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水音のぬけがら


「カラン……カラン……」

 夜、決まって午前二時ごろになると、どこからか水の音が聞こえる。

 風呂場でも、トイレでもない。キッチンの蛇口もしっかり締まっている。

 それなのに、部屋のどこかで水の落ちる音がする。

 最初にそれを耳にしたのは、春先だった。

 東京で一人暮らしを始めたばかりのころ。

 築四十年の安アパート。安い代わりに少し薄暗く、隣室の音もよく響いた。

「古い家だし、まあ仕方ないか」

 と最初は流していた。

 でも、変だったのは、水音がいつも同じリズムで続くことだった。

 「カラン……カラン……」

 ししおどしのような等間隔の音。

 でも、そんなものは部屋にない。

 

 一週間経っても音は止まらなかった。

 ある夜、携帯の録音アプリを起動して音の正体を確かめようとしたが、録音には何も残っていなかった。

 自分の耳にしか聞こえないのかもしれない、と不安になった。

 だが、ある日、友人が部屋に遊びに来たときのこと。

「……今、水の音、しなかった?」

 その一言で、血の気が引いた。

 やはり、音は本当に存在していたのだ。

 

「それ、変な話を聞いたことがある」

 友人が言うには、昔このあたりには井戸があったらしい。

 大雨の日に子供が落ちて、助からなかったという話だった。

 その井戸は埋められたけれど、夜になるとその井戸の水音だけが残ることがある。

 それが、聞こえ始めたら、

「もうすぐ抜けるらしいよ。なにかが」

 友人は冗談っぽく笑ったが、なぜかその言葉が妙に引っかかった。

 

 その日から、水音はますます大きくなった。

 しかも、リズムが狂い始めていた。

「カラン……カラ……ン……カランッ……!」

 不規則に、速く、近づいてくる。

 まるで何かが焦っているような音だった。

 

 ある晩、眠っていた私は、急に金縛りにあった。

 目だけが動く。呼吸も浅くなって、全身が冷えていく。

 その時、耳元で、はっきりと水が滴る音がした。

 部屋のどこかではない。すぐそばだ。

 枕元。頬のすぐ近くで。

 私は見た。

 天井から水が垂れていた。

 ぽた、ぽた、ぽた……と垂れる先に、何かの指先があった。

 濡れた、冷たい、白く長い指。

 それが、私の額に触れた瞬間、音が止んだ。

 

 翌朝、目が覚めると部屋は静かだった。

 不思議なほど、静かだった。あの音はもう聞こえなかった。

 でも、何かがおかしい。

 誰かに会っても、声をかけても、返事がない。

 職場に行っても、誰も私を見ない。話しかけても、無視される。

 まるで私は、この世に存在しないかのようだった。

 

 そうして、気づいた。

 たぶん、あの音は自分が「この世にいる音」だった。

 水のように、確かに流れ、残る存在の証だった。

 それが抜けたいま、私という存在の音は、世界から消えた。

 

 いまもこの部屋には、誰かが引っ越してきて住んでいる。

 深夜二時になると、時々、水の音に耳をすますようにしている。

 でも、もう私には聞こえない。

 なぜなら、音を失った私は、いま、水音のぬけがらとしてそこにいるだけだから。

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― 新着の感想 ―
草木も眠る丑三つ時に何処からともなく聞こえる異音には、日常を侵食しつつある怪異という趣があって良いですね。 そして友人の「もうすぐ抜けるらしいよ。なにかが」という一言もまた、後々の展開を考えますと実に…
お疲れ様ゾォ〜コレ!(小並感) 冒頭の始まりから…徐々に引き込まれる内容と描写…そして、ラストはまさかの展開になるという感じ…はぇ〜相変わらず文章がうまいですねぇ!(褒め言葉感) こんな、短編が書ける…
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