幸せな裏切り
連載物にしようとしていたが、多忙なため短編として投稿。人物の背景説明など甘い部分があります。
名は体を表すという言葉がある。読んで字の如く、物や人の名前はそのものの本質を示すという意味だ。この言葉について少し考えてみよう。
そもそも、名前とは何かといえば、概念を簡便に指し示すための記号だ。となると当然、名前は概念の本質と直結する方が利便性が高い。よって、物の名前は性質や特徴を含む傾向がある。温かい泉は温泉となり、車が列になれば列車となり、賢い電話はスマホとなる。カップ麺についてくる、干からびて無惨な姿になった野菜たちをかやくと呼ぶのも、「乾燥野菜くず」を省略した結果だそうな。このように付けられた名前が「体を表す」のは必然だろう。
一方で、名前には別の付け方もある。特に人の名前に顕著だが、それは願いを込めるというやり方だ。赤子には無限の可能性が広がっており、名付けの時点ではその赤子がこれから辿るであろう人生や養われる人格など、およそその赤子の一生を通しての本質と呼べるような物など予言しようもない。だから、親は子の名前に願いを込めるのだろう。例えば、人生における飛翔の願いを込めれば翔、明るく元気な子に育って欲しければあかり、10まんボルトを打って欲しければ光宙、などと名付ける。有名な落語の一席「寿限無」だって、長命を強く願うあまり、子供に寿限無から始まるとんでもなく長い名前をつけてしまう噺だ。今も昔も、親が子の名前に願いを託す気持ちは変わらないのだろう。
と、ここまで名づける立場で話してみたが、名づけられた子供からするとどうだろうか。親からしたら祝福のつもりでも、子にとっては枷になることもある。
さっき話に出した落語「寿限無」の結末はいくつかバリエーションがあるが、そのうちの一つは名前が長すぎるせいで、子供が溺れてしまうというオチだ。この例は極端だとしても、名前の悩みというのは現代でもありふれている。
例えば、名前と性格・嗜好が合わないことがあるが、それは十分悩みの種となるだろう。翔君はもしかすると飛翔よりも安定を好むかもしれないし、あかりちゃんは内向的な子かもしれないし、光宙君は10まんボルトよりもはかいこうせんを打ちたいかもしれない。子供にとってみれば、名前というのはこの世に生れ落ちると同時にかけられる頸木に等しく、名前と自身の性格にギャップがあればそれに悩むこともある。そうして悩んだ結果、名前とそれに伴う親の願いや周囲の印象に、意識的にせよ無意識的にせよ自らを寄せていくこともあるだろう。結果的に、事物とは違い本質に先立ってつけられた人の名前も、やがてはその人の本質を表すようになる。つまり、名前には人の本質を既定する力が多少なりとも備わっているのだ。よって、名は体を表すという言葉が一般にまかり通るようになったのではないか。
そんなことを、俺のはす向かいに座り黙々と本を読みこんでいる水瀬に言ってみたが、水瀬はその理知的な瞳を本から外しもせず、こう返してきた。
「そうかもしれないですね。ただ、あなたがどうしようもないのは名前のせいではなく、性根の問題だと思いますよ、クズの葛見君」
敬語に似合わない毒舌をかましてくる。最初に聞いた時は面食らったものだが、これが水瀬の平常運転だ。今はもう慣れつつある。これは水瀬の機嫌が悪いとかではない。いや絶対的に評価すれば悪いのかもしれんが、俺といる時に限れば普通だ。
「そうはいってもなあ、俺にも社っていう親がつけてくれた大事な名前があるんだが。それなのにこの学校の連中は皆して苗字をもじってクズ野郎だのなんだの好き放題呼びやがって、そりゃあこっちもクズに寄ってくもんだろう」
「入学当初から自堕落らしいじゃないですか。そんな人間が言っても説得力がないです」
水瀬はにべもなく言った。やはりこちらには一瞥もくれることはない。
「それに、もう人格形成期の大半を終えた高校生になってつけられるあだ名というのは、多少なりとも本質に基づいているのでは?」
片手間のような応対をしてるくせに、水瀬からやたら鋭い指摘が飛んできた。だが、これにはちょうど良い返しがある。
「いや、うちのクラスの男子どものアホさを鑑みるに、あだ名にそんな大層な考えはないだろ。なあ、『Fクラスの女帝』さん?」
新学期始まって早々に起きた一件で、水瀬についたあだ名をこれ見よがしに呼んでやると、途端に水瀬は本に向けていた目をこちらによこし、キッと睨みつけてきた。しかし頬に赤みがさしており迫力が足りない。
「……そうですね、あなたに同意するのは不本意ですが、認めましょう。なので二度とその不愉快な呼び名を口にしないでください」
やはり未だにこの呼び名は照れるらしい。勝った。何にかは知らんが。
水瀬は、元はと言えばあなたが……とかもごもご言っていたが、やがて諦めたようにため息をついた。
「それにしても、意外ですね。あなたがクズと呼ばれるのを気にしてたなんて。嫌なようなら控えますけど」
水瀬が言う。今の件で自らを顧みるところがあったのだろうか。変なところで律儀な奴だった。
「いや全然。むしろ期待されてなくて安心する」
「本当にクズですね。気を使って損しました。下らないことを言っていないで、さっさと課題を終わらせてください」
水瀬はもう一度ため息をついた。おいおい、幸せが逃げるぞ。
まあ、早く課題を終わらせろと水瀬が言うのはもっともだ。何しろ俺が課題を終わらせないと帰れない。
その後は特に会話もなく、俺は四苦八苦しながら与えられた課題をノートに解き、水瀬は時折メモ帳にペンを走らせつつ、本を読んでいた。
開け放った窓からは、四月下旬に相応しい穏やかな風と、グラウンドで活動している運動部の掛け声が入ってくる。徐々に日の角度が浅くなり、差し込んできた夕日が俺と水瀬の使っている教室の真ん中の机や椅子、そして部屋の端の棚に詰まれた地理や歴史の授業に使うであろう資料を赤く染めていった。
「おい、課題終わったぞ」
「そうですか」
水瀬は俺が課題を解いていたノートをパラパラとめくり確認する。「問題ないようですね」と言うと、水瀬は読んでいた本を手早くしまうと席を立った。
「機敏だな」
「今日はもう誰も来ないでしょうし、これ以上あなたと無為な時間を過ごすのも耐えられませんので」
そう言って水瀬はさっさと教室の後ろの扉から出ていく。薄情なやつだ、と思っていたら、水瀬が扉から顔だけ残して言った。
「そういえば、カップ麺のかやくが乾燥野菜くずの略であるというのは一時期流行ったデマですよ。脳みそがついてるんだったら雑学を披露する前にちゃんとソースを確認してくださいね」
最後に一刺ししていきやがった。しかも反論できねえ。
撃沈した俺は少しの間机に突っ伏していたが、そうやっていてもしょうがないと帰り支度を始めた。
筆箱や教科書を鞄に仕舞い、その鞄を肩にかけて立ち上がる。ノートは提出するので鞄には入れず手に持った。
扉から出たところで、ふとさっきまで自分と水瀬のいた、社会科準備室を振り返る。
仲がいいわけでもない俺たちが、放課後ここに集まるようになってからもう一週間だった。運命のいたずらとでもいうべきものを感じざるを得ない。夜ベッドに横たわり、眠りに落ちるのを待つ間に、ふと、人類の祖から連綿とつながる奇跡の果てに、自分がこの世に生れ落ちたことに対して不思議を感じることがあるが、それに通ずる感覚だった。
少しの間立ち尽くしていたが、いつまでも浸っているわけにもいかない。腹の虫も泣き出した。妹が、今日はカレーを作ると言っていたはずだ。早く帰ろう。
建付けの悪い扉をがたがたと横にスライドさせて閉じ、鍵を閉めた。廊下の所々では、パートごとに分かれて吹奏楽部が練習している。音楽に疎い自分でも知っているような、世界を股にかける大泥棒のテーマ曲だった。彼女らの奏でるメロディーに合わせて何とはなしに体を揺らしながら、特別棟から一般棟に向かう。そして職員室前の提出物入れに課題を解いたノートを置いた。
ミッションコンプリート。今週も乗り切った。休日は思う存分ダラダラしてやろう。来週のことは考えたくないが、まあきっと何とかなる。
下駄箱で靴を履き替え、僅かな疲労感と達成感を胸に帰路についた。
校門前の桜並木を歩く。町を赤く染める夕日を、葉桜が迎えていた。
次の週の月曜日、俺はいつも通り一限をぶっちした。月曜の朝は気が重い。これから数日間は活動時間の半分以上が学校という閉鎖環境に拘束されるのだ、気が滅入るのも当然だろう。毎朝当然のように学校に行けるやつは本当にすごいと思う。
だが、今週を終えればゴールデンウィークで5連休だ。連休からは飛んでいるが、一応今週の水曜日も「昭和の日」で休みともなれば、なけなしのやる気も湧いてくるというものだった。
通勤通学のピークの時間帯を終え、人通りの少ない通学路をタラタラ歩く。昨日は一日中文庫本を読んでいて部屋からはほとんど出なかったが、外からはパラパラと雨音が聞こえた。一晩経ったものの、街路樹の葉は昨日の雨の水気を保ち、朝日に照らされ艶やかに輝いている。これが当てのない散策であればさぞ気持ちよかろう。終着点が決まっているのが残念でならない。
一限の終わりちょうどに学校に着くように歩くペースを調節し、教師と鉢合わせないタイミングを見計らって我らが二年E組の教室に入った。クラスの連中は俺の重役出勤には慣れたもんで気にもとめない。せいぜい「お、流石クズ見」とからかってくるくらいだ。水瀬だけは、どうしようもねえなこいつ、という冷たい目線を向けてきたが。両方とも適当にスルーして自分の席に座る。
頬杖を着き、窓の外をぼけーっと眺めているとすぐに二限が始まった。学校に来た以上、授業は普通に受けノートをとる。教師の目を盗む労力を払ってまでやりたいこともないし、授業を適当に受けてテスト前に自由時間を失うのもアホらしい。大学には行くつもりだから、入試の役にも立つだろう。
まあ、だからと言って身が入るわけでもないんだが。大学受験まではまだ2年もある。あくびを噛み殺し、無味乾燥な授業を心を無にして放課後まで乗り切った。
放課後、いつものように社会科準備室に向かう。二年E組の教室から水瀬と連れ立って行くようなことはない。授業が終わると水瀬が手早く荷物をまとめ、先に職員室に鍵を受け取りに行くが、俺は購買で飲み物や小腹がすいたときに食べるちょっとしたものを買ってから向かう。それが一週間にして早くも確立されたお決まりのパターンだった。
社会科準備室に着き、扉に手をかけ力を籠めるとやはり鍵はもう開いていた。水瀬は部屋の中央の机を囲む椅子の一つに座り、昨日読んでいたのと同じ、相談のハウツー本を読んでいる。扉を開けた俺にちらりと目をやったが、特に何を言うでもなく目線を元に戻した。
「うっす」とか特に意味のない声をかけ席に座り、机の上に教科書とノート、買ってきた飲み物などを広げ準備を整える。
そして、今日もまた課題との闘いに身を投じた。
その後は普段通りだった。俺は課題をこなし、水瀬は本を読む。たまに退屈になって水瀬に適当なことを言ってちょっかいを出してみては、冷たくあしらわれる。それがいつものことだったし、今日の放課後もそうやって終わると思っていた。
だが、その日は違った。唐突に、教室の扉の開く音が響く。
開けたのは女子生徒だった。俯いていて、教室に体を滑り込ませると扉を閉め、その場に座り込む。肩が細かく震えていた。明らかに泣いている。教室の中にいた俺と水瀬には気づいていないようだった。
突然のことに俺と、さしもの水瀬もしばし固まっていたが、やがて顔を見合わせる。どうします、と水瀬が目で聞いてきた。
どうするも何も、俺には泣いている女の子に声をかけ、励ますような高等テクニックは残念ながら持ち合わせていない。お前が何とかしてくれ、という思いを込めて女子生徒に向けて顎をしゃくった。
水瀬はしらっとした目を向けてきたが、元より自分が何とかするつもりではあったのだろう。静かに立ち上がり、その女子生徒に歩み寄った。
「もしもし」
水瀬は意識してそっと話しかけたようだったが、女子生徒は大きく肩を跳ねさせ、勢いよく振り向いた。この教室に人がいるとは思わなかったのだろう。あ、とかえ、とか言葉にならない声が漏れる。
慌てたように水瀬が言う。
「すみません、驚かせるつもりはなかったのですが」
「あ、いえ、こちらこそすいません……」
女子生徒の方も狼狽していたが、物腰柔らかな水瀬の態度に少し落ち着いたようだった。
「その……、大丈夫ですか?」
水瀬が問いかける。
「あ、はい、あの、大、丈……」
女子生徒は答えようとしたが、目から涙が溢れ、最後まで言葉が続かなかった。驚きで引っ込んでいた悲しみが戻ってきたのだろうか。嗚咽が漏れる。
水瀬は彼女が落ち着くまで、優しく背中をさすってやっていた。
女子生徒は扉の前でしばらくの間泣いていたが、落ち着いたところで水瀬が椅子に座るよう勧めた。彼女は椅子に向かう途中で、初めて俺のことに気づいたようで、気まずそうに会釈された。俺も声のかけ方がわからなかったので、目を逸らしながら会釈だけ返した。水瀬があきれたように見ていた気がする。
今は教室の机を挟んで、水瀬が彼女の正面に、俺ははす向かいに座っていた。
「すみません、突然入ってきて泣き出したりして……」
女子生徒が言う。俯き加減で目線が落ち着かない。まあ、見知らぬ人の前で泣いている姿を曝したとなれば無理もない。
「いえ、気にしないでください」
水瀬が言う。それを最後に、俺たちの間に沈黙が流れた。
き、気まずい……。かといってこの沈黙を破る勇気も話題も俺にはなかった。
何とかしろよ、という思いを込めて水瀬の足を軽く蹴ると、思いっきり足を踏まれた。思わず声が出そうになるが、なんとか男の見栄で耐える。こいつ後で覚えてろよ……。
「私は二年E組の水瀬佳澄です。こちらは同じく二年E組の葛見社君」
何食わぬ顔で水瀬が自己紹介を始めた。確かに、言われてみればそれしかない切り出し方のように思われる。
俺も水瀬の紹介に合わせて会釈した。
「あ、えと、私は二年B組の遠藤みどり、です」
女子生徒、改め遠藤は同学年のようだった。話すのは初めてのはずだ。遠藤は地味な印象で、顔のパーツに特徴はなく、地毛だろう黒髪が肩甲骨あたりまで伸びていた。特徴的なのはややそばかすが目立つのと、緑色の髪飾りくらいだろうか。
「……その、二人はどうしてここに?もしかしてその、親密な間柄とか……?」
遠藤が訪ねる。当然の疑問だったが、最後の言葉は余計だ。ほら、水瀬が屈辱でだろう。ぷるぷると震えている。
「ふふ、私と葛見君が?ありえませんね」
そして飛んでくる言葉のナイフ。分かり切ってはいたが傷つく。だって男の子だもん!
「す、すいません、変なことを言って……」
少し気の弱そうな遠藤がおびえていた。横からでよく見えないが水瀬はどんな顔をしているのだろうか。
「じゃ、じゃあお二人はどういったご関係で?」
遠藤が遠慮がちに聞いた。改めてこう問われてみると、何て答えるのが正しいのかよくわからないな。友達ではないし、もちろんカップルでもない。かといって俺とこいつの付き合いは単なるクラスメイトとも言いづらい。
水瀬が形のいい顎に手をやり、少し考えた末、言った。
「囚人と監督者でしょうか」
くそ、言い得て妙だと思ってしまったのが悔しい。
まあこれだけでは事情を知らない人には伝わらないだろうから、水瀬が補足を加える。
「正確に言えば、私がこの部屋で相談者を待つついでに、単位が足りなくて補修を受けている葛見君を監督しています」
そう言うと水瀬はこちらに目をやり、冷ややかに言った。
「どうして課題の手をとめてるんです?」
あ、はい。俺も一緒に遠藤の話を聞く流れじゃなかったんですね。まあ俺が話を聞いてもしょうがないし、聞き手としての素質も欠いているだろう。「おっす」とか適当なことを言って、課題に戻る。
それでも、遠藤の事情は気になったので聞き耳は立てることにした。
「えと、相談者というのは?」
遠藤が尋ねた。
「私は生徒会選挙に立候補しようと思っています。しかしこの学校に転校してきたばかりで、知り合いが少ないです。なので推薦者や支持者を集めるために、この部屋で生徒の相談に乗っています」
水瀬はこの流れを待っていましたと言わんばかりに続ける。
「遠藤さん、どうして泣いていたのか、よろしければ話してくれませんか?力になれるかもしれませんし、相談するだけでも気が晴れるかもしれません。もちろん、相談の内容は誰にも話しません」
そして滑らかに相談の話までこぎつけた。気合が入っている。何せイレギュラーな形とはいえ、遠藤は水瀬相談所の訪問者第一号だからだろう。
遠藤は、少しためらっている様子だった。というか、こちらをチラチラ見ている。その様子に水瀬も気がついたのか、付け加える。
「葛見君は友達がいないので話す相手もいません。あと、一応曽倉先生からも口が堅いと太鼓判を押されています」
俺の不名誉な事実があっさりばらされたような気がしたが、ひとまず置いておく。
きっと曽倉先生の人望の賜物だろう、遠藤は納得したようだった。
「……その、それじゃあ、うまく話せるか分からないんですけど、聞いてもらえますか?」
少し話しただけだったが、水瀬が十分信頼できる人間で、俺は気にする必要のない人間だと分かったのだろう。或いは、一人で悲しみを抱えることに耐え切れず、誰でもいいから話を聞いてほしかったのか。
遠藤は静かに話し出した。
――
えっと、何から話したらいいか……。
その、私、ちょっと前まですごい引っ込み思案で、中学時代は全然友達いなくて、去年の今頃は高校でも友達出来ないんじゃないかってすごく不安だったんです。
春休みの間に友達の作り方とか、おしゃれとか勉強したりして頑張ってはみました。でも入学してもやっぱり人に話しかけられなくて、高校も友達出来ないのかな、とか落ち込んでたんです。そんな時に声をかけてくれたのが小松さんでした。
私と小松さんは1年の時同じクラスで、入学当初席が隣だったんです。一人でお昼ご飯を食べている私を見かねたのか、声をかけてくれました。小松さんは人懐っこい子で、口下手な私でもすぐに打ち解けることができました。それで、私はお菓子作りが趣味なんですけど、小松さんも興味があったみたいで、一緒に家庭科部に入ることにしたんです。中学時代は部活は幽霊部員みたいなものでほとんど行っていなかったので、うまくやっていけるか不安だったんですけど、家庭科部の人たちもみんな優しくて、それに小松さんの助けもあって、輪に入ることができました。
放課後、家庭科室に部活のみんなで集まって、おしゃべりしながらお菓子を作って、夕方ごろに出来上がったお菓子を食べながらゆっくり時間を過ごして。中学時代からは考えられないくらい楽しい日々でした。家庭科部のみんなとも友達になれましたが、やっぱり一番仲がいいのはクラスでも一緒に過ごす小松さんでした。今してるこの緑色の髪留めも、小松さんがくれたんです。私の名前がみどりだし、似合うと思ったからって。私は今までこういったものを人からもらったことがなくて、うれしい気持ちでいっぱいになりました。
小松さんは料理の経験はあまりなかったみたいで、私が一緒に作りながら教えることが多かったです。それで出来上がったお菓子を交換し合ったりして。小松さんは不慣れでちょっと失敗しちゃうこともありましたが、それでも、そのお菓子は幸せな味がしました。
そんな風に1年を過ごし、新年度になりました。私と小松さんはクラスが離れてしまい、とても悲しかったです。
家庭科部では新年度になると代替わりで2年生から部長と副部長が選ばれるのですが、小松さんが部長で、私が副部長をすることになりました。家庭科部でも、小松さんは皆に一番なじんでいたので、小松さんが部長になるのは何となく察してはいました。でも私が副部長に選ばれたのは本当にびっくりしました。ですがみんなが選んでくれたので、精いっぱい頑張ろうと思いました。今年もみんなと幸せな時間が過ごせたらいいなと、心の底から思いました。
新年度初めの仕事は新入部員の勧誘です。仮入部期間の4月の第2週から第3週目までに、新しく家庭科部に入ってくれる子たちを見つけなければいけません。もし新入生が一人も家庭科部に入らなければ、少なくとも私たちの代までは残るでしょうが、来年には廃部になってしまうかもしれません。幸せな時間をくれた家庭科部を、思い出の場所として、そして私みたいな子たちのために残してあげたいと思いました。体験入部が始まるまでに、お菓子作りが初めての子も楽しめるようなレシピを用意したりとか、わかりやすく作り方を説明できるように練習したりとか、出来るだけのことをしました。体験入部の当日も、小松さんが体験入部に来てくれた子たちともすぐ仲良くなって橋渡し役をしてくれたおかげで、人見知りな私もなんとかうまくやれたと思います。その甲斐あってか、無事新入部員も何人か入ってくれることになって安心しました。
新年度になり、新しい環境になってもやっていけると、そう感じていたんです。
……すいません、前置きが長くなりました。どうして泣いていたかですよね。
私たち家庭科部は、新入生の勧誘が終わると次の活動はゴールデンウィークの後、正式に入部した新入生と一緒に行うことになっています。なので、ゴールデンウィーク前のこの1週間は部活はないんです。
今日私は日直で、さっきまでその仕事をしていました。それも片付いて、帰ろうと思ったときに、ふと家庭科室を見ていこうと思ったんです。特に用事があったわけではないのですが、新入生が加わって家庭科部が新しく始まる前に、これまでの家庭科部にある種の別れとお礼を告げるような気持ちだったかもしれません。
それで家庭科室に続く廊下を歩いていると、思いがけず家庭科室から声が聞こえました。部活動は休みのはずなのに、どうして放課後に家庭科室に人がいるのか不思議に思いましたが、もしかすると私と同じような気持ちになった家庭科部の人たちがいるのかもしれないと思い、家庭科室をこっそりのぞいてみました。
思った通り、家庭科室にいたのは部活のみんなでした。予想外だったのは、私を除いた家庭科部の2年生全員がいたことです。もちろん小松さんもいて、楽しそうに笑っていました。
みんなはお菓子を作っていました。たまたま家庭科室に居合わせたという感じではなく、明らかに何らかの約束事があって集まっていました。
私は中学時代のある出来事を思い出しました。その日は、帰りのホームルームで担任の教師に、クラスの大部分の人は話があるから残るように言われました。ただ、私や、クラスで地味だった数名は呼び止められませんでした。私は、きっと残された皆で何か問題を起こしたのだろう、自分は巻き込まれなくて良かったと、そう思いながら帰りました。友達がいないことに鬱屈とした思いを抱えたわたしにとっては、それは痛快な出来事ですらありました。
次の日、登校すると、クラスメイトが教室に残された理由がなんとなくわかりました。直接誰かに聞いたわけではなかったのですが、クラスにいると否が応でも耳に入りました。どうやら昨日クラスに残されたクラスメイトは、メッセージアプリでグループを作っていたようでした。そのグループではそこに所属していない数少ないクラスメイトを馬鹿にするような内容が多く、誰かがそれを担任に密告したことで、事が明るみに出たようでした。
……私は、とても惨めな気持ちになりました。陰で悪口を言われていたこともですが、それよりもクラスの大部分の、まるで「まともな人」は皆所属しているようなグループに入れてもらえず、あまつさえ知りもしなかったことが、私の心をひどく打ちのめしました。
家庭科部の皆が、その時のクラスメイトのような人たちだとは思いません。皆本当に優しくて、大好きな人たちです。誰かを馬鹿にしたり、貶めたりすることはしないと信じています。
……でも、もしかすると、私が彼女らと紡いでいる関係よりも、彼女ら同士はもっと深く強固な関係を築いているかもしれないと思いました。彼女らに問題があるのではなく、私が「まとも」でないのでは、という疑念がどうしても拭えませんでした。もしそうなら、私がハブられるのもしょうがないなって……。
皆はただ集まって楽しくお菓子を作っていただけです。何も悪いことはしていません。でも、その光景は、私が本物だと思い大切にしていたものは、実はまがい物だったのだと、そう言っているようでした。今までの家庭科部の皆との鮮やかに色づいた思い出が、全部灰色になってしまったような、そんな気持ちになりました。
私は彼女らに声をかけませんでした。かけられませんでした。ただ涙をこらえて、来た道を戻りました。歩くたびに、皆との、小松さんとの幸せな思い出が剥がれ落ちていくようでした。それで、耐えられなくなって、でも泣いてるところは見られたくなくて、近くの人気のない教室に飛び込みました。
……あとは、お二人の知る通りです。
――
遠藤は、途中涙声になることもあったが、最後まで話し終えた。
人見知りとのことだったが、水瀬に対してそういう素振りは見えなかった。まあ、泣くというのは一種の自分をさらけ出す行為だ。既にそれを見られた水瀬に対しては話しやすかったのかもしれない。
さて、相談の内容を端的に表すなら、「ハブられたかもしれなくて悲しい」だろうか。こうまとめてしまうと大したこと無いようだが、当人にとってはそうではないのだろう。悩みとはそういうものだ。
話を聞いたところ、遠藤の悩みに関しては、遠藤の自信の無さが悪く作用している。それが過剰ともとれる悲観的な予想につながり、遠藤の心を沈ませているようだった。だが、遠藤は人に話しかけるのは苦手なのかもしれないが、家庭科部のためには心を尽くしているし、副部長として認められ、その仕事も適所ではしっかりとこなしている。俺からすればもっと自分に自信を持ってもいいと感じるんだが。だが自信というのあくまで主観的なものであり、あると思えばあるし、ないと思えばないものだ。同じ境遇や状況でも、ある人にはたやすく手に入る一方で、ある人はどれだけ求めても手に入らないこともある。
もう一つの原因は、ある種の裏切りを感じたからだろう。例えば、もし遠藤が今、元中学のクラスメイトにハブられたとしても、今更涙が出るほどは落ち込まないかもしれない。それは遠藤がそいつらとなれ合うことをそう望んではいないからだ。しかし、それと自分が受け入れてもらえたと思っていた家庭科部とでは話が違う。内心における認識と、現実世界とのギャップが衝動的な思いを抱かせることは少なくない。
ありきたりな、だからこそ普遍的で本質的な悩みだろう。水瀬がどのように相談に答えるのか気になった。
「つらかったですね。遠藤さんの気持ちが完全にわかるとは言いませんが、私も仲間外れにされたと感じるときの悲しい気持ちは覚えがあります」
水瀬が言う。共感から入るのはこの間熱心に読んでいた相談のハウツー本にそう書かれていたのだろうか、という捻くれた考えが浮かんだ。
「中学時代のつらい経験が、遠藤さんを悲しい気持ちにさせているのだと思います。でも私はそう悲観的に受け止めなくてもよいと思います。
あなた自身もおっしゃっていたように、そのクラスメイトと家庭科部の皆さんは違います。人格も、そしてあなたとの関係も。
人というのは無関心なものや縁遠いものには驚くほど残酷になれる生き物です。懐の寒い友人に食事をごちそうすることはあっても、遠く飢餓に苦しむ人たちのため寄付をすることは稀ですし、自分の家族が殴られればひどく怒っても、異国の紛争で亡くなった方のニュースは気にも留めないという人もいるでしょう。
あなたは一年間、家庭科部の皆さんと時間を過ごし、関係を築いてきました。中学のクラスメイトとは違います。あなたには彼女らへの親愛の情があり、彼女らはそれに応えるだけの思いやりがうかがえます。
家庭科部の皆さんは意味もなく遠藤さんを仲間はずれにする人たちだとは思えません。とりわけ小松さんは、あなたと特に仲が良かったのでしょう。なにか行き違いがあったのだと思います。例えば、日直であることを知って、仕事があるだろうから誘わなかったとか」
水瀬は遠藤の自分に対する自信に訴えるのではなく、家庭科部の皆を信じる心に訴えることにしたようだ。確かに、そのアプローチの方が遠藤に響きやすいように思った。
「あなたの思い出はきっと宝物です。けして偽物ではありません」
強く言い切る。その言葉は遠藤に対する励ましの言葉である以上に、どこか水瀬自身の、世界に対するかくあれという願望、あるいは信念を滲ませているように感じた。
「家庭科室はすぐそこです。話を聞きに行きましょう」
水瀬はすぐにこの悩みを解決しに行こうという意思を見せた。即断即決は凛とした水瀬らしい。
遠藤は悩んでいるようだった。水瀬の話には説得力があったと思う。俺も、話を聞く限り家庭科部に人たちが遠藤を単にハブるようなことはしないと感じた。それは遠藤にも伝わっているはずだ。だが中学時代の経験もあって、やはり家庭科部の皆の真意を確かめるのが怖くて踏み出せないのだろう。
遠藤はしばらく考え込んでいたが、やがて力なく首を横に振った。
「……すいません、今日は疲れてしまって。……今度、聞くことにします」
結局、遠藤はそう言った。水瀬は少し眉間にしわを寄せる。
「私は、今すぐに訳を聞いた方がいいと思います。おそらく遠藤さんにとって悪い結果にはならないでしょうし、それなら早く解決するに限ります。必要ならば、私が付き添ってもいいです」
確かに、早々に取り組んでおけば簡単に片付いたことが、誤魔化され、見逃されることで後になって深刻な障害として現れることはままある。それに、問題を抱えて生活することそのものも大きなストレスの種になる。テスト勉強などの何かの準備を、罪悪感を感じつつ先延ばし先延ばしにして、ぎりぎりになって取り掛かって、結局やり切れずになあなあな感じで本番に臨み後悔したといった経験には多くの人が覚えがあるだろう。
水瀬が付き添うのはちょっとやりすぎの感もあるが、まあ水瀬がいればうやむやになることはないだろう。確実に遠藤の悩みは解決されるはずだ。
だが、この件には俺も思うところがあったので口を挟むことにした。
「あー、ちょっといいか」
俺はこれまで黙々と課題を進めながら遠藤の話を聞き、水瀬の言葉も遮ることはなかった。傍観者に徹していた俺が口を出したからだろう、水瀬は俺に怪訝な目を向ける。遠藤も突然俺が話し出したことに少し驚いたようだった。
「何でしょうか?」
水瀬が応えると同時に、余計なことは言うなよ、と目線でくぎを刺してきた。
水瀬の相談に対する回答は見事だった。相手の悩みに共感し、説得力のある持論を展開し、解決の道筋をつける。水瀬の言う通りにすれば決して悪いことにはならないだろうと思う。
だがそれでもなお、遠藤は決断しきれないようだった。
そして俺は遠藤の話から、水瀬が、そして遠藤も意識していないであろう、あることに気が付いたことを自覚していた。ただし、それはこの場で明かすべきではないと思った。
だから、端的に俺は言った。
「明日でいいんじゃないか?」
「はい?」
もともと冷たかった水瀬の視線が極寒零度に変わった。非生産的なことしか言わねえなこのクズという思いが透けて見える。
「そう言うからには、そう主張する理由が何かあるのですよね?」
水瀬が問う。相談者である手前、遠藤相手にはきついことは言わないだろうが、俺相手なら水瀬は気兼ねなくボコボコに論破してくるだろう。
下手なことをいったら泣かされる。冷や汗を垂らしながら俺は言った。
「えーと、あれだ。やっぱり、遠藤本人の心の準備は必要だろう。言いたいこともまとまらない状態で行けば、不完全燃焼に終わるかもしれないし、かえってこじれるかもしれん」
とりあえず遠藤の心を盾に、水瀬の言葉の刃から身を守る。
「それに、今行ったら遠藤が泣いていたことはバレバレだし、そうなればどうなっても多少後味が悪くなるだろう。水瀬が付き添うのもちょっとやりすぎじゃないか。もしも今回の悩みの原因が軽い行き違いとかなら、もう少し軽い雰囲気で聞いた方がいい。そうだろう?」
正直どうあっても遠藤の悩みは遠からず解決されると思う。ならばその後の関係がより良い形になるのが理想だし、だからこそわざわざ俺が口を出すことにしたのだった。
「……一理あります。確かに、悩みを解決した後のことも大事です」
おそらく、水瀬もそのことは考えていたのだろう。俺に同意する躊躇はあったが、特に反感なく俺の主張は受け入れられた。
「しかし、今ならばまだ彼女たちは家庭科室にいます。決してうやむやにはなりません。可能性は低いとは思いますが、明日には説明を誤魔化されてしまうかもしれません。悪意はなくとも、話しにくい事情があれば。そうなれば遠藤さんは長く悩み続けることになります」
そう、俺と水瀬の違いはそこだった。俺はあることに気が付いた。だから、明日には遠藤の悩みが解決するであろうことがわかるし、もっと言えばなぜ遠藤が今日家庭科室に呼ばれなかったか予想がつく。しかし、水瀬はその具体的な事情は察していない。どうしても、時間を置くことで遠藤の悩みが解決されなくなってしまうリスクを捨てきれない。
だが、その事情は今明かされるべきではなかった。それに、その事情を踏まえたとしても、俺が口を出したのは自己満足やエゴに近い。
畢竟、最後は遠藤に委ねるのが道理というものなのだろう。
「ああ、今日にしろ明日にしろ、一長一短だ。結局は遠藤の気持ち次第だな」
そういって、俺はまたノートに課題を解く作業に戻った。もう俺から言うべきことはなかった。
「……そうですね。これは彼女の問題です。私が取り上げてしまうのも筋違いですね」
そして、水瀬も遠藤の返事を待った。時計のカチカチという音がやけに大きく響いて聞こえた。
しばらく遠藤は俯いて悩んでいたが、やがておずおずと視線を上げて言った。
「……やっぱり、今日は帰ることにします。今はどうしてもうまくみんなと話せる気がしません……」
「……そうですか。それも選択の一つだと思います」
水瀬は遠藤の選択を受け入れた。賛成はしていないが、納得はしているといった感じだった。
「ありがとうございます、相談に乗っていただいて。少し気持ちがまとまりました。それに、水瀬さんのおかげで少し勇気が出ました。明日の放課後、小松さんを家庭科室に呼んで話してみることにします。事の顛末がわかったら、伝えに来ます」
そう言って、俺たちに頭を下げてから、遠藤は席を立った。
「はい。放課後は大体この社会科準備室にいると思います。なにかまた相談事があれば、気兼ねせずいらしてください」
そして水瀬も席を立ち、教室の扉まで遠藤を先導する。遠藤は扉から出てからも、礼儀正しくこちらに一礼して、帰っていった。
「大丈夫でしょうか」
水瀬はなおも、遠藤のことが心配なようだった。俺は種明かしをしようかと思ったが、どうせ明日になればわかるだろうし、もし外していたら相当恥ずかしいので黙っておくことにした。それに、水瀬がこの程度のストレスでどうにかなるとは欠片も思えん。
「大丈夫だろ」
ほとんど確信に近いが、若干願望込みで俺は言った。もし万が一、俺の予想が外れて遠藤がもう一度相談に来たら羞恥と後悔と罪悪感で死ねる。
「それにしても、あなたが口を出してきたのは意外でした。クラスであなたが発言するところなんて見たこともないのに」
水瀬が言う。確かに普段の俺を知っているならば、口を出してきた事には違和感を感じるだろうし、何なら俺自身も自分らしくない行動だったと思う。
「……なんとなくな」
そう言って誤魔化した。水瀬もそれ以上は追及してこなかった。
遠藤が帰った数十分後、俺たちも教室を後にした。
帰り道を歩く。遠藤の来訪で遅くなった。頬を撫でる風は少し肌寒い。
いつもは夕焼けの裏に隠れている一番星が、顔を覗かせていた。
そして火曜日。月曜の朝はとりわけ気が重いが、普通に火曜の朝もだるいので一限は切った。俺は悪くない。切られやすい体をしている一限が悪い。
明日はついにゴールデンウィーク初日となる「昭和の日」だ。連休からは飛んでいるが、休みには変わりない。それを心の支えにし、二限以降の退屈な授業をやり過ごした。
放課後、いつも通り俺と水瀬は社会科準備室に集まったが、何となく水瀬はいつもより落ち着きがなく、そわそわしていた。
昨日の遠藤の件が気になるのだろう。彼女は今日、家庭科室で小松さんに話を聞くと言っていた。ちゃんと学校に来ているだろうか。
「遠藤さん、大丈夫でしょうか」
「気になるなら、ちょっと家庭科室を覗いて来たらどうだ」
心配そうにつぶやいた水瀬に提案してみた。水瀬が気になるならどうぞといった口ぶりだが、本当は俺も気になる。ある程度事の顛末の予想はついていたが、世の中に絶対はない。俺の口出しのせいで事がこじれてたりしていたら申し訳なさがやばい。
「しかし、野次馬のようなことをするのは失礼でしょう」
真面目で律儀な水瀬らしい。こいつは車の往来がなくても赤信号を渡るようなことはしないのだろうなと思った。ちなみに俺は余裕で渡る。周りにちびっ子がいたりすれば別だが。
「ちらっとならいいだろう。一目見て大丈夫そうなら帰ってくればいい。水瀬が行かないなら俺が行ってくる」
その言葉を受けて、水瀬は少し迷っていたようだったが、やがて立ち上がった。
「……あなたに行かせるのは不安です。私が少し見てきます。私がいない間課題をサボらないように」
そう言って水瀬は教室から出ていった。よし、これですぐに結果がわかるだろう。俺の予想があっていれば、一目見れば事が解決した事が分かるはずだ。
俺は真面目に課題をやっつけながら水瀬を待った。数分で帰ってくるかと思ったが、しばらく水瀬は戻ってこなかった。
まさか家庭科室が地獄絵図で水瀬が仲裁に入ったとかじゃないよな、と嫌な予感が首をもたげる。脇に汗がじっとにじむのを感じた。
じりじりとした時間が流れたが、水瀬が教室を出てから三十分くらいして、ようやく戻ってきた。
教室の扉を開けた水瀬は、何故か手に二つカップケーキを持っていた。
「遅かったな」
「ええ、家庭科室をこっそりのぞいたつもりだったのですが、遠藤さんに見つかってしまって。そのまま中に招かれてしまいました」
「事の顛末も聞かせてもらいました」と言って、水瀬は珍しく俺の正面に座った。
「それで、どうだった」
水瀬に尋ねる。緊張の一瞬だ。ごくり、と生唾を飲み込む。
それまで感情を伺わせなかった水瀬だったが、ふっと、その普段釣り目がちな目元を緩めた。
「最良の結末でしょう。遠藤さんも幸せそうでした」
そうか、じゃあ俺の予想は大きくは外れていなかったのだろう。ふうと安堵のため息を吐いた。
万事解決、良きかな良きかな。
「それはよかったな。そんで、そのカップケーキは?」
「遠藤さんから頂きました。相談に乗ってもらったお礼とのことで」
なるほど、そこまでしてくれなくてもいいのに、礼儀正しい奴だな遠藤は。だがありがたい。課題で頭を使ったもんで、ちょうど糖分が欲しかったところだ。
机の上に置かれたカップケーキの一つに手を伸ばすと、すすっと水瀬に避けられた。
「……なんだよ。二つあるってことは一つは俺のだろうが」
「いえ、遠藤さんは二つ下さっただけで、特にあなたにとは言っていませんでしたよ」
この女、珍しくわかりやすい屁理屈を並べてきやがる。遠藤自身が誰かをハブるような真似をするわけないだろうが。
「じゃあ何か?お前はそいつらを両方独占する卑しい女ってことか」
「別に、一つあなたに差し上げるのもやぶさかではありません。ただ、その前に質問に答えて頂きたいだけで」
そう言って、こちらに真直ぐ視線を向けてくる。思えば、こいつとまともに向き合うのは初めてかもしれなかった。
水瀬は言葉少なに尋ねてきた。
「知っていたんですか?」
何を、とは言わない。まあ、確かに「知っているか」を尋ねる質問でそこまで言ってしまったらウソつき放題だからな。
俺は正直に言うべきか少し迷ったが、もういいだろう。既に事は明らかになり、様子を見るに恐らく俺の予想は当たっていた。そして何より、脳が糖分を欲している。
俺は、それを口にした。
「……遠藤の誕生日が明日ってことは、察しがついてたよ」
水瀬は俺から視線を外さない。見極めるようにじっとこちらを見つめ続けている。
「……一応、あなたの予想した今回の件の全体像を教えてくれますか」
水瀬が問う。言葉をまとめるために少し時間をおいてから、俺は答えた。
「まあ、要するにサプライズだったんだろう。遠藤の誕生日は明日だったが、祝日で学校がない。高校の同級生ってのは公立の中学みたいに地元が一緒の連中ばかりではないから、休日に集まるのは骨が折れる。だから今日学校で遠藤の誕生日会をすることにした。昨日は誕生日会用に手作りの菓子を準備をしていたが、サプライズなので当然遠藤は呼ばれなかった。合っているか?」
「ええ、その通りです」
良かった。一先ず予想を盛大に外して恥をかくことはなかったようだ。肩の力が抜ける。
「私も、昨日遠藤さんの話を聞いたときに、何らかのサプライズの準備なのかもしれないとは思いました。しかし、虫の良すぎる願いのようにも思えましたし、もし違ったときに遠藤さんを落胆させることになるので口にはしませんでしたが。そういった、根拠のない予想ではないのですよね?」
再度水瀬が問う。水瀬もサプライズの可能性は考えていたと言ったが、恐らく本当で、見栄ではないだろう。水瀬にそんな噓は似合わないし、仲の良いグループで一人のけ者にされたと思ったらサプライズだった、というのはよくある話だ。俺自身も、遠藤から家庭科部の仲睦まじい様子を聞き、先にそういった話を連想してから、今回の件の事情に察するに至ったところがある。だが、それには拠り所となる閃きが確かにあった。
「根拠はあった」
「遠藤さんとは昨日知り合ったのですよね?」
「ああ、同じ学年である以上、廊下ですれ違うことくらいあったかもしれないが、遠藤という個人を認識したのは昨日が初めてだった」
「私が聞き逃していたのかもしれないですが、昨日誕生日の話が出てきましたか?」
「いや、誕生日の話はなかったし、遠藤も自分の誕生日を意識してはいなかっただろうな」
水瀬の矢継ぎ早な質問が止まり、沈黙が流れた。俺が何を根拠にしたのか考えているのだろう。
だが、結局思い浮かばなかったようだ。水瀬は深くため息をついた。
「……分かりません。では何故、あなたは遠藤さんの誕生日が明日だと分かったんです?」
答え合わせの時間だった。
「この間、俺が名前の話をしたのを覚えているか」
水瀬は少し考えていたが、すぐに思い至ったようだ。
「ああ、あなたがかやくが乾燥野菜くずの略称だというデマを得意げに披露したやつですか」
「それは忘れろ」
塞がりかけていた傷にもう一度刺してきやがった。因みにウィキペディア先生曰く、かやくは薬味を加えるという意味の加薬からきた言葉らしい。
閑話休題、話を続ける。
「あの時、具体的に何て言ったかまでは俺も覚えていないが、まあ、名前には意味が込められているといったようなことを話したろう」
水瀬はまだピンとこないようだ。言葉を重ねる。
「つまり、俺の名前も、水瀬の名前も、そして当然遠藤の名前にも、意味が込められてるってことだ。遠藤の名前を憶えているか?」
この質問には水瀬はすぐに返してきた。
「ええ、みどりさんでしょう」
「そうだな。遠藤の話にも出てきたが、彼女のしていた緑色の髪留めとセットで覚えやすかった」
割と核心に近いところまで話したが、まだ水瀬は思い至らないようだった。
最後のキーワードに触れる。
「もうすぐゴールデンウィークだな」
唐突な話の転換に、水瀬は怪訝な目を向けてくる。
だが水瀬は察しの悪い方ではない。俺の言わんとするところに思い至ったのだろう、目を見開いた。
そして、ついにその言葉を口にした。
「……もしかして、遠藤さんはみどりの日に因んで名づけられたということですか?」
「直接聞いたわけではないが、恐らくそうだろう」
水瀬は一瞬目に納得の光を浮かべたが、すぐに訝し気なものに変わる。
「でも、明日、遠藤さんの誕生日の四月二十九日は昭和の日ですよね?ゴールデンウィークの連休を構成するみどりの日は、五月四日です。近い日付ではありますが、生まれた子供に別日の名前を付けるなんてことがあるでしょうか?仮にあったとしても、遠藤さんの誕生日を明日だとピンポイントで予想する理由にはなりません」
当然の疑問だった。だが、あることを知っていればこの疑問は解消される。それさえ知っていれば、もしかしたら水瀬も自力で答えにたどり着いたかもしれない。
「確かに、明日生まれる子供にみどりの日に因んでみどりという名前が付けられることは稀だろうな」
水瀬は自分の疑いを肯定されるとは思わっていなかったのか、目を瞬かせた。
「だが、遠藤は明日生まれるわけではないし、名づけられるわけでもない。遠藤が名づけられたのは十数年前だ」
続く俺の言葉で、水瀬も思いついたのだろう、疑問に対する答えを口にした。
「……元々は、四月二十九日がみどりの日だったんですか?」
正解だった。やはり水瀬は察しは悪くない。
「そうだ。俺たちが生まれた頃、四月二十九日はみどりの日だった。だが、その後に祝日法の改正で、四月二十九日は昭和の日になり、みどりの日は元々国民の休日だった五月四日に移された」
「どうしてそんなことを知っているんですか」
呆れたように水瀬が言う。確かにこれは俺らのような若い世代にとっては比較的マニアックな知識だろう。この知識を求めたのは意地が悪かったかもしれない。
「俺の通ってた中学では、ゴールデンウィークの連休中は調べ学習が宿題でな。休みの日なんだから宿題なんて出さずに休ませろと思ったもんだ。その時に、安直だがゴールデンウィークについて調べた年があった。俺以外にも調べた奴が何人かいたな」
この返答を最後に、俺と水瀬の問答は止んだ。
俺の方から言うことはもう無かった。水瀬の的確な質問もあって、俺の予想の根拠は全部語り終えた。
水瀬からも、これ以上の追及はなかった。
「……そこまで察していたなら、どうして昨日遠藤さんに言ってあげなかったんですか」
少し間をおいて、水瀬から昨日の俺の行動に対する質問が飛んできた。聞かれるとは思っていたが、いざとなると返答に詰まった。
昨日俺が抱いた思いを、正直に答えるのは恥ずかしい気もした。今思えば、俺自身に対して何様のつもりだと感じるところもある。
煙に巻いてしまおうかと一瞬迷った。だが、水瀬の昨日の遠藤の相談に対する真摯な態度は、まあ水瀬になら明かしてもいいか、と素直に思わせるところがあった。
「……なんていうかな、これは俺のエゴみたいなもんなんだが」
それでも、残る気恥ずかしさを誤魔化すために一言前置きをする。
「多分、遠藤は中学まではつらい人生を送ってきたんだろう。ハブられていたこともあるし、自分の誕生日のサプライズに思い至らないんだから、友達に誕生日を祝われたこともないかもしれない。去年の誕生日は家庭科部の連中とも知り合ってすぐだったろうしな」
俺は、今よりも幼く、まだ緑色の髪留めをしていなかった頃の遠藤を思った。その頃の遠藤にとって、期待は悲しみの予兆でしかなくて、希望は絶望の種だったのかもしれない。俯くことが、身を守る術だったのかもしれない。
「少し話しただけだが、遠藤はいい奴だった。人見知りかもしれないが、思いやりも責任感もある。俺なんかよりよっぽど上等な人間だった」
家庭科部という居場所を手に入れ、それを大事に守ろうとする遠藤を思った。つらい目に遭い、それでも善性を保つ彼女は報われるべきではないのか。
「中学の件を引きずってるんだろうが、遠藤は異常なほど自分に自信がない。今回の件も、遠藤がもし多少楽観的な奴だったらサプライズに気づいて、しょうがない気づかなかったふりをしてやろうなんて考えた、その程度の事だったかもしれん。だが、遠藤はそういう考えが出来る奴じゃなかった。もう少し自信があるだけで、ずっと生きやすくなるのに」
幸せを手に入れてもなお、過去に引きずられる遠藤を思った。もっと彼女自身を、そして彼女の紡いだ繋がりを信じてもいいのに。彼女はもう、前を向いてもいいのに。
「でも、人に自信を持たせるなんてのは簡単なことじゃない。知り合ってすぐの俺が何か言ったところで、遠藤に響くとは思えなかった」
俺自身の無力さを思った。人との関わりを避けてきた俺には、遠藤を変えられるような力はなかった。励ます言葉をもたなかった。
「遠藤に自信を持たせるには、何かもっと、インパクトのある出来事が必要だと思った」
そして最後に、遠藤のことを思う、彼女たちのことを思った。
「……家庭科部の皆さんも、そう思ったのですね」
水瀬も、どうして家庭科部の連中がわざわざサプライズを計画したのか、思いが至ったようだった。
「ああ。自信のない遠藤に、もっと自分が大切にされていることを分かって欲しくて、サプライズの誕生日会を企画したんじゃないか」
水瀬が目を細める。今日の誕生日会の様子を思い出しているのだろう。
「そうですね。彼女たちは、本当に、仲が良さそうでした」
普段は少し冷ややかな印象のある水瀬だが、この時ばかりは、今日彼女たちから感じたぬくもりを確かめるような、穏やかな雰囲気だった。
正直、このサプライズ立案の事情は俺の妄想に近かったが、水瀬の様子を見るに当たらずとも遠からずといったところだろう。
「いたずらに人を不安にさせるようなサプライズは、俺は好きじゃない。だが遠藤のことを思って立てられた、彼女らの優しい計画は、俺の中途半端な種明かしで台無しにはしたくなかった」
「……なるほど」
水瀬も昨日、俺が事情を明かさなかったことに納得したようだった。
俺は、昨日自分が抱いた思いを全てさらけ出した。こんな恥ずかしいことそうそう人に言えるものではなかったが、水瀬は茶化さずに受け止めてくれるだろうと自然に思えた。
きっと、水瀬には人から話を聞く、相談相手としての素質があるのだろう。遠藤が昨日、赤裸々に事の次第を語った理由が少し理解できた気がした。
「思ったよりも話し込んじまったな。そろそろそれ、もらっていいか」
そう言って水瀬の手元に寄せられたカップケーキを指さした。もう教室の外に見える景色は赤みを増してきている。初めは糖分欲しさにカップケーキが食いたかったが、今は普通に小腹がすいてきた。
「ああ、そうでしたね」
水瀬はカップケーキを独占していることを失念していたらしかった。やはり、俺から話を聞く口実に過ぎなかったのだろう。
「差し上げます」
そう言うと水瀬はカップケーキを、何故か二つとも、俺に差し出してきた。
「……片方は水瀬の分じゃないのか」
「私よりも、あなたが受け取るべきです」
くそ、何か面倒なことを言い出した。
「私はあなたほど思いが及ばなかった。遠藤さんの悩みを早く、確実に解決することばかりに気を取られて、その背後にある事情を顧みなかった」
水瀬は昨日の自分の振る舞いを悔いているようだった。
「……別に、それだって悪いことじゃない。実際、昨日家庭科室に話を聞きに行けば遠藤はもっと早く安心できただろうし、多少気まずいかもしれないが家庭科部の皆の思いも伝わっただろう」
実際、そう思ったからこそ、昨日途中まで俺は口を出さなかった。
「それでも、中途半端な終わりを迎えたでしょう。私の指図のせいで、あるはずだった幸せな結末が失われていたかもしれません。……私には、これを受け取る資格がありません」
そう言って、水瀬は俯いた。
はあ、とため息をつく。水瀬の律義さは美徳だと思うが、こんなところで発揮しなくてもいいだろうに。
ここでじゃあ両方いただきますね、とかいう訳にもいくまい。流石に後味が悪すぎる。
「俺は昨日、問題解決の先延ばしを提案したに過ぎない。沈んでいた遠藤の心を励ましたのは俺じゃない、水瀬だ。もし遠藤が昨日のことを気に病んで、今日学校に来なかったりしたらどうなった?誕生日会自体、どうなってたか分らん。中途半端どころじゃない、全部台無しになっていた可能性もある」
本心からの言葉だった。事情が見えていようがいまいが、水瀬は今回の結末を導いた。
「昨日の水瀬の言葉には力があった。上っ面だけ取り繕った励ましじゃない、お前の心から吐いた言葉だったんだろう。相談に乗るってのは、人を励ますってのはこういうことなのかと思ったよ」
「俺は、お前の言葉に感動したんだ。だから、俺も出来るだけのことをしてやりたいと、一番良い結末を迎えられるようにしてやりたいと、そう思ったんだ。今日の結末があったのは、水瀬、お前が居たからだ」
差し出されたカップケーキの片方を、水瀬に押し返す。
「お前が受け取るべきだ。俺は食わん」
しばらくの間、水瀬は唇を噛みしめ俯いていたが、やがておずおずとカップケーキに手を伸ばした。
水瀬がそれに小さく口をつけるのを確認してから、俺も自分の分を頬張った。
家庭科部の連中が遠藤の誕生日会のために用意したものなのだろう。抹茶味だった。
微かな苦味の後に、ほろほろと優しい甘さがほどけていった。
カップケーキを食い、一服したところで課題を再開する。何せこれが終わらないと帰れない。
「それにしても、家庭科部の連中が菓子の準備をしているところを遠藤が見たのは不幸だったな」
俺は水瀬に言った。優しい思いばかりだった今回の件に一時影が落ちたのは運が悪かった。
「……私は、これも悪くはなかったんじゃないかと思います」
予想外に、水瀬は否定的なわけではないようだった。
「全部丸く収まった、あの幸せな光景を見れたから言える事なのかもしれないですけど」
前置きをしてから、水瀬は語った。
「何も予想していないフラットな状態で、今日誕生日会のサプライズを受けても遠藤さんは十分喜んだでしょう。でも、実際は今日の放課後まで不安な思いを抱えていた分、彼女はもっと劇的な幸福を感じたんじゃないでしょうか」
確かに、そういう効果があった可能性は否めなかった。
「中学までの人生経験から、遠藤さんは物事を悲観的に考える癖がついてるんだと思います。きっと彼女の世界は、今まで嬉しいことよりも悲しいことの方が多かったんでしょう。そんな風に世界は冷たくて、悲しいものだと思っている遠藤さんが、今回の件で、不意打ちというか、なんというか……」
水瀬はうまく言葉がまとまらないようだったが、ついには適切な言葉を見つけた。
「幸せな裏切りを受けたことは、遠藤さんにとって悪くなかったんじゃないかと、そう思います」
ようやく課題が片付いた。運動部はともかく、文化部の連中はそろそろ下校する時間だろう。
「終わったぞ」
「そうですか」
「……帰らないのか?」
「ええ、今日は相談者がこの後来ることになっているので」
なるほど、おそらく曽倉先生を経由した、本来予定されていた形での相談者だろう。その意味では遠藤の相談はイレギュラーだった。この時間ということは、相談者は自分の部活が終わった後で来るのだろうか。
まあ、自分には関係のないことだった。早々に思考を切り上げ、荷物をまとめ立ち上がる。
「じゃあ、先かえるわ。教室の鍵は頼んだ」
「待ってください」
水瀬の前の机に鍵を置き、帰ろうとしたが、珍しく水瀬が俺のことを呼び止めた。
「どうした?」
普段、俺たちの解散は非常にスムーズだ。別れを惜しむようなことなど欠片もない。だから水瀬が俺をわざわざ呼び止めたのは意外だった。
「えっと、その、つまり……」
当然理由があるものと思うが、水瀬は珍しく歯切れが悪くなかなか明瞭な答えが返ってこない。
「何だ?水瀬らしくない。はっきり言ってくれ」
そう言って水瀬と目線を合わせようとする。水瀬の目線は右へ左へと忙しかったが、最終的には諦めたようにこちらに向けてきた。
「……あなたも一緒に聞いてくれませんか?」
聞く?何を?
予期しない言葉に一瞬意味が分からなかったが、突然ここに音楽が流れだすわけでもあるまい。当然、この後予定されているという相談をだろう。
水瀬は「やはり第三者の意見は大事だと思いまして」とか「私は感情移入しすぎるところがありますし」とか色々とまくし立てていたが、単に恥ずかしいんだろう。今まで水瀬にとって俺は単位が足りなくて補修を受けている素行不良の生徒だったわけで、そういう奴に対する態度をとって来た。そこから手のひらを反すように助力を願うというのに抵抗があるのだろう。
まあ、つまるところ。
素行不良の囚人から、相談のアドバイザーに格上げ、ということらしかった。
ゴールデンウィークの祝日の法改正はたしか2005年で、当時ちょっとしたニュースになったのですが、今どきの若い子には意地悪な仕掛けだったかもしれません。