洗濯標本
深夜のコインランドリーは、乾いた匂いしかしない。
蛍光灯が唸り、ガラスの丸い扉が、無表情にこちらを見ている。
洗濯槽の中だけが濡れていて、世界の湿り気がそこへ集められているみたいだ。
奥の古いドラムに服を放り込んで、硬貨を落とす。
スイッチを押す指先が離れる直前、槽がガクンと沈んだ。
投入量は変えていないのに、急に重たくなった。
ロックが閉まり、回転が始まる。
泡が立ち上がるのと同時に、なにかがこちら側から少し抜けた感覚がした。言葉でも物でもない、指で数えられない種類の“所有物”。
回り終わるまでの間、椅子に腰を下ろし、あくびを殺した。
店内の時計は進まない。針だけがわずかに揺れて、時間のふりをしている。
ガラス扉の向こうで泡が薄くなり、水が澄んでくると、見覚えのない色が混じっているのがわかった。
黒い布。
やがて止まり、ピッという音がしてロックが外れた。
扉を開けると、自分の洗濯物の下から、黒いパーカーが一枚出てきた。
濡れて重い。ポケットに指を入れる。紙の感触。取り出すと、印字がまだ乾ききっていない切符。駅名に見覚えがない。今日じゃない匂いがした。
もう片方のポケットから、濡れた砂が指先にまとわりついた。砂は、乾いた床に落ちる前に、上へ吸い込まれるように消えた。
忘れ物だろうか。誰かの、すぐ来る持ち主。
カゴの隅に寄せる。
そうしただけで、店の入口のベルが鳴った。
扉は閉じたまま。誰もいない。
ベルの音だけが、誰かの出入りの重さを真似た。
ふと、カゴの底に金属の冷たさを感じた。
自分の部屋の合鍵が、濡れたタオルに貼りついている。
鍵は今、ズボンのポケットにある。触れる。そこにも同じ鍵がある。
手に取った合鍵の角には、小さな欠け。私の鍵は欠けていない。
それでも、掌が勝手に覚える。この欠けを、近いうちに自分で作るという確信だけが、手の温度を奪っていく。
私は合鍵をカゴに戻し、黒いパーカーの上に置いた。
「忘れ物ですよ」と言えば済む。
そう思った瞬間、背中の排水溝が低く鳴り、黒いパーカーが排水へ引かれた。布は床を滑り、合鍵も一緒にするりと動く。
あわてて掴む。冷たくない。水で冷えていないのに、濡れた重さだけが指に絡む。
引き戻すと、排水の音はすぐ止んだ。
まるで、吸い過ぎないように見られているみたいに。
「それ、私のです」
声がして振り向くと、女が立っていた。
濡れてはいないのに、濡れた場所を通り抜けたばかりの匂いがした。
洗剤、鉄、電球の熱、外の夜気。
彼女は黒いパーカーに目を落とし、ポケットをひとつだけ探る。
濡れたレシートが出てきた。店名は海の町のスーパー。インクが流れていて、読みきれない。
「これも」
彼女は合鍵を見た。
私はポケットの中の本物に触れて、ほんの少し迷った。
「忘れ物ですよね」
「回収です」
女は笑わずに言う。
「失くす前に集めて、失くした時点の持ち主へ返す」
意味がわからない。
「盗んでるだけだ」
「盗まないときのほうが多いです」
女は淡々と答えた。
「ここは詰まりやすい。未来の落し物が混ざると、ドラムが止まる。止まると、向こうがこちらに流れ込む。だから先に抜く」
向こう?
女は、乾燥機の透明な扉を指で軽く突いた。
回っていないはずなのに、ガラスが一瞬だけ曇り、中に人の肩が映った。
見覚えのある形。
玄関で靴をそろえる癖。
家の照明の色。
胸のあたりが、外気より冷えた。
入口のベルが鳴った。
誰かが入ってきた。
見覚えのある背中が、まっすぐこちらへ向かって歩いてくる。
薄いグレーのコート。襟にほつれ。毛玉。
夜道を早足で歩くとき、左の肩が少し先に出る癖。
「回収の方ですね」
女が言う。呼びかけられた背中は、うなずいたかどうか、わからなかった。
こちらを見ない。私を見ない。
まっすぐ、私のカゴの横の空気に向かって手を伸ばし、そこへ何かを受け取る。
受け取ったものが、見えない。
ただ、彼女の指先の重みだけが、空気の中で形を持った。
私は口を開き、閉じた。
名前を呼ぼうとして、名を思い出せない。
まだ失っていないのに、呼ぶ必要がないときの名前は、出てこない。
女がカゴを手繰り寄せ、黒いパーカーも合鍵もまとめて掴んだ。
「返します」
「どこへ」
「いつも向こうへ」
彼女は店の隅の点検口を開けた。
金属の扉の向こう、暗い太い管がのぞく。
洗剤の泡が、ゆっくり呼吸するみたいに上下している。
女は袋を差し入れ、水が吸える速さで押し込んだ。
袋は音もなく沈んだ。
管の奥で、誰かが受け取る気配がした。
見えない誰か。まだ失っていない誰か。
「やめろ」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
女は動きを止めない。
「止めたら、溢れます」
「何が」
「あなたの家のほう」
女は点検口を閉め、軽く足で蹴ってカチリと音を立てた。
「今、一本、戻りました。あなたは気づかない。気づくようなものは、別の誰かに返されるから」
「俺は何を失って、何を返された」
女は私の顔を見ず、乾燥機のガラス越しに、向こうを見た。
「今日のあなたは、まだ何も。ただ、穴がひとつ開いた」
入口のベルがもう一度鳴った。
濡れていない人が入ってくる。
私の袖口に触れていた温度が、すっと離れる。
視界の端で、誰かの手が空気から受け取るのがわかる。
それは、落としたことのないポケットティッシュぐらいの軽さだった。
ティッシュならよかった。
そう思った瞬間、胸の奥で小さな音がした。
使い慣れた電子レンジのピッという音。
家の電子音。
夜中に温め直す癖。
その音の位置が、わからなくなった。
どの戸棚に入れたのか、何年も触ってきたのに、手が迷う。
地図の一点が白く抜けるみたいに。
女は私の顔を初めて見た。
目は乾いていた。
「今のは軽い。次は重い。あなたが自分から置いていくもの。私は重い順に運ぶ。あなたが触れられるうちに」
「見返りは」
「見返らない」
女は肩のベルトを直した。
「ここは洗う場所。洗って、戻す。標本は、濡れているうちしか動かせない」
乾燥機のガラスが、もう一度だけ曇った。
中に、私の部屋の壁紙が映り、すぐ消えた。
彼女はドアへ向かう。
「回収が来る前に帰って。あなたが立ち会うと、重さが変わる」
「誰が来る」
「まだ失っていない人」
「誰だ」
「今は言えない。言えば、今夜になる」
女が出て行ったあと、店は元の乾いた匂いに戻った。
蛍光灯は少し明るくなった気がしたが、光の波は変わらない。
私は服を袋に詰め、扉へ向かった。
ベルが鳴る。
外は風がない。
横断歩道の白が、洗い立てのタオルみたいに眩しい。
自販機の中の水が光り、冷却ファンが低く回る。
私はふと振り返り、ガラス越しに古いドラムを見た。
丸い扉が、こちらを見ていない。
さっきまでずっとこちらを見ていたのに、視線が少し外れている。
その外れ方が、見送っているみたいで、足が止まった。
帰り道で、ポケットの中の鍵に爪を立てた。
角は欠けていない。
それでも、欠けの場所だけがはっきりわかる。
爪を当てると、指先の皮膚がそこへ吸い寄せられる。
削れていないのに、削った感触が先に来る。
私は鍵を握りしめた。
金属は乾いていて、冷たくなかった。
冷たくないのに、手のひらに水の跡がついた。
家に着いて玄関を開けると、電子レンジのピッという音がし、どこに置いたかすぐにわかった。
何も失っていない気がした。
今はまだ。
ベッドに倒れこむと、洗剤の残り香が枕に移った。
目を閉じる。
耳の奥で、遠いところの回転音がした。
数えない、数字のない回転。
乾いた世界の、濡れている一ヶ所だけが、少しだけ重くなる音。
その重さが、いつこちらへ来るのかを考えないようにして、眠った。