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淀見様の水影

 弟のいつきから連絡が途絶えて、今日でちょうど一週間が経つ。


 警察に届けは出したが、成人男性の家出として真剣には取り合ってもらえなかった。

 樹は昔から、民俗学やオカルトに傾倒していた。

 大学を卒業してからも定職に就かず、日本各地の因習や伝承が残る地を巡っては、それをブログに書き綴る生活を送っていた。


「姉ちゃん、今度の場所はすごいぞ」


 電話口で興奮気味に話していた樹の声が、今も耳の奥にこびりついている。


淀見村よどみむら。地図からも消えかかってるような限界集落だ。

 そこには、『淀見様』っていう、水にまつわる土着神の信仰が残ってるらしいんだ」


 私が「また変なところに行くのね」と呆れ混じりに言うと、彼は声を潜めてこう続けた。


「ただの神様じゃない。

 人を取り込んで、その人間の姿そっくりの『水影みずかげ』を作るんだと。

 村人は、それを神様の御業だって崇めてるらしい。やばいだろ?」


「水影って何?」


「そんな事もしらないのかよ。それは今度帰った時にでも教えてあげるよ」


 それが、樹と交わした最後の会話だった。


 樹のブログは、淀見村に到着した日の記事を最後に更新が止まっている。


『村の空気は、異常なほど湿っている。そして、水道の水が奇妙な味だ』


 その一文が、私の胸に黒い染みのように広がっていた。

 居ても立ってもいられなくなった私は、会社に無理を言って休暇を取り、樹の足跡を追って淀見村へ向かうことを決めた。


 樹が残したブログの情報を頼りに、私は車を走らせた。

 カーナビに目的地を入力しても、村の名前は出てこない。

 古い地図アプリが、かろうじて山奥へと続く一本の道を示していた。


 山道に入る頃には、霧雨が降り始めていた。

 ワイパーが規則的な音を立てて、視界を不明瞭にする灰色の雨を拭い去っていく。


 道はどんどん険しくなり、舗装は途切れ、両側から伸びる木々の枝が車体を擦る音を立てた。

 本当にこの先に、人が住む集落があるのだろうか。


 不安が頂点に達した頃、不意に視界が開けた。


 そこが、淀見村だった。


 谷間にひっそりと寄り添うように、数件の古びた家屋が点在している。

 村の中央には、よどんだ緑色をした沼のような貯水池があった。

 霧雨のせいか、村全体が水の中に沈んでいるような、異様な静けさに包まれていた。


 私は、村で唯一の宿泊施設だという「水月荘」という古い旅館の前に車を停めた。


 樹も、きっとここに泊まったはずだ。


 *


「ごめんください」


 呼び鈴もない寂れた玄関で声を張ると、奥からゆっくりと襖が開いた。

 現れたのは、老婆だった。

 深く刻まれた皺の一つ一つが、この村の湿気を吸い込んでいるかのように見える。


「……お客さんかい。珍しいねぇ」


 しゃがれた声でそう言うと、老婆は私を値踏みするように、じっとりと濡れたような瞳で見た。


「弟を探しに来たんです。数日前にこちらへ来たと思うのですが」


 私が樹の写真を見せると、老婆は少しだけ目を見開いたが、すぐに無表情に戻った。


「さあねぇ……。うちは出入りが多いから。覚えてないよ」


 明らかに、何かを隠している口ぶりだった。

 それでも、他に手がかりはない。私はこの水月荘に泊まることに決めた。


 通された部屋は、二階の角部屋だった。

 畳は湿気でたわみ、歩くたびにぎしりと悲鳴を上げる。

 壁には、水が滲んだような黒い染みが、不気味な紋様を描いていた。

 そして、部屋の隅々から、黴と淀んだ水が混じり合ったような、甘ったるい匂いがした。


 荷物を置き、私はすぐに村の散策に出た。

 何か、樹の手がかりが見つかるかもしれない。


 村は、想像以上に静かだった。

 すれ違う村人は数人しかいなかったが、誰もが私を奇妙なものを見る目で一瞥し、すぐに顔を背ける。

 彼らの肌は一様に青白く、まるで水気を吸いすぎた紙のようにふやけて見えた。

 そして皆、一様に口数が少ない。

 まるで、口を開けば、体内に溜め込んだ水が溢れ出てしまうのを恐れているかのようだった。


 *


 村の中央にある貯水池のほとりに立った。

 樹がブログに書いていた場所だ。

 水面は鏡のように静まり返っていたが、その色はどこまでも深く、濁っていて、底が見えない。

 引き込まれそうな恐怖を感じ、私は思わず後ずさった。


 その時だった。

 貯水池の縁に、何かが落ちているのに気づいた。


 近づいてみると、それは一台のデジタルカメラだった。

 泥にまみれていたが、見覚えがある。

 樹が、いつも首から下げていたものだ。


 胸が激しく高鳴った。

 私は震える手でカメラを拾い上げ、電源を入れた。

 幸いにも、データは無事だった。


 最後の写真データを開き、私は息を呑んだ。


 そこに写っていたのは、貯水池の水面だった。

 しかし、ただの水面ではない。

 その表面が、まるで人間の顔のように、いくつも、いくつも、歪に盛り上がっているのだ。

 それはまるで、水底から無数の人々が、こちらへ這い上がろうとしているかのような、おぞましい光景だった。


 ザアァァァ……


 突然、雨脚が強くなった。

 レンズに残っていた雨粒のせいではない。

 写真の中の「顔」が、一斉に、こちらを向いた気がした。


 私は悲鳴を上げてカメラを落としそうになった。

 樹は、これを見てしまったのか。


 *


 旅館に戻ると、私の部屋の前に、あの老婆が立っていた。


「あまり、あの貯水池には近づかないほうがいいよ」


 老婆は、感情の読めない瞳で私を見つめて言った。


「淀見様が、お怒りになるからねぇ」


 淀見様。

 樹が言っていた土着神の名前だ。


「淀見様って、何なんですか。弟の失踪と、何か関係があるんですか」


 私が問い詰めると、老婆はゆっくりと首を横に振った。


「さあねぇ……。あの子は、知りすぎてしまったのかもしれないねぇ。

 この村のことわりを」


 そう言うと、老婆は踵を返し、廊下の闇に消えていった。


 部屋に戻り、私は鍵をかけた。

 カメラの画像をもう一度確認する勇気はなかった。

 ただ、あの水面の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。


 夜になった。

 雨は、さらに激しさを増している。

 窓ガラスを叩きつける雨音が、まるで誰かが部屋の外から爪を立てているように聞こえて、不気味だった。


 私は布団に入ったが、一睡もできなかった。

 部屋の湿度はさらに増し、シーツがじっとりと肌にまとわりつく。

 あの甘ったるい水の匂いが、濃くなっている。


 コン……コン……


 その時、ドアをノックする音がした。

 こんな夜更けに、誰だろうか。


「……どなたですか?」


 返事はない。

 ただ、ドアの向こうに、誰かが立っている気配がする。


 ピチャン……


 ドアの下の隙間から、水が滲み出てきているのが見えた。

 一滴、また一滴と、黒ずんだ水が部屋の内側へと侵入してくる。


 ピチャン、ピチャン、ピチャン……


 その音は、次第に大きくなり、やがて、人の声のように聞こえ始めた。


『……あ……け……て……』

『……さ……む……い……』


 女のような、子供のような、くぐもった声。

 それはドアの向こうからではない。

 私の部屋の中にある、あらゆる「水」から響いてくるのだ。


 洗面台の蛇口から。

 飲みかけのペットボトルから。

 そして、私の体内の、水分そのものから。


 私は耳を塞ぎ、叫び声を押し殺した。

 助けて。誰か。

 しかし、声は喉の奥で水音に変わり、言葉にならなかった。


 ガタガタと震えながら、私はバスルームに目をやった。

 ドアが、ゆっくりと、ひとりでに開いていく。


 暗いバスルームの奥。

 固く締めたはずの蛇口から、黒い水が糸を引くように滴り落ちていた。


 その水滴が、床に落ちて、一つの形を成していく。


 最初は小さな水たまりだったものが、次第に盛り上がり、人の輪郭を帯びていく。

 それは、まるで粘土をこねるように、不定形に蠢きながら、人の姿を模倣していく。


 腕が伸び、足が生え、やがて、のっぺりとした顔に、目鼻が浮かび上がった。


 そこに立っていたのは、全身が濡れそぼった、幼い少女だった。

 しかし、その体は半透明で、向こう側の壁が透けて見える。

 それは、水で作られた、人の形をした何か。

 これが樹が言っていた、「水影」だったのだと、


 少女の水影は、虚ろな目で私を見つめ、一歩、また一歩と近づいてくる。

 床には、少女が歩いた跡に、ぬめりのある水たまりが残った。


『……あ……そ……ぼ……』


 その唇が動いた時、私は見てしまった。

 少女の口の中に、歯の代わりに、小さな黒い魚がうごめいているのを。


 恐怖が限界を超え、私は気を失った。


 *


 意識を取り戻した時、私は自分の部屋の布団の上にいた。

 朝の光が、障子を通して部屋を白く照らしている。

 昨夜の出来事は、全て悪夢だったのだろうか。


 しかし、畳の上には、あの水影が歩いた跡が、黒い染みとなって生々しく残っていた。

 あれは、現実だったのだ。


 私は荷物をまとめ、一刻も早くこの村から脱出しようと決めた。

 樹のことは気になる。

 でも、これ以上ここにいたら、私も「あれ」に取り込まれてしまう。


 部屋を出て、階段を降りようとした時だった。

 階下から、話し声が聞こえてきた。

 宿の老婆と、男の声だ。


「……あの女、気づき始めたようだ」

「時間の問題だろう。淀見様は、新しい器をお望みだ」

「樹とかいう小僧の時は、随分と抵抗してくれたからのう。今度のは、どうかな」


 全身の血が凍りついた。

 彼らは、全て知っているのだ。

 樹の身に何が起きたのかも。

 そして、今度は私を狙っていることも。


 私は音を立てないように後ずさり、裏口から逃げ出すことにした。

 幸い、裏口には鍵がかかっていなかった。

 雨はまだ降り続いている。私は降りしきる雨の中へ飛び出した。


 車まで、あと少し。

 鍵を開け、運転席に乗り込もうとした、その時。


「どこへ行くんだい?」


 背後から、老婆の声がした。

 振り返ると、そこには宿の老婆と、村で見た男たちが数人、静かに立っていた。

 彼らの顔には、何の表情もなかった。

 ただ、その瞳だけが、水底のような昏い光を宿して、私を捉えていた。


「あなたは……あなたたちは、人間じゃない……!」


 私が叫ぶと、老婆は、初めて口元を歪めて笑った。

 その笑顔は、ひどく歪で、人間離れしていた。


「我らは、淀見様に選ばれた、この土地の理そのものだよ」


 次の瞬間、老婆の体が、ぐにゃりと崩れ始めた。

 その輪郭は曖昧になり、足元から水へと変わっていく。

 他の男たちも同じだった。

 彼らの体が、次々と黒ずんだ水たまりへと変貌していく。


 彼らは、村人全員が、既に「水影」に成り代わっていたのだ。


 水たまりは一つに集まり、巨大な奔流となって私に襲いかかってきた。

 私は悲鳴を上げ、夢中で車に乗り込み、エンジンをかけた。

 タイヤがぬかるみで空転する。

 背後では、水の塊が津波のように盛り上がり、車の後部座席の窓を叩き割った!


 冷たい水が、車内になだれ込んでくる。

 その水の中に、無数の苦悶の表情を浮かべた顔が見えた。

 取り込まれた人々の、成れの果てだ。


『……おいで……』

『……ひとり……は……いや……』


 水が私の足首に絡みつき、体温を奪っていく。

 意識が、遠のいていく。


 その時だった。


『姉ちゃん、逃げろ!!』


 幻聴だろうか。

 樹の声が、はっきりと聞こえた。


 その声に、私は最後の力を振り絞った。

 アクセルを、床が抜けるほど強く踏み込む。

 タイヤが地面を掴み、車は絶叫のようなエンジン音を上げて、急発進した。


 *


 どれくらいの間、無我夢中で車を走らせたのだろうか。

 気づけば、あの鬱蒼とした山道は抜け、見慣れたアスファルトの国道に出ていた。

 降り続いていた雨も、いつの間にか止んでいる。


 バックミラーを覗き込む。

 あの村の入り口を示す、朽ちかけた看板が、急速に小さくなっていく。


 逃げられた。

 本当に、逃げ切れたんだ。


 安堵から、全身の力が抜けていく。

 涙が、あとからあとから溢れてきた。

 樹を助けられなかった悔しさと、生き延びたことへの安堵が、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。


 私は路肩に車を停め、しばらくの間、ハンドルに突っ伏して泣き続けた。

 あの村で起きたことは、現実だったのだろうか。

 今となっては、全てが悪夢のようだ。


 少し落ち着きを取り戻した私は、喉の渇きを覚えた。

 そういえば、昨夜から何も口にしていない。

 助手席に置いてあった、家から持ってきたミネラルウォーターのペットボトルを手に取った。


 キャップをひねり、私はそれを一気に煽った。

 乾ききった体に、冷たい水が染み渡っていく。


 ああ、おいしい。

 普通の、ただの水が、こんなにも美味しいなんて。


 そう思った、瞬間だった。


 ゴポッ。


 喉の奥から、奇妙な音がした。

 まるで、水の中で空気が弾けるような音。


 ん……?


 私は、自分の手に持っているペットボトルを見た。

 ラベルの貼られた、ごく普通のミネラルウォーターだ。

 しかし、その中身が、ほんのわずかに、黒く濁っているように見えた。


 まさか。

 そんなはずはない。

 これは、家から持ってきた水だ。

 あの村の水じゃない。


 ドクン、と心臓が大きく跳ねた。

 恐る恐る、バックミラーで自分の顔を見る。


 そこに映っていたのは、恐怖と疲労でやつれた、私の顔だった。

 大丈夫。何も変わったところはない。


 ほっと、息をついた、その時だった。


 鏡の中の私が、ゆっくりと、にたりと、笑った。

 私自身は、笑っていないのに。


 そして、鏡の中の私の瞳が、まるで水面のように、ゆっくりと揺らめいた。

 その奥に、暗く、よどんだ水底が見える。


 ピチャン。


 一滴の雫が、私の頬を伝って、顎の先から滴り落ちた。

 それは、涙ではなかった。

 黒く、濁った、あの村の水だった。


 私はもう、叫び声を上げることもできなかった。


 気づいてしまったからだ。


 淀見様は、あの村だけにあるのではない。

「水」あるところ、全てに存在するのだと。

 そして私は、あの村を出る前に、既に取り込まれてしまっていたのだ。


 私の渇きは、もう二度と癒えることはない。


 私自身が、次なる渇きを潤すための、器になったのだから。

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