第弐話 語らずとも、心通わす
私は係員に声をかけ、部屋の鍵を受け取った。廊下を進みながら、師匠に気取られぬよう、慎重に振る舞った。
戦武とは、信頼関係を築かねばならない。だが私は、師匠のことを何一つ知らなかった。まずは自分の目で、確かめる必要がある。何か――見極めの手がかりはないか。
そうだ、言葉について尋ねてみよう。そこから、真偽を測ればよい。
部屋に入り、私は一つ、咳払いをした。
「師匠、壁に立て掛けてもよろしいでしょうか?」
『おう、近くにいれば会話できるから問題ねえ』
私は師匠を慎重に壁へ立て掛け、正面に正座した。
「師匠、私の話をする前に、言葉について教えていただけませんか。知っておくべきことだと感じました」
『いいぜ。崇真は異形が現れる前の日本を知ってるか?』
「両親から、すべてを機械に任せて、快適に暮らしていたと聞いています」
『そうだな。全員が対等な立場になった以上、そこに上下関係はいらねえ。だから、言葉の重みが失われた』
「言葉の重み……。それは、どういうことなのでしょうか?」
『桜華が組織としてできたとき、立場が決まった。だが、言葉の重みがねえせいで、立場の違いはあれど、対等になっちまう。そうなると、どうしても緩んじまう。俺たち戦武はそれを良しとしねえ。だから、礼儀を教えることにした』
「つまり、私の言葉は、そのようにして生まれたのですね」
『そうだな。時間はかかったが、言葉の重みを知った瞬間から、テメェの立場を理解し始めた』
「私は、それが当然のものだと思っていました」
『崇真、テメェの目から見て、俺は合格か?』
「師匠は、私の心を見抜いておられたのですか?」
『まあな。だが、崇真には口実が必要になる』
「だから、私が切り出しやすいよう、あのとき、さりげなく言ってくださったのですね」
『俺としても剣を教える相手は選びてえからな。だから、洞察力を試した。だが、それでもまだ足りねえ』
「私の気の緩みを試されたのですね」
『戦場に立つ以上、命懸けにならねえと、ソイツはすぐに死んじまう』
私は師匠に頭を下げた。
「身の引き締まる思いでございます」
『もう腹の探り合いはなしにしようぜ。そうしねえと終わらねえからよ』
私は背筋を正した。
「はい。では、私のことをお話しいたします。
私は幼い頃、実の両親を亡くしました。
突然倒れたため、最初は眠っているのだと思ったのです。
いくら呼びかけても、体を揺すっても、二人は目を覚ましませんでした。
私はただ、彼らが起きるのを待ち続けていました。
そのとき、戦将の方が言葉もなく、私を保護してくださいました。
当時の私には、自分の気持ちを伝える術がなく、泣くことしかできませんでした。
それから私は養子として育てられ、『神城崇真』の名をいただきました」
『崇真、テメェは名を捨てたのか?』
「私の父が、総大将だからです」
『そういうことか。名を変えても言葉の重みは捨てなかったんだな』
「はい。私のせいで父に迷惑をかけることだけは、避けたかったのです。……これが、私の歩んできた道です」
『じゃあ、次は俺の番だな。
崇真には理解できねえかもしれねえが、俺はガキの頃から剣を握ってた。
テメェの身は自分で守る。強くなければ、生き残れねえ時代だった。
だから、それしか道がなかった。
初めて真剣勝負をしたのは十三の頃だったな。文字通り、命を懸けた死合だったぜ』
「……相手を、殺したのですか?」
『心に余裕が生まれれば、真剣勝負にはならねえ。
それに、互いに承知の上でやってた。
だから、一方的に殺してたわけじゃねえ。そこに恨み辛みはねえよ。
生き残ったヤツが正しい。それが俺の日常だったからな。
だから、剣を通して己の道を探した。行き着いた先が――二天一流だな。
後の世に伝えるために五輪書に書き記した。それが俺の生涯だな。
幻滅したか?』
「いえ。他に道がなかったのなら、私も同じことをしていたと思います」
『だが、五輪書はもうねえんだな』
「後悔されているのですか?」
『いや、後悔はしてねえ。今の俺には弟子がいるからな』
「はい。精進いたします」
『崇真、以心伝心する気はねえか? 口で説明するよりも、目で見て、体で動きを覚えてもらったほうが早いと思ったんだよ』
「恐れ入りますが、お返しいただけると、安心できます」
『崇真が不安に思う気持ちはわかるぜ。だが、俺が戦っても意味ねえだろう? この時代はテメェらのもんなんだからよ。心配するな。終わったら、すぐに返すからよ』
確かに、師匠の言う通りだ。言葉だけでは理解が追いつかない以上、私の肉体を貸すしかない。
「承知しました」
『よし、決まりだな。まず、ここらへんを歩きながら、崇真の体に慣れたあと、一旦返すな。そんで、訓練のときにまた貸してくれれば、それでいい。そうすりゃ、口で説明しても理解できるだろう?』
今は、この言葉を信じるしかない。
「部屋の鍵をフロントに預けたあと、以心伝心します」
『おう、俺が落として崇真のせいにさせるのは、申し訳ねえからな』
私は立ち上がり、ベルトを少し緩めて師匠を腰に差した。
「師匠、ご無理があれば、お申し付けください」
『戦武には痛覚なんてもんはねえから気にするな』
「わかりました」
私は部屋を出て、フロントに鍵を預けた。
「師匠、それではいきます。以心伝心」
私は肉体の自由を失い、師匠が私の体を動かしながら、ふっと笑みを漏らした。
「俺と体格は違うが、悪くねえな」
『師匠、言葉遣いが……』
「……そうだったな」
師匠は前へと歩きながら、顎に手を添えた。
「視線を感じるな」
『……え?』
「崇真、少し走るぜ」
そう言うが早いか、師匠が駆け出した。
「崇真、テメェ何かしやがったのか?」
『どういう意味ですか?』
「俺のあとをついてきやがる。足音からして……ありゃ人間じゃねえな」
『人間じゃない?』
「走って追いかけてやがるのに、足音がしねえ。間違いねえ、異形だな」
『……え?』
「崇真、予定変更だ。気が散るから少し静かにしてくれよ」
師匠は足を止め、腰を下ろして左腰の刀に手を添えた。そして、呼吸を一つ整える。
次の瞬間、身をひるがえし、目にも留まらぬ速度で刀を振り下ろす。
斬られた男はのけ反りながらも、その一撃で顔に切り傷が走る。
すぐさま男は後方へと跳び退いた。
「崇真、アイツの顔を見ろ。血が出てねえ」
男は顔に手を当て、指の隙間からこちらを見ていた。しかし、その目からは一切の感情が読み取れなかった。その表情は、どこか作り物のように見える。まるで、人間の表情を“なぞって”いるかのようだった。肌の色も質感も、人と同じはずなのに――何かが決定的に違っている。
――師匠の言う通り、あれは人間ではない。
師匠が鼻で笑った。
「コイツの化けの皮を剥いでやる」
師匠の目が、鋭く細められた。まるで、すでに勝敗は決しているかのようだった。