああいった感じの。かっこいいですよね、人外。そう思いませんか」
「人外……そ、そうですか、人、外……」
思ってもいなかったことを言われてしまった。だが、妙に納得してしまう自分がいた。
「そう、せっかくすてきな頭部を持ってるんですから。これからは、かっこいい人外でいきましょう!……いや、そんなことよりも、ちゃんと運動してくださいね。朝とかお昼休みとか、三十分くらいでもいいですから。よりかっこよくなりますよ」
そんな感じで、医師との面談は終わった。私は、なんだかちょっとぼんやりしながら、検査着から私服へ着替え、家に帰った。
* * *
人間ドックの、次の日。私は、妙に気持ちが楽になっていることに気付いた。
人間ドックを受けるのがプレッシャーで、このところずっと気が重かったから、というだけでもない。何かこう、目の前にかかっていたもやのようなものがすっきりと取り払われ、その向こうに青空が見えたような気持ちだった。
昨日、帰って来てからふと思い出して、クローゼットの奥にしまい込んでいたスニーカーを引っ張り出した。人気スポーツブランドの、ちょっとかっこいいヤツ。
今朝の出勤は、いつもの革靴の代わりにそれを履く。玄関横に取り付けた細長い鏡に、見慣れた自分の姿が映った。特注の銀のフレームの眼鏡をかけた、ビーグル犬の頭部をもった私の姿。
人間じゃない。犬でもない。
人外ってなんだよ。でもちょっと、かっこいい気がする。医師に乗せられた気もするが、それも悪くない。
顔を上げ、私はいつも通り、でもいつもとちょっと違う気持ちで外へ出た。
今日は、二つ向こうのバス停まで歩くのだ。
end




