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浴槽の底:前編

 残業が続くと、風呂の時間だけが、まともな人間に戻れる気がする。

 湯を張りながら浴室の電気を落とし、天井の小さな明かりだけにして、湯気と一緒に息を吐く。

 肩がじわっと溶けていく。ここ数週間のルーティーンだ。


 誰にも話さない、話すほどでもない、ただの疲れの逃し方。


 湯面は静かだ。

 アパートの古い給湯器が最後の一滴まで音を立て尽くすと、浴室は急に静まり返る。


 タイルの白が少し灰色に見えるのは、電球色のせいだろう。


 腰まで沈め、胸まで沈め、最後に頭の後ろを縁に預ける。

 目を閉じ、呼吸を一度深く。二度、三度。肺の底があたたかくなる。


 ふっと、湯面に顔を近づけた。


 潜る前の、一拍の間。

 耳がわずかに詰まり、世界の音が薄くなる感覚が好きだ。


 鼻から息を吐き、口を閉じ、ゆっくりと頭を沈める。


 水の中は、いつも通り無音に近い。

 自分の心臓の鼓動が遠くで鳴っている。


 ——はずだった。


 ゴボッ……。


 鈍く、低い泡の崩れる音が、耳の奥に触れた。

 自分の吐いた息が水に溶ける音にしては、重すぎる。


 距離がある。

 湯船の底、さらにその先のどこかから立ち上がってくるような、深さのある音だった。


 眉をひそめる。

 目は閉じたまま、もう一度息を吐く。

 自分の泡は細かい。


 そして、また聞こえた。


 ゴボッ……ゴボッ……。


 今度は二度。

 一定の間隔。


 水が押し出され、すぐに何かに吸い寄せられる——あの逆流のような響き。


 耳たぶまで震えが伝わる。


 排水口の音だろうか?

 そう思ったが、うちの古い浴槽は、栓を押し込めばほとんど音は出ない。


 息が切れて、顔を上げる。

 水面が耳から離れ、世界の音が戻る。


 浴室は静かだ。

 給湯器も換気扇も止まっている。

 床の水滴の音すらない。


「……気のせいだろ」


 口に出すと、それはそれで情けなく響いた。


 首まで沈み直し、目を閉じる。

 肺に空気を入れ、ゆっくり潜る。


 耳の中で皮膚が水に馴染む。

 鼓動が二拍。三拍。


 音は、来ない——


 四拍目で油断しかけた瞬間、遠くで岩が崩れるような低い泡立ちが、一度だけ鳴った。


 ゴボッ。


 今度は本当に遠い。

 けれど確かだ。

 浴室の空間ではなく、水の“向こう側”で鳴っている。


 五秒数えて顔を出す。

 滴がまつげから落ちて、鼻先で弾ける。


 さっきの音の余韻が、耳の奥に残っている。


 体を起こし、排水口を見た。

 銀色の蓋が湯で歪み、丸い影が揺らめく。


 湯面に映る自分の顔は赤く、眠そうで、疲れている。

 湯気で輪郭がぼやけ、揺れて——


 揺れすぎている。


 風はない。

 自分も動いていない。


 けれど水は、浅い呼吸のリズムとは別に、遠くの何かに引かれるみたいに、微かに上下していた。


「疲れてるな」


 湯から上がることも考えた。

 でも、この時間を削ると、明日が壊れる気がする。


 俺はもう一度、潜ることにした。


 最初の一拍は無音。

 二拍目も無音。


 三拍目、遠い。

 四拍目、近い。


 五拍目——


 ゴボッ……ゴボッ……。


 今度は二度。

 肺が「吸いたい」と訴えるタイミングと、音が鳴るタイミングが、じりじりと擦れ合う。


 六拍目、音が俺の胸骨の裏側で鳴った気がした。


 七拍目、音が止む。

 八拍目、俺が息を我慢する。


 九拍目——


 ゴボッ。


 喉が、勝手にわずかに動いた。

 反射だ。


 十拍目、音は鳴らない。

 十一拍目、遠くで一つ。

 十二拍目、近くで二つ。


 それは、こちらに寄ってくる。


 苦しくなって顔を上げた。

 空気が刺さるように甘い。


 耳の奥はまだ濡れている。

 音の形が、小骨に引っかかったまま残っている。


 タオルで耳を押さえる。

 水気は取れる。

 けれど音は取れない。


 皮膚と鼓膜の間に、気配の薄い泡がひとつ、残っている。


 その夜はもう潜らなかった。

 湯から上がり、部屋に戻る。


 冷蔵庫のペットボトルの水を飲む。

 飲み干した後、耳の奥で、小さく泡が弾けた。


 ゴ……。


 気のせいにした。

 そう決めた。


 ベッドに倒れ、天井を見つめる。


 天井は水ではない。

 ただの白いクロスだ。


 眠りに落ちる直前、浴室の方角から、ほんの、ほんのわずかに、何かが沈んでいく音がした。


 ゴボッ。


 時計の秒針と合わない。

 俺の呼吸とも合わない。


 だけど、次の吐息に、滑るように重なった。


 *


 翌朝。


 目覚ましが鳴る五分前に目が覚めた。


 喉が乾いている。

 台所で水をコップに注ぐ。


 蛇口をひねると、いつもより水圧が弱い。

 細い糸のような水が、コップの内側に沿って落ちていく。


 その落ち方が、呼吸のリズムみたいに一定で——


 俺は蛇口を、早々に閉めた。


 コップの表面に、微かな波紋が残っている。

 音はしない。


 耳を近づける。


 なにも——


 いや。


 ほんの指先ほどの、微かな、泡の割れる音。


 ゴ……。


 顔を上げ、コップを流しに戻す。

 強めに水を流す。


 金属の響きが、薄い音を押し流す。


 台所は、ただの朝の音に戻った。


 笑ってしまう。

 自分でも可笑しくなる。


 寝不足と残業と、秋の乾燥で耳が過敏になっているだけだ。

 そういうことにする。


 歯を磨き、顔を洗い、着替えて、靴を履く。


 玄関のドアに手をかけたとき——


 浴室の方角から、一拍、遅れて。


 ゴボッ。


 鍵を回す手が、ほんの一瞬、止まった。


 仕事中。

 昼休みに同僚とカップ味噌汁を啜ったとき、湯気の向こうで——


 誰かが、息を止めた気がして、笑い話に混じり損ねた。


 帰り道。

 夜気が濃くなる。

 耳が澄む。


 信号待ちの横断歩道に、雨上がりの薄い水たまりが残っている。

 覗き込むほどでもない浅さ。


 だが、視界の隅で、黒く揺れた。


 家に帰る。

 玄関を開け、真っ直ぐ浴室へ。


 電気を点ける。


 何もない。


 浴槽の湯は完全に冷めて、表面は透明。

 底の丸い影は、静止している。


 その静止が、昨日よりも“耳にくる”。


 沈黙の重さを、耳の内側で測るみたいに感じる。


 シャワーだけ浴びて済ませるか、と考え、蛇口に手を伸ばしたとき——


 扉の蝶番が、きゅ、と鳴った。


 微かな音に、俺は自分でもおかしいほど、素早く振り返る。


 誰もいない。

 当たり前の浴室の出入り口。


 耳の奥で、泡が、ひとつ。


 ゴボッ。


 吸う。

 吐く。


 重なる。


 わずかな差で、ぴったり、合う。


 その夜は、潜らないと決めた。

 潜らなければ、音は来ない——理屈としては、そうだ。


 寝室に戻る。

 ドアを閉め、ベッドに横たわる。


 呼吸を数える。


 一、二、三——


 四で、遠く。

 五で、近く。

 六で——俺の胸の中。


 目を閉じたまま、浴室のドアの向こうにある湯面を想像する。


 静かな平らな水。

 天井の灯りが丸く揺れて——


 丸の周りを、薄い影が撫でる。

 その影は、俺のものではない。


 耳の奥で、泡が、数えるのを手伝う。


 ゴボッ。


 七。


 俺は、潜っていない。


 *


 三日目の夜。


 俺は、とうとう風呂の湯を張らなかった。


 帰宅して、シャワーで汗と汚れを流すだけにした。


 温かい湯に潜らなければ、あの音はしない——そう思った。


 シャワーの音がタイルに反響し、排水溝へ吸い込まれていく。


 その反響の奥に、ふっと、別の響きが混ざった気がして——手を止めた。


 ……気のせいだ。


 そう思いたかった。

 けれど、蛇口をひねる前よりも、耳の奥が熱くなっている気がする。


 湯気で鏡が曇る。

 ぼんやりと、自分の輪郭が映る。


 鏡の中の俺は、呼吸をしている。


 ——はずなのに。


 その動きが、半拍、遅れていた。


 背中に寒気が走る。


 鏡を手のひらで拭うと、遅れは消えた。


 俺は、そのまま浴室を出て、ドアを閉めた。


 *


 四日目。


 仕事から帰ると、喉が渇いていた。


 キッチンで蛇口をひねり、コップに水を注ぐ。


 水面がわずかに揺れ——静まっていく。


 口をつけた瞬間、耳の奥で。


 ゴボッ。


 ……潜ってもいないのに。


 コップをシンクに置き、台所を振り返る。


 家の中は静かだ。

 冷蔵庫のモーター音だけが、低く響いている。


 だが、水を飲んだ喉の奥には——泡が通った感触が残っていた。


 *


 五日目。


 会社のロッカールームで手を洗っていたとき。

 蛇口から流れる水の下、銀色の排水口の奥が、ふいに暗く沈んで見えた。


 その暗さは、ただの影ではない。

 水面の下に開いた穴のようだった。


 そこから、微かに——吸う音がした。

 水の流れに混ざって、泡がひとつ、上がってくる映像が脳裏に浮かぶ。

 思わず蛇口を止めたが、音は耳の奥から離れなかった。


 *


 六日目。


 夢を見た。

 湯船の中に沈んでいる。


 濁った水。

 手を伸ばすと、視界が揺れる。


 そこに——人影。


 俺だ。


 同じ顔、同じ体。

 だが逆さまに浮かび、俺と同じリズムで息を吐き、吸っている。


 口から泡が立ち上り、俺の顔に触れた瞬間——胸の奥が冷たく、重くなる。


 息ができない。


 水面を目指す。

 だが、そこに天井はなく——延々と、黒い水が広がっていた。


 目が覚めた。


 布団の中。

 息が荒い。


 耳の奥に、まだ——泡の音が残っている。


 *


 七日目。


 夜。

 湯を張らずに過ごしていたはずなのに、浴室から——水音。


 心臓が跳ねる。

 足が床に貼りつく。


 気のせいだ、と思い込もうとした。


 だが、音は確かに——


 吸って。

 吐いて。


 吸って。

 吐く。


 俺の呼吸と、完全に同じリズムだった。


 ドアに手をかける勇気はなかった。

 代わりに耳を近づける。

 音が、少しだけ速くなった。


 まるで、向こうが俺に合わせていたのをやめ——俺が、向こうに合わせ始めたかのように。


 *


 八日目。


 職場で同僚の佐伯が言った。


「昨日の夜中、電話かけてきた?」

 首を振る俺。


「出たら、ずっと……水の音がしてたんだよ。ボコボコって。何分も。」

 背中に、氷を流し込まれたような感覚。


 佐伯のスマホを見せてもらう。


 確かに、発信履歴。

 通話時間——2分41秒。


 ……溺死するまでの平均時間、だったはずだ。


 その夜、家に帰っても、浴室には近づかなかった。

 だが、ベッドで横になっても眠れない。

 耳の奥で——水が押し寄せ、泡が弾ける音が、確実に近づいてくる。


 吸って。

 吐く。


 吸って——俺も、吐く。

 リズムが重なるたび、肺が少しずつ冷たくなる。

 それが、眠りに落ちる最後の感覚だった。


 *


 九日目の夜。


 シャワーだけで済ませるつもりだった。

 浴槽は空のまま、カランからお湯を出して体を流し、すぐに止める。

 水が完全に流れ切る音を確認してから、浴室を出る——その瞬間。


 耳の奥で。


 吸って。

 吐く。


 振り返る。


 浴槽は、空っぽ。

 なのに、底の白い面が、ほんのわずかに揺れている。


 水はない。

 ないはずなのに——呼吸のように、膨らみ、しぼんでいた。


 *


 十日目。


 帰宅して、洗面所で顔を洗う。

 手のひらに溜まった水の中で——泡が弾けた。


 ゴボッ。


 ……水は少なすぎる。泡なんてできないはずだ。

 感触が、皮膚ではなく、耳の奥に伝わってくる。

 蛇口を閉めても、消えない。


 耳の奥に、薄い水膜が貼りつき、それがじわじわと厚くなっていく。


 *


 十一日目。


 夕食を終え、食器を洗っていると——流しの水面に何かが映った。

 自分の顔ではない。

 角度的に映るはずのない、真下からの顔。


 濁った白目が開き、口がわずかに動いている。

 慌てて蛇口を閉めると、水面はすっと静まり、ただの銀色のシンクに戻った。

 胸の奥で——泡が弾ける幻聴が続く。


 *


 十二日目。


 夜中。


 トイレに起きたとき、廊下の奥から——水音。

 浴室だ。


 近づくたび。


 吸って。

 吐いて。


 吸って。

 吐く。


 呼吸が、俺の歩幅に合わせて詰まっていく。


 ドアノブに手をかけた瞬間、音がぴたりと止まる。

 耳を近づけた——その反対側から、同じ動きで耳を当てられたような感触。

 全身の毛穴が総立ちになり、手を離した。


 *


 十三日目。


 風呂を避ける生活で体はべたつき、同僚から「大丈夫か?」と心配される。

 それでも、浴室には——入りたくなかった。

 だが、その夜は違った。


 耳の奥で響いていた呼吸が、不意に——消えた。

 静かすぎて、逆に落ち着かない。

 気づけば、浴室の前に立っていた。


 ドアを開ける。


 浴槽には、透明な水が満ちていた。

 張った覚えはない。


 水面は静か。

 だが、耳の奥に——自分の鼓動と同じ速さの波が伝わってくる。


 足が勝手に中へ進み、縁に手をかける。

 水面を覗き込むと——自分の顔。

 その口が、ゆっくりと動く。


 吸って。

 吐く。


 瞬きの間隔まで、同じだ。


 息を止めてみる。


 水面の中の俺も止める。


 十秒、二十秒——肺が苦しい。


 そこで急に、水面の中の俺が、大きく息を吸った。

 次の瞬間——俺の肺から、空気が抜けていく。


 水面が、小さく波打つ。

 口元から泡が浮かび上がる。


 ——ゴボッ。


 耳の奥に直に響く。


 その夜、布団に入っても眠れなかった。

 呼吸を整えようとするたび——もう一つの呼吸が、重なる。


 吸って。

 吐く。


 吸って——吐かされる。


 リズムが崩れ、苦しくなって目を閉じる。

 暗闇の中で、濡れた顔が、逆さまに現れる。

 目を開けても、消えない。


 耳の奥の水が、静かに、波打っていた。

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