雨見窓(あまみまど)――晴れの日だけ降る部屋
転勤で借りたワンルームは、川沿いの古いアパートだった。
内見のときから気になっていたのは、南向きの大きな窓だ。外はからりと晴れているのに、ガラスはいつも曇っている。四隅のコーキングは少し黒ずみ、窓枠の下には薄い水筋が何本も走っていた。
入居初日、カーテンレールに小さな紙切れがテープで貼り付いていた。
ペンで一行、殴り書き。
拭くな。晴れの日は特に。
悪戯だと思った。
古い雑巾でガラスを磨くと、曇りはあっさり消えた。
途端に、窓の向こうに雨が降り出した。
外は相変わらずの快晴なのに、ガラスの向こうだけ、静かな雨。
街路樹の葉が濡れ、アスファルトに水輪が広がる光景が、薄い膜の奥でゆっくり揺れている。拭いた範囲が広いほど、雨の画面も広がる。
一歩下がって見直すと、その“景色”は、ここから見える川べりの並木に似ているが、看板の形が少し違っていた。数年前の風景写真を見ているような差で、しかし生々しかった。
夜になっても、窓は雨を降らせ続けた。
蛍光灯を消して寝転がると、部屋の暗がりの中で雨粒が淡く光った。
眠りに落ちる前、ふと思い出す。
あの紙切れの文字は、貼られたままだった。
剥がすのを忘れたのに、なぜか気にならない。
気にならないことが、少し気になった。
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翌朝、出勤の支度でテレビをつけると、局地的なゲリラ豪雨の速報がテロップで流れた。
場所は、きのう窓の雨に見えた“看板のある交差点”の近くだ。
偶然だと思いながら、昼休みに会社の窓から外を見た。
雲一つない。
スマホのニュースは“局所的豪雨、排水溝あふれる”と写真付きで報じている。
“あの窓の中の雨と、時間がずれてここに来たのかもしれない”と、どうでもいい仮説を立てる。
帰宅する頃には忘れていた。
部屋の窓は相変わらず曇っていた。
雑巾を手に取りかけて、やめた。
曇っている状態が、昨日の雨の画面だ。
そっと指先で曇りを一筋だけ拭う。
細い帯状の晴れ間が生まれ、そこにだけ青空がのぞく。
ほかは雨のまま。
窓一枚のなかで、天気が二つに分かれている。
試しに、曇りの上に文字を書いた。
“あ”。
指の跡が透明になり、そこだけ雨が止んでいる。
ほどなくして、その細い晴れ間にも、また薄い水滴が集まり、文字はにじんで消えた。
三日ほど、何もしないで見ていた。
晴れの日ほど、窓はよく曇り、拭けばよく降った。
雨の日は逆で、曇りは薄く、拭いてもあまり変化がない。
窓のこちら側の湿度で決まるのかもしれない。
理屈は分からなくても、扱い方は分かってくるものだ。
週末、友人が遊びに来た。
見せびらかすつもりはなかったが、友人は窓を見るなり笑った。
「子どもの頃、ここら辺、よく冠水してたよね」
彼は指で曇りを拭って丸をつくる。丸い晴れ間の中で、ガラスの向こうの道に人影がひとつ現れ、傘もささずに歩き抜けた。
「合成?」
「分からん」
「面白いな」
彼は丸をいくつも作って遊び、帰っていった。
その夜、ニュースは“歩行者一時立ち往生”の映像を流し、画面隅の地図には、わたしのアパートから数ブロック離れた地点が赤く点滅していた。
わたしの窓の“丸い晴れ間”に似た未濡れの斑点が、道路の水面にぽつぽつ残っている。
窓で遊んだ時間と、雨の時間が、だいたい一致しているのに気づく。
偶然が重なると、急に偶然ではなくなる。
月曜、ポストに水道局からの連絡票が入っていた。
「先月比で使用量が少なすぎるため、検針員がお伺いしましたが不在でした。至急ご連絡ください」
少なすぎる?
自炊も風呂もしている。
検針票の使用量は、確かに前の住所よりも少ない。
わたしは窓のほうを見た。曇りの向こうで、ふたたび雨が降っている。
“ここで落ちるはずの水が、どこか別の場所に落ちている”――そんな言葉が、頭の中にだけ成立した。
カーテンレールの紙切れを取り外して、明かりに透かしてみる。
ペン跡の下に、消された細い字がいくつも潜んでいた。
場所の名前、日付、矢印。
“公園北側 12/3 → 商店街口”
“堤防補修区間 → 分散”
メモのような、配達表のような。
わたしは紙を元の場所に戻し、少しだけ位置をずらして貼り直した。
テープの古い糊が、指にねばついた。
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それから、わたしは窓の曇りを“扱う”ようになった。
濡れて困りそうな時間帯、駅前は拭かない。
砂埃が舞う工事現場に向けて、そっと横長に拭う。
配達ルートでもないのに、誰に頼まれたでもないのに、ただそうした。
やりすぎると、部屋の床に薄い水が溜まることがあった。
窓枠の下から、ぽたり、と一滴。
拭いた分だけ、ここに戻ってくるのだろうか。
雑巾で受けると、雑巾はすぐ重たくなる。
ベランダに干すと、乾くのが遅い。
ある晩、窓は最初から濃く曇っていた。
息を吹きかけたわけでもないのに、乳白色の膜が一面に張っている。
指で小さな穴を開けると、穴の奥に、見覚えのある青い傘が見えた。
わたしの傘だ。
ガラスの向こうで、わたしが歩いている。
一週間前の夜、川沿いの道を帰った時の歩き方と、おなじリズム。
穴を広げると、雨脚がいっそう強くなる。
画面の中のわたしは立ち止まり、こちらを見もしない。
その時、カーテンレールの紙切れが、ふっと床に落ちた。
拾い上げると、消されていた細い字が、湿気を吸って浮かび上がっている。
拭くな。晴れの日は特に。
ここは、借りている。
乾かしすぎると、戻ってくる。
“戻ってくる”の意味を、すぐには理解できなかった。
翌朝、窓際のフローリングが波打っていた。
踏むと、ぬちゃ、と音がする。
床下から水が上がってきている。
ベランダの排水は詰まっていない。
原因がわたしにあるのだと、考えたくなくても考えるほかなかった。
管理会社に電話をすると、担当者は慣れた声で言った。
「その部屋、以前の入居者さんも“窓の結露”で苦労されてましてね。梅雨前に退去されました」
「紙切れ、残っていましたか」
「ええ、何か注意書きが」
「捨てないでください」
受話器の向こうで、担当者は少し黙った。
「交換しますよ、窓。最新の複層ガラスにすれば、もう曇りません」
“曇らない窓”。
それはたしかに、問題をまるごと解決する方法だ。
同時に、わたしにとっての“窓の向こう”を、まるごと消す方法でもあった。
その晩、窓は何も映さなかった。
曇りは厚く、拭いても透明にならない。
代わりに、白い膜の上に、水道メーターの数字のような短い線が、規則的に増えていった。
一本、二本、三本。
拭いた数に比例するように。
わたしは雑巾を置き、照明を落として、窓に背を向けた。
冷蔵庫のモーター音が、やけに大きい。
明け方、部屋の空気が変わった。
湿った重さが静かに退き、かわりに薄い涼しさが入ってくる。
窓を振り向くと、白い膜の一部が自然に晴れ、そこだけ明るかった。
小さな公園の砂場が見える。
砂の表面には、雨がまだらに落ち、子どもの足跡のような窪みがぽつぽつできている。
画面の端で、水飲み場の蛇口が、ほんの少しだけ開いたまま揺れていた。
その日、管理会社から工事日程の連絡が来た。
一週間後、窓は交換される。
「当日は立ち会いをお願いします」
電話を切ると、汗がじんわり出た。
わたしはクローゼットの奥から、幼い頃に使っていたブリキのバケツを引っ張り出し、窓の下に置いた。
ガラスの縁から、一滴。
ぽたり。
バケツの底で、薄い音がした。
工事の朝、外は雲一つない。
作業員が脚立を立て、内側のカーペットと家具を養生する。
カーテンレールの紙切れは、引き出しにしまった。
窓枠にドライバーが当たる金属音が響き、ネジがひとつ、またひとつ外れる。
そのとき、町のサイレンが遠くで鳴った。
断水のお知らせ。
作業員が顔を上げる。
「今日は水道工事も入ってるんですかね」
彼は笑ってネジを外し続けた。
最後のネジが抜け、ガラスが少し傾いた。
白い膜が一瞬、波打ち、部屋の空気がひやりとした。
作業員がガラスを持ち上げる。
わたしは思わず、
「待ってください」
と言っていた。
理由は言えなかった。
彼は手を止め、怪訝そうにわたしを見る。
「このガラス、置いておけませんか」
「古いですよ。シールも切れてて曇りが抜けません」
「それでも、置いておきたいんです」
作業員は肩をすくめ、窓枠に新しい複層ガラスをあてがった。
古いガラスは壁に立てかけられる。
交換が終わるまでのあいだ、部屋の真ん中には、透明な四角と、曇った四角が二つ並んだ。
新しい窓は、見事に何も映さない。
空は青く、風が通り、音ははっきりした。
古いガラスは、相変わらず白く曇っている。
わたしはそれをカーテンの裏に寝かせ、ブリキのバケツを下に滑り込ませた。
ぽたり。
小さな音がして、気が楽になった。
断水は夕方には復旧した。
ニュースは“原因不明の広域断水”とだけ告げ、スタジオのアナウンサーは首をかしげる。
夜、カーテンの向こうから、冷たい気配が薄く漂ってきた。
わたしはカーテンを少しだけ開け、白い膜の上に人差し指で短い線を一本引いた。
一本だけ。
細い晴れ間に、遠くの交差点がにじみ、車のライトが雨粒に砕けた。
以後、わたしは“窓”を二つ持つことになった。
表の新しい窓は、外の天気をそのまま連れてくる。
裏の古い窓は、どこかへ雨を送って、少しだけこちらに戻す。
ブリキのバケツはゆっくりと重くなり、満ちる前に庭へ捨てる。
バケツの水は、甘くも苦くもない。
ただの水だ。
ただの水であることが、ときどき心強い。
晴れた休日、裏の窓を少しだけ拭いてから出かける。
遠くの団地の植木に、短い雨が落ちる。
わたしはそこを通らない。
帰り道、川べりのベンチは乾いている。
座って、川の水面を眺める。
風が落ちると、水平線の先に、見てはいけない写真のようなものが、ふっと現れ、すぐ消える。
あの紙切れは、今も引き出しの中にある。
“拭くな。晴れの日は特に。”
わたしは守らない。
けれど、やりすぎない。
窓のこちらと向こうのあいだに、一本だけ、見えない線を残す。
線は、ときどき、指先に触れる。
その手触りを確かめながら、わたしは眠る。
夜更け、ブリキの底に落ちる音。
ぽたり。
誰の名も呼ばない音。
ただの水の音。
それでいて、どこかが、少しだけ軽くなる音。
ぽたり。バケツの水面に、指でなぞったような文字が浮かぶ──『拭くな』。