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水葬列車

 水葬列車 — 導入

 駅前のロータリーは、夜の帳と雨に沈んでいた。

 アスファルトを叩く雨粒は、もう数日止む気配を見せていない。

 傘の骨に弾かれる水の音が、耳の奥で単調なリズムを刻み続ける。

 この街に来てまだ三か月。慣れない通勤路と終わらない雨が、体の芯まで湿らせている気がした。


「……最悪だな」


 呟いても、雨音に呑まれて自分にすら届かない。

 残業を終え、駅舎へ足を運ぶ。ホームへの階段を降りるたび、空気が一層冷たく、重くなる。

 今夜は金曜日だというのに、人影は少ない。コートの袖口から水が滴り、床に小さな水たまりを作っていた。


 改札を抜けると、ホームに滑り込む電車があった。

 〇〇線の下り最終列車。時刻表を確認するまでもない。この時間に来るのは一本きりだ。

 まだ発車まで数分あったが、車内に乗り込む気にはなれず、屋根の下でしばらく雨を眺めていた。


 ——この街の雨は、どこか質が重い。

 粒が大きいわけでも、風が強いわけでもない。それでも、肌に触れるたび、骨まで冷やしてくる。

 そんなことを考えていると、背後から声をかけられた。


「お疲れっす、佐伯さん」


 振り向けば、同じ部署の後輩・西村だった。

 彼も残業帰りらしく、髪から水滴を垂らしている。


「また降ってますねぇ。もう、川とか氾濫してるんじゃないっすか?」


 軽口を叩きながらも、西村はちらりとホームの端を見た。

 その目が、ほんのわずかに硬直しているのに気づく。


「そういえば、知ってます?この線の都市伝説」


 都市伝説——。

 唐突な話題に眉をひそめると、西村は得意げに続けた。


「十年前、この路線で大雨の日に大事故があったんですよ。最終列車が川の氾濫に巻き込まれて、水没したってやつ。乗ってた全員、行方不明。車両も見つかってないんです」


 作り話にしては生々しい口調だった。

 それに、俺は最近ニュースで似たような見出しを目にした記憶がある。

 確か、「〇〇線浸水事故から十年」という特集が、昼のワイドショーで流れていた。


「で、そこから派生して——“水葬列車”って呼ばれる噂になったらしいんですよ」


「水葬列車?」


「はい。大雨の夜、最終列車に乗ると、その事故で沈んだ車両が迎えに来るって。乗ったら最後、戻ってこられない。翌日には、十年前の死亡者リストに名前が増えてる……って話です」


 冗談半分に笑ってはいたが、西村の声には妙な湿り気があった。

 おどけた話題で場を和ませようとしているようで、その実、どこか本気で恐れているような。


「くだらないっすよね。でも、俺は最終は乗らないようにしてます。特に今日みたいな日は」


 そう言って、西村は傘を肩にかけ、上りホームへ向かっていった。

 俺はその背を見送り、目の前の下り最終に視線を戻す。


 窓ガラス越しに見える車内は、がらんとしていた。

 数人の乗客が、濡れたまま座席に身を沈め、じっと前を見据えている。

 照明はついているが、どこか薄暗く、影が濃い。まるで海底に沈んだ廃車のように。


 足元に、ぽたり、と水滴が落ちた。

 見上げれば、ホームの屋根から滴が伝い、俺のコートに冷たい痕を作っていた。

 その瞬間、さっきまで西村の話を笑い飛ばそうとしていた自分の意識が、わずかに揺らぐ。


 ホームのスピーカーがくぐもった声で発車時刻を告げる。

 俺は深く息を吐き、車両のドアへ足を向けた。


 ——都市伝説なんて、所詮は作り話だ。

 そう心の中で繰り返しながらも、背筋にひやりとした感触がまとわりついて離れなかった。


 ドアの前で足を止め、窓越しに中を覗く。

 蛍光灯の光は確かについているのに、どこか鈍く、くすんで見える。

 車内にいる数人の乗客は、誰もこちらを見ない。濡れた髪から雫を落としながら、前方を凝視している。


 ——気のせいだ。

 そう自分に言い聞かせ、ドアの脇に立つスイッチを押す。

 低く軋む音とともにドアが開き、湿った空気が顔を撫でた。外の雨よりも冷たい。

 まるで、地下水脈の中へ足を踏み入れるような温度差だった。


 乗り込んだ瞬間、足元でじゅっと靴底が鳴った。

 床にはうっすらと水の膜が張っている。いや、これは掃除の残り水か何かだろう。

 だが、踏み出すたびにその水はじわじわと靴に染み込み、靴下まで冷たさが這い上がってくる。


 俺は空いている席に腰を下ろした。シートはやや湿っており、背中に冷たい感触が広がる。

 窓ガラスは細かい水滴で覆われ、外の景色は滲んで判別できない。

 ホームの端で立っていた駅員が見送る姿も、すぐに闇と雨に溶けた。


 電車がゆっくりと動き出す。

 モーターの低い唸りに混じって、車内に水が滴る音がする。

 天井を見上げると、蛍光灯のカバーに小さな水たまりができ、その縁から一滴ずつ落ちていた。


「……整備、不良か」


 思わず口の中で呟く。

 しかし周囲の乗客は誰も気に留めていない。

 濡れた髪と服のまま、微動だにせず、虚ろな目で前方を見据えている。


 ポケットからスマホを取り出す。

 画面には圏外マークが表示されていた。この辺りはトンネルもないのに電波が途切れることは珍しい。

 気を紛らわせるため、保存していたニュース記事を開く。

 ——それは、今日の昼に見かけた十年前の浸水事故の特集だった。


 事故当時の写真がモノクロで並んでいる。

 濁流に呑まれる駅、川沿いに並ぶ救急車、行方不明者リスト。

 スクロールしていくと、ふと画面が一瞬ちらつき、リストの最後に見覚えのない名前が増えていく。

 その増え方は、誰かが今まさに名簿を入力しているかのように、生々しく一行ずつ加わっていった。


「……なんだ、これ」


 驚いて目を瞬かせると、画面は元の記事に戻っていた。

 気のせい、そう思おうとするが、胸の奥にざらついた不安が残る。


 車内アナウンスが流れた。

「——…ッ、次は……」

 聞き取りづらい。スピーカーの向こうで、水の中から声を響かせているような、くぐもった音。

 単語の半分は波の泡に呑まれたように消え、何を言っているのか判然としない。


 電車は加速し、窓の外の雨が水平に流れていく。

 次の駅まで五分程度のはずが、体感ではもう十分は走っている。

 にもかかわらず、減速の気配はない。

 時計を確認しようと腕を上げると、袖口から冷たいしずくが落ち、手首を伝った。


 視線を落とすと、床の水が増えている。

 最初は薄い膜だったそれが、今は靴底の周囲に溜まり、揺れるたびに小さな波を立てていた。

 シートの下からも、じわじわと染み出しているように見える。


 後方の車両に移ろうかと思ったが、座席の端に腰掛けている男が、無言でこちらを見た。

 痩せた顔、濡れた前髪、そして——水滴が途切れることなく顎から落ちている。

 目はどこか虚ろで、それでいて確実に俺を追っていた。


 逸らすように前方へ視線を移す。

 ——運転席側にも数人、同じように濡れた乗客がいる。

 誰一人、手荷物も傘も持っていない。ただ、座席に沈んで前を見ている。


 耳の奥で、さっき西村が話した「水葬列車」という言葉が反響する。

 馬鹿げているはずなのに、冷たい水がじわじわと足首を締め付け、思考を鈍らせていく。


 その時、ドアの隙間から小さな水の流れが見えた。

 隣の車両から流れ込んでいる。

 透明ではなく、どこか濁った色をしている。それは川底を攫ってきた泥水のように重く、粘りを含んでいた。


 ——移動するのはやめた方がいい。

 理屈ではなく、本能がそう告げていた。

 ただ座っているだけなのに、服はじわじわと湿っていく。

 シャツの背中が冷え切り、背骨に沿って水の感触が這い上がってきた。


 外は依然として見えない。窓ガラスの水滴は流れ落ちることなく、まるで外の水圧で貼りついているかのようだ。

 遠くで、低い唸り声のような音が聞こえた。モーターではない。

 耳を澄ませると、それは人の声にも似ていた——水の向こう側から呼びかけるような、掠れた音。


 心臓が早鐘を打つ。

 この電車は、どこへ向かっている?

 そして、なぜ誰も、何も言わない?


 不意に、真上から水滴が落ちた。額に触れた瞬間、その冷たさが全身を貫く。

 天井の蛍光灯がわずかに揺らぎ、光の輪郭が水面のように歪んだ。


 ——まだ、引き返せるのか?

 自分に問いかけても、答えは返ってこなかった。


 ふいに車体が揺れた。

 その瞬間、床の水が一斉に波立ち、俺の足首に冷たい飛沫がかかった。

 さっきより確実に水位が上がっている。もう靴の甲まで沈んでいた。


 おかしい——この程度の雨で車内が浸水するはずがない。

 台風の夜でも、線路や駅に水が入り込むことはあっても、車内までこんな状態になることはまずない。

 しかも、水はどこからか「湧いて」きているように見えた。

 座席の隙間、床のつなぎ目、ドアの溝。そこからじわじわと濁った水が染み出し、絶え間なく広がっている。


 前方の車両へ移ろうと立ち上がる。

 だが、隣の車両との連結部は、膝ほどの高さまで水に浸かっていた。

 しかも、その水は微かに流れを持っており、こちら側へと押し寄せてくる。

 向こうの車両に立つ乗客が、薄暗い中でこちらを見ていた。

 顔の輪郭がはっきりしない。髪も服も、まるで水中に漂う布切れのように揺れていた。


「……すみません!」


 思わず声をかけるが、返事はない。

 ただ、ゆっくりと首を傾ける。その仕草は人間らしいが、何かが決定的に違っていた。

 次の瞬間、そいつの口元から水が溢れた。

 吐き出したのではない。喉の奥から、絶え間なく水が湧き出している——そんな不自然さだった。


 背筋が凍る。

 逃げるべきか、座席に戻るべきか、一瞬迷った。

 足元の水は冷たく、重く、まるで足首を掴んで離さない手のようだ。

 思わず視線を落とすと、水面に自分の顔が揺れていた。

 だが、その表情は俺がしているものではなかった——笑っている。口角を吊り上げ、目を細めた、不気味な笑みを。


「ッ——!」


 慌てて目を逸らす。だが視界の端で、水面の中の“俺”がまだ笑っているのが見えた。

 その口元が、ゆっくりと何かを呟いている。水の揺れで言葉は読めない。

 ただ、その動きは確かに「こっちへ来い」と言っているように感じた。


 胸が早鐘のように打ち始める。

 冷静になれ、と自分に言い聞かせながら席へ戻る。

 だが、すでに座っていた場所も同じように水に浸かっていた。

 腰を下ろせば、尻まで濡れるだろう。そんなことを考える余裕がまだある自分に驚く。


 ふと視線を横に向けると、通路の反対側に座っていた女性がこちらを見ていた。

 黒いロングヘアが水で束になり、頬に張り付いている。

 その肌は蝋細工のように白く、唇は紫がかっていた。

 まばたきもせず、ただじっと見つめ続けている。

 その瞳の奥で、何かが揺らめいた——水の中で小魚が泳ぐように、淡い光が瞬いていた。


 俺は視線を逸らそうとした。

 しかし、次の瞬間、女性の髪がふわりと浮き上がった。

 ……いや、水中で浮かぶような動きだ。

 まるで、この車両全体がすでに水に沈んでいるかのように、髪も服の裾も揺れていた。


 アナウンスが再び流れた。

「……まもなく……終点……」

 またしても、泡に呑まれるようなくぐもった声。だが、最後の一言だけが妙に鮮明に聞こえた。

「——そこ


 心臓が強く脈打ち、耳の奥で血の音が響く。

 “底”などという駅は、この路線のどこにもない。

 なのに、運転席側からは確かに車掌の声がした。

 俺は息を呑み、立ち上がった。


 どうにかして降りなければ。

 非常用のドアコック、窓の非常ハンマー——そうしたものを探すため、通路を進む。

 だが、シートの間を歩くたび、水がまとわりつき、靴が重くなる。

 後方から、ちゃぷん、ちゃぷんという水音がついてくる。

 振り返る勇気はなかった。


 前方の車両との連結部に再び近づく。

 濁った水はさっきよりも増え、腰のあたりまで達している。

 向こうの車両の乗客が立ち上がり、ゆっくりとこちらに歩いてくる。

 歩くたびに、胸のあたりまで水に浸かった体から水しぶきが上がる。

 顔は——やはり、水死体のように白く膨れ、瞳は濁っていた。


 逃げ場を探して後方へ振り返った瞬間、息が詰まった。

 いつの間にか、俺のすぐ後ろにも誰かが立っていた。

 肩越しに見えたのは、土色の肌と、閉じられたままの口。

 だが、その口の端からは絶え間なく水が垂れ落ちていた。


 車体が小さく揺れる。

 その振動で、水面に漂う薄暗い光が波打った。

 光はどこから差し込んでいるのか——いや、それは光ではなかった。

 水中を漂う、無数の白い顔だった。窓の外から、こちらを覗き込んでいる。


 もう、ここは普通の電車じゃない。

 頭では理解しているのに、足は硬直して動かない。

 濁流の中に立たされているような圧迫感が、胸を締め付けていた。


 冷たさが、肌を刺すように強まっていく。

 足首から膝へ、膝から腰へ——水は着実に高さを増し、重みを増していた。

 服は水を吸って貼りつき、少し動くだけでも全身に鈍い抵抗がかかる。

 呼吸が浅くなり、胸の内側に小石を詰められたような息苦しさが迫ってくる。


 振り返れば、先ほどまで通路に点在していた乗客たちが立ち上がっていた。

 誰も言葉を発さず、同じ速度でゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。

 その動きは水中で歩くように緩やかで、しかし確実に距離を詰めてくる。

 肩や腕から滴り落ちる水は、着水することなく周囲の水面に溶け込んでいった。


 ——逃げなければ。

 だが、足を上げるたびに水が絡みつき、靴が床に吸い付く。

 膝から下が自分の体ではないような鈍さで、思うように動かせない。


 視界の端で、窓の外の暗がりが揺らめいた。

 街灯の光がゆらゆらと上下に揺れ、その隙間を影が通り過ぎていく。

 魚だ——大きな魚影がいくつも、車両の外側を回っている。

 ありえない。ここは高架の区間だ。水の中に沈んでいるはずがない。

 それでも、窓に頬を寄せれば、淡い光を反射する魚の鱗がはっきりと見えた。


 不意に、車内アナウンスが流れた。

「——つぎは……終点……そこ……」

 前よりもはっきりと聞き取れる声。だがその響きは、耳ではなく肺の奥に直接届くような感覚だった。

 声が消えると同時に、車内全体の空気がさらに冷え込む。

 その冷たさは、冬の夜のそれではない。川底の泥をかき混ぜたような、淀んだ水の温度だった。


 前方の連結部まで進む。

 腰の高さまで達した水の中で、向こう側のドアの窓が曇り、何も見えない。

 手をかけると、金属は氷のように冷たく、びくともしない。

 何度も押し引きしてみるが、ドアは溶接されたように動かない。


 背後から、水音が近づく。

 振り返ると、最初に見た濡れた女性が立っていた。

 髪はふわりと浮き上がり、瞳は黒く濁っている。

 口がゆっくりと開き、そこから泡が零れ落ちた。

 ——その泡は、水面に触れると音もなく消えた。


 彼女だけではない。

 他の乗客たちも同じように立ち上がり、全員が俺を見ていた。

 その顔は、十年前の浸水事故の記事に載っていた写真の人々に重なる。

 誰もが、膨れ上がった皮膚と濁った瞳を持ち、水を滴らせながらゆっくりと歩み寄ってくる。


「やめろ……来るな!」


 声は水に吸い込まれ、かすかにしか響かない。

 呼吸が早くなり、肺に入る空気が薄く感じる。

 ふと天井を見上げると、蛍光灯の光が波紋で歪んでいた。

 ——いや、波紋ではない。天井そのものが水面のように揺れている。


 水位はついに胸元まで上がった。

 動くたびに肩が水面を切り、冷たい雫が頬を伝う。

 視界の端に、何かが揺れながら漂っているのが見えた。

 手を伸ばしかけて——それが人間の指であることに気づく。

 白く膨れた指が五本、根元で切り離されて水面に浮かんでいた。


 全身に戦慄が走る。

 後ずさると、足元で何かを踏んだ。柔らかく、しかし骨のような感触。

 恐る恐る目を落とすと、水面の下で、口を開けたまま沈んでいる顔がこちらを見上げていた。


 頭の中が真っ白になる。

 もうどこにも逃げ場はない——そう悟った瞬間、運転席のドアがゆっくりと開いた。

 暗がりの中から、びしょ濡れの制服姿の車掌が現れる。

 皮膚は土色に変色し、唇は裂けている。

 片手に古びた改札鋏を持ち、低く告げた。


「……切符……拝見します……」


 その声は、空気ではなく水を震わせて伝わってくる。

 俺は反射的に後退するが、水位はすでに肩口まで上がっていた。

 水面から出ているのは、頭と腕だけ。

 冷たさで指先の感覚がなくなり、足は床に縫い付けられたように動かない。


 車掌の目は焦点を結ばず、それでも俺を見据えているようだった。

 次の瞬間、足元から強い流れが生まれ、水が頭上へと迫ってきた。

 息を吸う暇もなく、視界が暗転する——。


 ——冷たい。


 頭上まで水が迫り、視界の半分がゆらめく水面に覆われていく。

 反射的に首を伸ばし、わずかな空気を肺に押し込む。

 それだけで胸が焼けつくように痛んだ。

 心臓が喉までせり上がり、耳の奥で鈍い鼓動が鳴り響く。


 次の瞬間、水が頭上を覆った。

 世界が一気に音を失い、全てが青黒い膜の向こう側に押しやられる。

 呼吸音も足音も、全てが遠ざかり、耳に届くのは自分の血が流れる音だけになった。


 体は鉛のように重く、動かすたびに服と皮膚の間で水がうねる。

 腕を伸ばせば、白く膨れた指が水中を漂い、ゆっくりと沈んでいくのが見える。

 それが誰のものかは、考えないようにした。

 考えた瞬間、この場に飲み込まれると直感した。


 周囲の乗客たちは、もう完全に水中生物のようだった。

 動作は緩慢で、髪はふわりと広がり、口から絶え間なく泡を吐き出す。

 それなのに、濁った瞳だけははっきりと俺を捕らえて離さない。


 身体を回転させ、連結部に向かおうとする。

 だが、水はもはや足元の床を感じさせないほどに深く、方向感覚が狂っていく。

 重い靴が水の抵抗に引きずられ、進むたびに動きが鈍る。

 肺が痛み、胸の奥が熱くなる。呼吸したい——その欲求が全神経を支配し始める。


 視界の端で、何かが大きく動いた。

 振り返れば、車掌が水中をこちらに向かってくる。

 制服は破れ、袖口から泥のようなものが漂い出している。

 開かれた口の中は真っ黒で、その奥から泡が連なって立ち昇っていた。


「———」


 声は聞こえない。ただ、水の圧が耳の奥を叩くだけ。

 それでも、その口の動きははっきりと読めた。

 ——切符、拝見します。


 手が伸びてくる。白く膨らみ、爪が剥がれた指先が、ゆらゆらと揺れながら俺の胸元を探る。

 全身が凍りつき、動きが鈍る。

 必死に腕で水をかき分け、後退するが、そのたびに視界が泡で白く濁った。


 限界が迫っていた。

 喉が勝手に動き、鼻腔と口から水を吸い込みそうになる。

 肺が破裂しそうな圧迫感に、視界が狭まっていく。

 その端に、窓の外が映った。


 ——そこは、完全な海底だった。


 錆びついた街灯が斜めに立ち、道路標識には海藻が絡みついている。

 砂に半ば埋もれた自動販売機、傾いた民家。

 そして、その間を漂う無数の人影。

 皆、窓のこちら側を向き、口を動かしている。

 声は届かない。だが、その動きはやはり同じ言葉を紡いでいた。

 ——こっちへ、来い。


 理性が悲鳴を上げる。

 俺は反射的に水面を目指して蹴り上がった。

 しかし、そこに“水面”はなかった。

 天井はとっくに消え失せ、代わりにゆらめく暗い水が果てなく広がっている。

 どこまで泳いでも、終わりはない。


 視界がかすみ始めたとき、足首に何かが触れた。

 振り向けば、そこには俺の顔があった。

 同じ服、同じ表情——いや、表情は違う。

 その“俺”は、静かに笑っていた。

 口が開き、泡が立ち昇る。

 そして、俺の耳のすぐそばで、確かにこう囁いた。


「やっと……来たな」


 最後の理性が、水の中で音もなく弾けた。


 暗闇の中で、ゆっくりと意識が浮かび上がる感覚があった。

 耳の奥に、微かな雨音が届く。

 ——ここは、水の中じゃない?


 まぶたを開けると、視界に駅のホームが広がっていた。

 天井の蛍光灯が雨粒を反射し、白く瞬いている。

 俺はベンチに腰をかけていた。服も髪も濡れていない。

 まるで、あの水中の出来事が夢だったかのように。


「……夢、か」


 声がかすれる。喉の奥にまだ水の冷たさが残っている気がした。

 息を整えながら立ち上がると、ホームの先に最終列車が停まっていた。

 だが、さっきまで乗っていた車両とは違う。新型の、明るく清潔な車両だ。

 ドアが開き、数人の乗客が笑顔で降りてくる。

 その何気ない光景に、ようやく全身の緊張がほどけていく。


 改札を抜け、駅前のロータリーへ出る。

 雨はまだ降り続いていたが、小ぶりになっていた。

 タクシー乗り場には数台の車が並び、運転手が暇そうにあくびをしている。

 俺はその一台に乗り込み、自宅の住所を告げた。


 車内の暖房が効き始めると、体がじんわりと温まっていく。

 ——やっぱり、あれは夢だったんだ。

 あまりにも現実感が強かったせいで、そう思うまでに時間がかかった。

 窓の外を流れる街の灯りが、今はやけに温かく見える。


 自宅に着き、濡れた傘を玄関に置いて靴を脱ぐ。

 その瞬間、足元からじわりと冷たい感触が広がった。

 慌てて靴下を脱ぎ捨てる——足は濡れていない。

 だが、あの水の冷たさが皮膚の奥に残っている気がして、鳥肌が立つ。


 着替えを終え、テレビをつけた。

 深夜のニュースが、淡々と今日一日の出来事を読み上げている。

 ふと、耳に引っかかる言葉があった。


 > 「〇〇線で、本日最終電車が運行記録から消える事案が発生しました。運行管理システム上、該当列車は発車しておらず、また現在まで車両の所在は確認できておりません……」


 背筋が固まる。

 画面には駅構内の映像と、キャスターの表情。

「人的被害は確認されていない」と続ける声が、やけに遠く感じられた。


 ——いや、いるはずだ。

 俺が、そこにいたはずだ。

 そして、あの濡れた人々も。


 放心したまま画面を見つめていると、ニュース映像が切り替わった。

 十年前の浸水事故の記録映像。泥水に沈む線路、救助隊の姿、そして——死亡者名簿。

 名簿の右端に、小さな枠が光っている。

 次の瞬間、その空欄に文字が浮かび上がった。


 ——俺の名前だった。


 息が止まり、体が硬直する。

 呼吸を取り戻そうと口を開いた瞬間、喉の奥から冷たい液体が逆流してきた。

 反射的に手で口を覆う。

 指の間から、透明な水が滴り落ち、床に音もなく染みを作った。


 その水は止まらなかった。

 胸の奥、肺の中、骨の隙間から湧き上がるように溢れ出す。

 呼吸はもうできない。

 視界が水の屈折で歪み、部屋の中の光が波打ち始める。

 ——やめろ。

 ——戻れ。

 頭の中で必死に叫んでも、冷たい流れが全てを押し流していく。


 足元に、音もなく水が広がっていった。

 それは床一面を覆い、やがて壁を這い上がり、天井すら包み込む。

 外の雨音が消え、耳の奥でくぐもったアナウンスが響いた。


 > 「——次は、終点……そこ……」


 音も光も、すべてが遠ざかっていった。


 翌朝のニュースでは、「昨夜の最終電車、運行記録なし」という事実だけが淡々と報じられた。

 ネット上では、十年前の事故との関連を指摘する書き込みが溢れ、やがてそれも消えていった。

 事故記事の死亡者名簿には、新たな名前がひっそりと追加されていた。

 誰もその人物を知らない。

 だが、今夜も——水葬列車は、満席のまま水底を走り続けている。

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