人食いストリートピアノ
ピアノが襲ってきた。
私はただ、練習したドビュッシーを弾こうとしただけなのに。
「危ない!」
突然現れた男性に突き飛ばされる。丸眼鏡でスーツを着た男性だった。
牙をむき出したピアノは男性に噛みつくが、弾かれたように口を開く。
唸り声が響く。
「人食いストリートピアノです」
「人食い……」
「自分、こういう者です。離れて」
男性はピアノを睨んだまま名刺を私に投げ渡す。
『ピアノ調教師 音極三郎』とあった。調律ではなく、調教。
「はあー……!」
音極はソの音で息を吐きながら構える。人食いピアノはその手を、その声を、恐れているようだった。
しかし、巨大な牙を剥き音極に向かっていく。
「はっ! はっ! はあっ!」
音極は牙を躱し、人食いピアノを蹴り上げた。黒い身体が高く打ちあがる。
「はあーっ!」
音極は音程を乱すことなく、ソの音を続けたまま人食いピアノを拳で打ち続けた。
やがて人食いピアノは大人しくなり、元のピアノの形に戻った。
「これでいいでしょう。弾いてみてください、もう襲ってくることはありません」
「は、はい」
私は白い鍵盤に手を触れ、押し込んだ。
ポロン、とかわいい音が鳴った。
「ピアノは本来、凶暴な肉食生物です。自分のような調教師が居て初めて人間の手に触れるものとなるのです。このストリートピアノは調教の手間を怠ったのでしょう」
音極が語る。
「そんな……人々を楽しませるストリートピアノだというのに……」
「順序が逆なんです」
「逆?」
「ストリートピアノは道行く人を楽しませるためではなく、本来は野生の音楽家を捕らえる罠だったのです。それがいつからか行政に取り入れられ街の景観を飾るピアノとなった」
「音楽家を捕らえるって、なぜそんなことを……」
「ドイツが第一次大戦に敗北した後、国家の栄光を取り戻すために音楽の力に目をつけたのがかつてナチスの宣伝大臣だったゲッペルスでした。彼は調教されてないピアノを使って効率的かつ経済的に音楽家を捕らえ、ナチスの宣伝のために捕らえた音楽家を使っていたのです。表向きは街の文化的素養を担保するものとして」
音極は丸眼鏡を上げる。
「それゆえストリートピアノの中には先祖返りを起こし、人を襲うことがある。昨今のストリートピアノの設置増加によって先祖返りの確率も増加している」
「じゃあ、やめさせなければ」
「そうはいかないのですよ。人間はどこまでも怠惰で、欲深いものですから」
言い残し、音極は去っていった。
私はストリートピアノに触れる時、周りの人通りを見てから、そしてピアノをよく見てから座るようになった。
ピアノが人食いの本能を目覚めさせても大丈夫なように。
いつかあの人のようになれるだろうか。あのピアノ調教師のように。
つづく