水簿(みずぼ)――水が名を覚える町
町の蛇口は、夜になると名を呼んだ。
子どものころは、それが怖くて怖くて、寝る前にコップの水を全部、庭の土に返してから布団にもぐり込んだ。
盆の少し前、十年ぶりに帰郷した。
ダム湖の水位は例年より高いのに、町は節水を告げる貼り紙だらけだった。
「雨は降ったんだけどねえ」
駅前の古い銭湯を切り盛りする伯母が、タオルを絞りながら言った。
「水はたっぷりなのに、人さまに分ける水が足りないのよ」
伯母の銭湯は、名ばかりの共同浴場だ。常連しか来ない。
浴場の隅に、厚い木の板が立てかけてある。帳面ほどの大きさで、黒ずんだ表面に白い筋が浮かび、薄く掠れた字の跡が見えた。
「それ、何?」
「水簿。昔からの決まりもんだよ。うちの井戸を使う家は、ここに名前を書くの。順番に、ね」
伯母は淡々と答えた。
「今は水道があるじゃない」
「あるさ。でもね、ここでは水道より先に、名前が水を呼ぶの」
わからない、という顔をしたのだと思う。伯母は湯気の向こうを指さした。
浴槽の表面に細かな皺が寄り、ひらがなの「し」に似た線が、波紋の折り目に沿ってのぼり、ほどけ、消えた。
「昼は読めないの。夜だよ。夜の水は、静かだから」
伯母はそれ以上説明しなかった。
夕暮れ、伯母に頼まれて裏口の蛇口にホースをつなぐ。ホースの口から、かすかに甘い匂いがした。
この町の水は甘い――そう思い出した瞬間、幼い記憶が首筋を撫でた。夏の土の匂い、濡れた足音、川面の銀。
蛇口をひねる。水が躍り出て、地面に暗い花を咲かせた。
夜更け。蛍光灯の白い音だけが天井に残っている。
ひとしきり片づけを終えて、休憩室で伯母と麦茶を飲んだ。
「夜九時を過ぎたら、蛇口の言葉に返事をしないこと」
伯母が唐突に言った。
「昔からのね。返事をすると、順番がねじれるから」
「順番?」
「水は順番が好きなんだよ。人間よりもね」
その夜、洗面所の蛇口から、一滴ずつ落ちる音がした。
ぽた、ぽた、ぽた。
耳を澄ませると、間の取り方が妙に生きものめいている。
ぽた。
ぽた、ぽた。
ぽた……。
それが、文字になって聞こえた。
――つ、ぐ。
自分の名を、呼ばれた気がした。
返事はしなかった。
伯母の言いつけを守るためだけではない。
返事をしてしまうと、この町の水に、また掴まる気がしたのだ。
翌朝、鏡の前で顔を洗う。
冷たい水が皮膚の上で丸くなる。
水滴が滑っていく軌跡に、遅れてもう一つ、同じ軌跡がなぞられる。
鏡の中の自分の頬を、水だけが一拍遅れて濡らしている。
顔を上げる。鏡の中の水は、まだ落ちきっていなかった。
伯母に話すと、伯母は眉を下げた。
「外の水、見に行っておいで」
「ダム湖?」
「湖は遠い。まずは川だよ。昔、おまえがようけ遊んだやつ」
川筋は変わっていないのに、音が違っていた。
子どものころの川は、夏休みのざわめきを飲み込んで、笑っていた。今の川は、口を閉じている。
覗き込むと、水面に古い橋が映った。橋はもうないのに、そこだけ遺影みたいに残っている。
指先で水をはたくと、映っていた橋が揺れ、二つに折れた。折れ目が、ひらがなの「し」に見えた。
帰り道、背中に水の目玉が貼りついてくる感じがあった。
振り向いても、だれもいない。
風ではない。
呼吸に合わせて、見えない波紋が肩甲骨のあいだを往復していた。
その晩、銭湯は少しだけ客が多かった。
湯船の面に、客の名前が薄く浮く。
「よしお」「たえ」「あきこ」。
読み取れるほどはっきりせず、揺れと一緒にほぐれていく。
目を凝らしていると、湯の底の影が、いくつか足りない気がした。
この町にいるはずの影の数と、湯の数が合っていない――そんな計算をめちゃくちゃにするように、湯の表面がふっと沈み、持ち上がった。
伯母が湯かきを止めて、振り向いた。
「あんた、書いたかい」
「何を」
「水簿に。帰ってきた人は、順番に名前を書かなきゃいけないの」
初耳だ、と笑うほど、喉が湿っていなかった。
伯母は濡れた手の甲で額の汗を拭い、静かな声で言った。
「書かないと、水に気づかれない。気づかれない人は、乾いていくんだよ」
その夜、わたしの名は、洗面所の滴からは聞こえなかった。
ただ、滴の間隔は、やけに均等だった。
ぽた、ぽた、ぽた――秒針みたいに。
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水道局に勤める同級生の榎本に会った。中学のときから口数の少ないやつで、目はいつも水平線の高さにあった。
「甘い匂い、するだろ」
先に言われた。
「するよ」
「今年は特に濃い。ダムの底、水没村の墓地のところまで水が上がってる。雨が多かったからな」
「それと匂いが?」
「溶けるんだよ。土も、名前も」
榎本は、局の裏手の古井戸に案内してくれた。今は用途がないらしい。
井戸の縁に、爪で刻んだような小さな溝が並んでいる。
「昔は、ここで順番を決めた」
「順番?」
「水は、順番で配るものだ。誰に、いつ、どれくらい。順番から落ちた名は、水に乗らない。飲めない、洗えない、泣けない」
「泣けない?」
「涙も水だからな」
榎本は笑わなかった。
「水簿って知ってるか」
「伯母の家にあった」
「この町の家々にある。帳面っていうより、板だろ。水に強い木で作ってある。濡れるほど、字が残る」
「名前を書かないと、どうなる」
「誰もその人を『水越しに』思い出せなくなる」
「水越しに?」
「鏡、湯船、川面、ガラスに這った雨。そういうところから、人の記憶はよく立ち上がる。あれは水が手伝ってる。水がその人を覚えていれば、思い出もすぐ出る。覚えてなけりゃ、引っかからない」
榎本は井戸の底を覗いた。
「おまえ、帰ってきたのに、鏡の中で顔が遅れたろ」
わたしはうなずいた。
「水に、おまえが無いんだ」
銭湯に戻ると、伯母の姿が見当たらなかった。番台には近所の人が座り、客の出入りを見ている。
「伯母さんは」
「裏だよ」
裏口を開けると、伯母は水簿の前に座っていた。濡れ布巾で板を撫で、薄い白い筋を拾い上げるように指でなぞっている。
「消えていくんだよ、古い字から」
伯母は言った。
「乾いたところから消えるの。濡れているところは残る。だから、夜のうちに少しでも湿らせておくんだよ」
伯母の指先は皺だらけで、濡れて、ふやけていた。
「自分の名前を」
伯母は水簿の端を指で叩いた。
「書きな、継」
わたしは筆を持った。墨汁の瓶の蓋が固く、なかなか開かない。
力任せに捻ると、やっと回った。墨は薄く、かすかに甘い匂いがした。
「これも水だよ」
伯母が笑った。
わたしは、継、という二文字を書いた。
一画目の起筆で板が吸い、墨が広がる。
二画目は勝手に波紋に変わり、三画目は滲んで、名前の骨格だけが木の目に喰われた。
書き終わったはずなのに、字は完成しない。
「書いたのは、書きたいっていう水のほうだよ」
伯母が言った。
「人間の手が借りたいだけ」
夜が深まるにつれ、銭湯の湯は静かになった。
湯面に浮く名前の筋が、少し濃くなった気がした。
「継」
湯の奧で、だれかが呼んだ気がする。
振り向いても、だれもいない。
呼気が白くもならない夏なのに、背筋に薄い冷たさが垂れた。
朝、伯母は軽い忘れっぽさを見せた。
「タオルは、どこにしまってたっけ」
「いつもの棚」
「いつものって、どっちの」
伯母は笑って、また同じ場所を探し始める。
昼、客が来て、銭湯の屋号を言い間違えた。
「ここ、『さぎ湯』でしょ」
伯母は「いいえ」を言いかけて、口を閉じた。
屋号は「はね湯」だ。伯母はそれを忘れている。
「伯母さん、寝たほうがいい」
「大丈夫、大丈夫」
伯母は笑って、湯加減を見に行った。
笑いじわの形が、昨日よりも浅かった。
榎本に電話をした。
「水に覚えられてないのは、あんただけじゃない」
榎本が言った。
「伯母さんもだ。おまえが帰ったのと、たぶん同じ理由」
「同じ理由?」
「水簿は順番だ。戻る人は、戻る順番で書かなきゃいけない。伯母さん、自分の名を最後にして、おまえを先にしたろう。順番をねじった」
「どうすればいい」
「きちんと順番を戻せ。ねじれたところに、水は溜まる。溜まった水は、重くなる。重い水は、人を忘れる」
その夜、洗面所の滴は、また均等だった。
ただ、一滴だけ、間が長かった。
ぽた……。
ぽた、ぽた。
ぽた。
長い一滴のあとに、伯母の名の最初の音が、喉の奥にひっかかった。
言葉にはならなかった。
代わりに、鏡の中の水だけが、わたしより先に涙を流した。
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翌日、伯母は銭湯を休みにした。
「帳面を戻す」
伯母は言った。
「順番をね。わたしが先。それから、あんた」
わたしたちは水簿の前に座った。
伯母は指を濡らして、自分の名の跡を探った。
白い筋がひとつ、ふたつ、浮かんでくる。
ところどころ、筋が切れている。
「抜けてるとこは、昔のことだよ」
伯母は涼しい顔で言う。
「おまえが、川で溺れた日のこと」
言われて、思い出せないことを思い出した。
わたしは子どものころ、川で足を滑らせた。
流れは浅かったのに、うまく立ち上がれなかった。
だれかが手を伸ばして、わたしの首根っこを掴み、川面から引き剥がした。
水が肺から逆流して、喉が焼けるみたいに苦しかった。
そのあと、わたしは、長く眠った。
目を開けたとき、夏はまだそこにいた。
そのとき伯母は、わたしの名を水簿に重ね書きしたのだという。
「消えないように、ね」
伯母は笑った。
「水に覚えておいてもらうには、濡れてる文字がいちばん」
その笑いの皺が、ふっと消えた。
「それで、あんたは、ここにいる」
伯母は言い、わたしの顔を見た。
「ずっといる」
伯母が言う「ずっと」がどこを指しているのか、わからなかった。
鏡の中の自分は、たしかにここにいる。
けれど、鏡の水は、わたしより一瞬だけ先に瞬きをした。
榎本が来た。作業着のまま、汗を拭きながら裏口に立った。
「ダムが放流する」
「危ないの」
「安全放流だ。ただ、底が揺れる」
榎本は水簿を見て、眉間に皺を寄せた。
「これ、いちど乾かしたほうがいい」
「乾かしたら、字が消えるよ」
伯母が言う。
「濡れてると、順番がずれる」
榎本は黙った。
「順番、戻せるか」
「戻すよ」
伯母は頷いた。
放流のサイレンが遠くで鳴った。
銭湯の湯が、ふっと軽くなる。
湯面に浮かぶ名前の筋が、ひとつ多く見えた。
「だれ」
わたしは言った。
「昔の人だよ」
伯母が答えた。
「水が、昔を思い出してる」
伯母は筆を持ち、ゆっくりと自分の名を書き直した。
墨は薄く、でも、今度は広がらなかった。
ひとかきごとに、波紋が小さく息をして、板に吸い込まれる。
次にわたしが筆を持った。
継、の最初の画で、墨が止まった。
止まった墨は、やがて反対向きに滑り出し、わたしの指先に戻ってきた。
「返されてる」
榎本が小さく言った。
「水に?」
「名に、だ。名は水の鏡だから」
伯母はわたしの手を取った。皺の深い、ふやけた手だ。
「継。あんたの名は、昔の夏からこっち側へ、渡ってきたんだよ」
「こっち側?」
「生きてるほう」
「……」
「あのとき、一度、向こうに行った。わたしが呼び戻した。だから、水の継と、土の継がいる。二つが、ずっと重なってる」
伯母は、わたしの指をそっと水簿に押し当てた。
「この板は、どっちも覚えてる。だから、順番がねじれる。だれかが忘れられる」
わたしは、子どものころの夏の匂いを嗅いだ。
一瞬だけ、川面が高くなり、陽の光が割れた。
割れ目から、向こう側の自分がこちらを見る。
向こうのわたしは、まだ水を飲み込んだまま、目を見開いている。
こちらのわたしは、肺が乾いている。
乾いた肺で、夏を吸い込む。
「どうすれば」
と、わたしは聞いた。
榎本は言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。
「片方を、板から外す」
「消すの?」
「忘れるわけじゃない。順番から、外す。水は順番を数えるだけだ。数から外れたものを、嫌うわけじゃない」
伯母がうなずいた。
「わたしが、外すよ。わたしは順番係だから」
伯母は、水簿の端に細い線を引いた。
線の下に、小さくこう書いた。
――渡り。
そして、わたしの名を、その下にもう一度書いた。
墨は波紋にならず、ただ、小さな黒の粒になって板に残った。
「これで、あんたは水の順番から離れる」
伯母は言った。
「鏡は少し遅れるけど、そのうち追いつくよ」
「伯母さんは」
「わたしは、順番に戻る。水はわたしを覚えてる」
その夜、洗面所の滴は、不揃いだった。
ぽた、ぽた……ぽた。
途中で一滴、じっと止まり、落ちないまま、重くなって、やっと落ちた。
鏡の中では、水もわたしも同時に瞬きをした。
呼吸がひとつ、深く入る。肺のどこかに、薄い水の膜がまだ残っている気がする。
それは嫌ではなかった。
翌朝、伯母は屋号を間違えなかった。
「はね湯、開けますよ」
常連たちは、いつものように湯船に沈み、いつものように小さな声で世間話をした。
湯面の名前の筋は、昨日より少なかった。
足りない、という感じはしない。
数える必要がなくなった水は、ただ温かく、ただ、濡れていた。
榎本は帰り際、裏口で立ち止まった。
「例の放流で、底が少し洗われた。古い名も、いくつか」
「消えた?」
「薄まった。思い出せるうちは、消えない」
榎本は、わたしの顔ではなく、わたしの肩に光る汗を見て言った。
「また甘い匂いがしたら、教えてくれ」
「わかった」
その日の夕方、川へ行った。
水は口を閉じている。けれど、耳を澄ますと、閉じた口の向こうで、ことばが回っている音がした。
わたしは靴を脱ぎ、足を入れた。
冷たさがくるぶしから上へ、人間の形に沿って這いあがり、胸の前で止まった。
水が、わたしの名を数えない。
わたしも、水の名を数えない。
そうすると、怖さは少しだけ、不思議に変わった。
夜、洗面所で顔を洗う。
水は皮膚の上で丸くなり、すぐに崩れる。
鏡の中の自分は、もう遅れない。
ただ一か所だけ、額の生え際のあたりで、水の反応が半拍早い。
そこに、線がある気がした。
線は、前に伯母が引いた、あの細い線の触り心地に似ている。
寝る前に、コップの水を庭に返す。
土は、音を立てずに飲み込む。
昔のわたしは、怖がってそうした。
今のわたしは、順番から外れた名の水を、土に戻すためにそうする。
土の下で、薄い甘さが遠のいていく。
蛇口が、一滴だけ落とした。
ぽた。
それは、だれの名でもなかった。
落ちた水は、床に小さな黒い粒のような跡を残し、すぐに乾いた。
翌朝、伯母はいつもどおり湯を沸かした。
わたしは番台の椅子に腰掛け、湯気の中に浮かぶ名前の筋を、ただ見ていた。
数えない、ということは、こんなに静かだ。
静けさは、胸の中で薄い膜になる。
水は、膜の上で息をする。
その息は、怖さの形をしているのに、どこか、やさしい。
――了